説教全文

2021年3月28日(日) 棕櫚(シュロ)の日曜日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」

マルコの福音書11章12-20節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の話題は、なぜ神の御子であるイエス様が救い主としての公の任務の最後の年、西暦30年に、エルサレム神殿の宮清めをされたのかということです。振り返ってみますと、イエス様は救い主としての公生涯を始められた時、即ち西暦27年度の過越しの祭りの時(ヨハネ2:13-22)も同じ様にエルサレム神殿の宮清めをしておられます。ですから西暦30年に行われた今回の宮清めは2回目の宮清めとなります。なぜイエス様は2回も宮清めを為され、そしてその後十字架の上で死んで行かれたのでしょうか。
 人間である私たちは、大事なことを人に伝える時や頼む時は、一度言っただけでは本当に伝わったのかが心配なので、念を押してもう一度言って確認することがあります。しかし神様の場合は違います。聖書では、続いて2回同じ内容の事が語られると、それは必ず実行されます。例えば創世記41章には、イスラエル人の先祖ヤコブの11番目の息子ヨセフが、エジプトの王様ファラオが見た2回の同じ様な夢の解き明かしをする場面があります。その時ヨセフはこの様に解き明かしました。創世記41章32節です。「夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。」
 イエス様は今週の金曜日に十字架上で亡くなり、葬られますから、天の父なる神様の許に帰られる前に、人間としてもう一度「神殿内を市場のようにしないでね。」と念を押すために、宮清めをされたのでしょうか。それともイエス様は人間でもありますが、神様でもありますから、この2回の宮清めを通して、近い将来、本質的な宮清めをなさるおつもりがあることを示すためだったのでしょうか。そのあたりの神様の詳しい意図を御言葉に聞いて参りましょう。

 本日の聖書箇所であるマルコの福音書11章には不思議な話がいくつか載っています。その第一は12節です。月曜日の朝、二回目の宮清めの前に、イエス様が「空腹を覚えられた。」と書いてあることです。イエス様は公生涯に入られた直後、悪魔に試みられた時、40日40夜断食をされたお方ですから、一日位の「空腹」には十分耐えられるお方です。第二番目の不思議な話は、13節です。イチジクのなる季節ではなかったのに、遠くに見えた葉の茂ったイチジクの木に向かって歩いて行かれたことです。イエス様は千里眼の持ち主の神様ですから、いくらイチジクの木が遠くても、実の有無が見えるはずです。三番目は14節です。イエス様は、その実のなっていないイチジクの木に向かって、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」と言われたことです。イエス様は神様ですから、もしイチジクの実が食べたければ、そのイチジクの木に実を実らすことができたはずです。それなのに、イチジクのなる季節ではないのをご存知であるにも係わらず、御自分が造られた自然に逆らったことを言われるのは、イチジクにとってみれば、心外と言うほかなく、かわいそうと言うものです。
 この様に見てくると、このイチジクの木は、これからイエス様が行おうとされていることを預言していると見ることができます。特に最後の言葉「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」は、呪いの言葉としか受け取れません。即ちイチジクの木は、信仰の実を実らせようとはしなかったユダヤ人の指導者たちを例えているように思えるからです。
 私共がイスラエル巡礼の旅をした時、色々な果物をいただきました。一番おいしかったのはその場で絞って飲ませてくれたザクロの生ジュースでした。直径10センチもあるような大きなザクロの実を圧搾機の上に置いて、レバーを一気に下におろすと、圧搾機の下に置いたコップにたっぷりのザクロ・ジュースが出来上がるのです。
二番目においしかったのがエリコの売店で買った干しイチジクです。これはおいしかったのでお土産に幾袋か買いました。先日家で西区のスーパーで購入したトルコ産の干しイチジクを夕食後に頂きましたが、その優しい甘さに、エリコの町で食べた干しイチジクの味を懐かしく思い出しました。

 私共のお話はさておいて、本日の聖書箇所に戻りますと、イエス様はすきっ腹をかかえて宮に入りました。宮の中には庭と呼ばれる三つの広場があり、一番大きな庭は「異邦人の庭」と呼ばれており、全ての異邦人、つまりユダヤ人ではない外国人たちも含め、男性でも女性でも誰でも入ることができました。このように異邦人の庭が一番大きいという神殿の構造そのものに、「ユダヤ教は、その本当の姿がキリスト教である」という、まことの宗教としての普遍性が示されていました。
 異邦人の庭はその名の通り、異邦人たちのための祈りの場所でした。しかしそこには過ぎ越しの祭りを祝うためにやって来た異邦人の改宗者たちの他に、ユダヤ国内からエルサレムにやって来たユダヤ人たちはもちろん、世界中から帰って来たユダヤ人たちもいました。というのは。ユダヤ人は年一回、男性も女性も一人当たり0.5シェケルずつ、神殿のシェケルで神殿税を払わなければなりませんでした。そのために異邦人の庭には、神殿のシェケルに両替するための両替人たちがいましたし、その他に、いけにえとして捧げるための動物を売る動物商人たちもいたからです。ですから、動物の鳴き声や匂い、動物商人の売り声や、値段交渉のおしゃべりや、チャリン、チャリンという代金を勘定する音や、神殿税を払うために両替する時の音が響き、まるで市場のようで、静かに祈りをすることがとても難しい環境であったことは想像に難くありません。
 この両替人たちや動物商人たちから神殿に納められるテナント料と言うのでしょうか、所場代というのでしょうか、この収入が半端でなかったことは容易に想像が付きます。ですから神殿の管理者たちはこの収入源を手放すことができませんでした。

 そんな大勢の人でごった返している異邦人の庭に、イエス様と弟子たちの一行もやって来ました。イエス様は前回と同じように、落ちていた縄を束ねて鞭を作り、大音声で「売り買いしている者たち」を追い出されたり、「宮を通って物を運ぶことを」禁じたりされたのでしょうか。私の想像ですが、多分そのような騒々しさに油を注ぐようなことはなさらず、彼らの心に、「この聖なる場所でそのようなことを行うことは神様を冒涜することである」という畏れ多いと感じる思いを入れ、まず静かにさせ、それから商人たちの使っていた台や腰掛けを倒したのではないだろうかと思っております。これはイエス様が神様であるからできることです。

 人々が静かになった所で、マルコの福音書11章17節に書いてあるように、イエス様は人々に教えて言われました。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」このイエス様が言われる、エルサレム神殿が「強盗の巣」であるとはどういう意味なのでしょうか。17節の脚注の(2)を見てください。そこには「エレ7:11」と書いてあります。それではエレミヤ書7章11節を見てみましょう。エレミヤ書7章11節にはこのように書いてあります。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた―主の言葉―。」このエレミヤ書の御言葉はこのような意味です。「わたしの名が付けられているこの家」とはエルサレム神殿のことです。次に、「あなたがたの目には強盗の巣に見えたのか。」という言葉の「あなたがた」とは神殿を誇っていたユダヤ人たちのことです。しかしこのユダヤ人が曲者でした。今開いておられるエレミヤ書の7章9節を見ますと、ユダヤ人たちは「盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲をささげ、あなたがたの知らなかった他の神々に従っている。」と書いてあります。バアルは異教の神様です。つまり神様から見て、ユダヤ人たちは、「強盗、殺人、姦淫、偽りの誓い、偶像礼拝」を神殿で白昼堂々とやっている強盗であるというのです。そして次のエレミヤ書7章10節で神様は言われます。「そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。」神様は、ユダヤ人たちが「強盗、殺人、姦淫、偽りの誓い、偶像礼拝」をやっていながら、神殿の神様の前に来て、「私たちは救われている」と言って、神殿を避難所にして、自分たちを正当化していると言われます。しかし神様から強盗と呼ばれているユダヤ人たちが神殿を避難所としていて、ただで済むでしょうか。当然、ただではすみません。その結果がエレミヤ書7章15節に書いてあります。「わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。」ここに書いてある「エフライムのすべての子孫を追い払った」出来事は紀元前722頃に起こったアッシリア捕囚のことです。このアッシリア捕囚で北イスラエルの10部族は滅んでしまいました。そしてこの15節の最後の御言葉「あなたがたをわたしの前から追い払う。」は、今度はエルサレム神殿を持つ南ユダの2部族も捕囚に遭いますよ、という恐ろしい預言の言葉でした。この預言者エレミヤの預言の通り南ユダは紀元前586年にバビロンによって滅ぼされ、ユダヤ人はバビロン捕囚の民となりました。そして今回、エレミヤ書7章15節の御言葉「あなたがたをわたしの前から追い払う。」を引用されたイエス様によって、このエレミヤの預言は新たな預言となり、この新たな預言はイエス様が十字架に掛けられた40年後の西暦70年に実現しました。エルサレムの町はローマ軍の総攻撃を受け、エルサレム神殿は町と共に破壊し尽くされました。町は陥落し、多くのユダヤ人が殺され、残った者は国外追放となり、散らされて、ユダヤ人は国を失い、流浪の民となってしまいました。ユダヤ人たちは第二次世界大戦後、1947年に漸くイスラエルの国を再興し、エルサレムを首都と宣言していますが、国連はこれを承認していませんし、エルサレム神殿が建てられていた「神殿の丘」には、金色に輝く屋根を持つイスラム教の「岩のドーム」とモスクが建ち、現在はイスラム教徒の礼拝の場所になっています。イスラム教徒以外の人は、観光客としてならば神殿の丘に入ることが許されていますが、そこで祈るなど、宗教的行事を行うことを禁じていますし、ユダヤ宗教法はユダヤ教徒が敷地内に入ることを禁じています。

 さて夕方になったのでイエス様と弟子たちは都の外に出て行かれ(マルコ11:19)、多分、ベタニヤに住むラザロさんの家に行かれたと思われます。そして翌日朝早く、イエス様御一行が通りがかりにイチジクの木を見ると、その木は根元から枯れていました。多くの葉っぱを青々と茂らせていたあのイチジクの木が、一日にして根っこから枯れてしまったのです。
 ユダヤ人は、立派な神殿を持ちながら、その裏では「強盗、殺人、姦淫、偽りの誓い、偶像礼拝」を行うという、異邦人よりもはるかに堕落した生活を送っている状態でした。それでいて自分たちは神殿によって守られていると豪語していたのです。そのように悔い改めようとしない、思い上がったユダヤ人に対してイエス様は、二回目の宮清めを行って、このユダヤ人を御前から徹底的に追い払うと予告されたのです。またイエス様は、このことを弟子たちに分らせるために、青い葉を多く付けていたイチジクの木を一日の内に枯らして、神様が行うならイスラエルの国もこのイチジクの木の様に、一日の内に、根っこから枯れてしまうと暗黙の内に示されました。
 イエス様は、3年前の宮清めの時、ユダヤ人に対してこのように言われました。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。(ヨハネ2:19)」この御言葉でイエス様はご自分が三日後によみがえる時、生ける神殿となり、イエス様のお名前で祈られる祈りは全て父なる神様の許に届くと言われました。そして今回イエス様はエレミヤ書の言葉を引用され「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」と言われて、まもなく、このエルサレム神殿の代わりに、わたし自身が生ける神殿になりますよ、と言われました。つまり、これからはイエス様御自身が生ける神殿となって、従来の石造りの神殿に取って代わられるということなのです。ですからイエス様は、「もう間もなく、あらゆる国の人々が、わたし、イエスの名で祈る、そういう時代になりますよ」、と言われたのです。イエス様は最後の晩餐の時に弟子たちにこのように教えられました。ヨハネの福音書16章24節の御言葉です。「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」どのような民族の人であっても、イエス様のお名前で祈る祈りは、イエス様という生ける神殿で祈られた祈りとみなされ、父なる神様の御許に届くのです。ですから、エルサレム神殿の役割は、イエス様の登場によってその役割を終えたことが分かります。そのことを弟子たちに理解させるためにイエス様は、イチジクの木を一日の内に枯らし、エルサレム神殿がもう二度と復活しないことを示されました。イエス様が二度にわたってエルサレム神殿の宮清めをされたことは、その役割を完全に終了させ、ご自分が「あらゆる民の祈りの家」となるためであったことが分かります。

 このようにイエス様は、3年前の宮清めの時「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」と言われて、ご自分が生ける神殿であると示され、それから3年後の今回、「わたしの家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と言われて、ご自分を信じるあらゆる民族の人々が祈ることのできる神殿、すなわちクリスチャン一人一人の心の内に存在する神殿であると教えられました。ご自分を信じる人がどのような民族に属していても、ご自分のお名前を通して祈る祈りは、必ず父なる神様に届くと保証しておられます。ですから、日本人の私たちもまず悔い改めて、イエス様を信じましょう。そしてイエス様のお名前を通して祈りましょう。どのような悩みでも、お願いでも、困っていること、やって欲しいこと、助けて欲しいこと、信仰を増して欲しいこと、なんでも遠慮なくイエス様のお名前を通して祈りましょう。祈りはただです。しかし神様からの祝福は豊かです。ですから、何をするにも祈りましょう。そしてすべての事を神様の力を通して行うのです。そうすれば私たちの人生は光り輝く豊かなものとなります。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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