今週の説教(説教全文)

2022年2月20日(日) 顕現後第七主日

書箇所 説教全文

説教全文

「あなたがたが量るその秤で、量り返してもらえる」

ルカの福音書6章27-38節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝は、本日の聖書箇所であるルカの福音書6章38節から「あなたがたが量るその秤で、量り返してもらえる」という御言葉を通して、神様が、何を私たちに語り掛けておられるのか、耳を傾けてまいりましょう。
 先週、私たちは、ルカの福音書6章17節から26節における「山上の説教」の箇所で、おそらく2万人以上の大群衆を目の前にして語られたイエス様の説教を聞きました。イエス様は説教を始める前にまず病気の人を全て癒され、一人一人に病気が癒されたという大きな奇跡を経験させて、ご自分に対する信仰を与えられました。それから「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」という言葉で、説教を始められました。イエス様は、「貧しい人とは、自分には罪以外何も誇るものが無く、自分は罪だらけであると自覚して、魂が神様の前でひれ伏している人のことです。いわゆる心から悔い改めた人です。こういう罪を悔い改めた人が神様から罪を赦(ゆる)され、神の国に迎え入れられるのです。」と教えられました。このイエス様の説教を聞いていた人は少なくとも2万人はいたと思われますが、この群衆のほとんどの人がイエス様を神様と信じ、信仰を得て、悔い改め、罪を赦され、天の御国に入る人々とされたことでしょう。
 この天の御国に入る人々とされた人々に対して、続いてイエス様は本日の説教箇所の御言葉を述べられ、これらの人々が取るべき適切な生活態度とはどのような態度なのかを教えられました。ですからこれからイエス様がお話されることは、私たち全てのクリスチャンにとっても、自分たちの生活態度をもう一度見直す良い機会を与えています。

 そこで私たちがクリスチャンとしての資質を保っているかどうかを判断する基準は、27節の御言葉です。「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。」イエス様はこの御言葉で、「敵を愛し、自分を憎む者たちに善を行え」と命じられました。しかし私たちに敵を愛する心構えがあるでしょうか。また私たちを憎む者に善を行う気持ちがあるでしょうか。愛することができない敵、善を行ってあげることができないほど自分を憎んでいる人を、どうしたら愛し、善を行うことができるようになるのでしょうか。
 その解決方法が、本日の聖書箇所の35節と36節の御言葉で示されている言葉です。「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」イエス様はこの35節と36節で「憐れみ深い」と言う言葉を3回使われています。神様が同じ言葉を2回使われたら、その言われたことは確実に実現します。ましてや神様が3回使われたら、私たちクリスチャンは神様の子供として、心から「憐れみ深く」ならなければならないことが分かります。ですから私たちクリスチャンには、この「憐れみ深さ」が、基本的な性質として確実に求められていると言うことができます。
 この35節の御言葉でイエス様は、どのようにしたら自分の敵を愛することができるようになるのか、その方法を示されました。その方法とは、「彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸す。」ことです。その方法の具体的な例が箴言25章21節と22節に記されています。「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」その良い例が列王記第二6章に載っています。イスラエルの王が、アラムの捕虜となった略奪隊を打ち殺そうとエリシャに提案した時、エリシャは次のように言いました。列王記第二6章22節です。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そして23節には次のように記されています。「そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。」このように、私たちの敵や、私たちを憎む者に対して徹底して良くしてあげることが、彼等の頭上に燃える炭火を積むことになり、彼らの心から憎む気持ちを取り去るだけで無く、彼らの心に感謝の気持ちを起こさせることもできることが分かります。
 敵とか、憎まれるとかとは違い、29節の頬を打たれるとか、あるいは上着を奪い取られるとかに到ると、気持ちの問題だけでなく、実質的な被害が生じてきます。頬を打たれるということは、かなり激しく打たれることも覚悟しなければなりません。でもイエス様はもう一方の頬も向けなさいと言われました。なぜイエス様はもう一方の頬も向けなさいと言われたのでしょうか。もしも私たちが理由も無く頬を打たれれば、私たちの心は怒り、憎しみ、恨み、そして激情で一杯となり、当然、冷静さを失ってしまいます。そうなると残っているのは相手に対する仕返しのみとなります。平和の君であるイエス様は、ご自分を信じるクリスチャンたちの心が、怒りで占拠されてしまうことを憂慮されました。そうならないようにと、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」と言われたのです。即ち、私たちクリスチャンにもう片方の頬を向ける「心の余裕」を持ちなさいと言われたのです。右の頬を打たれてカーッと頭に血がのぼるよりも、「左の頬も打ってよ。」と差し出す心の余裕を持ちなさいと言われました。態度が悪いとか、挨拶しないとか等、ちょっとしたことで気いらないからと言って頬を打ち叩く人は、反対の頬を差し出されたら、おそらく更に怒って左の頬も打ち叩くでしょう。それも右よりも激しく打ち叩くかもしれません。でも心に余裕のあるクリスチャンは、叩かれて痛かった、とは感じますが、心は復讐心に燃えることはなく、平然としていることができるのです。
 しかし「クリスチャンは無抵抗主義でいなさい」、と単に教えているわけではありません。そのことをイエス様は行動で示されました。ヨハネの福音書18章の22節と23節を見ますと、イエス様が捕らえられ、十字架にかけられる前に大祭司カヤパの尋問を受けた時、下役の一人が平手でイエス様を打ちました。その時イエス様はその下役に言われました。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」この時、イエス様は御自分の頬を打った相手を打ち返してはおられません。イエス様は言葉を用いて、打った人に打った理由を問うています。マルチン・ルター博士はこのイエス様の対応を、このように解釈しています。「あなたがたは、もう一方の頬を差し出すことと、殴った者を言葉で叱ること、この二つの間には大きな違いがあることを理解しなければならない。キリストは苦しみを受けながらも、その口には、何が悪いことなのかを、戒める言葉が置かれているのです。ですから、私たちは口と手を区別しなければなりません。口は悪を赦すために、即ち、何が悪かったのかその理由を明確にするために相手を追及しますが、手は復讐するためではなく、じっと耐えなければならないのです。」私たちは暴力に対しては暴力で応じたくなりますが、このルター博士の言葉から、それはクリスチャンの取るべき手段ではないということがわかります。それは「刑事法の範囲に入り、神様は暴力に対する裁きを国に委ねられている」のです。
 それではクリスチャンには何が委ねられているのでしょうか。クリスチャンには「憐れみ深い」という「愛の律法が委ねられています」。この愛の律法は、悪には悪で返すのではなく、悪には善で返すのです。ですから相手に頬を打たれたら、相手を手で打ち返すのではなく、言葉を用いて打った理由を相手に求めるのです。これがクリスチャンの取るべき態度である、とイエス様は示されました。なぜなら、使徒パウロがガラテヤ人への手紙5章22~23節で教えている通り、クリスチャンに求められているのは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実であるからです。
 イエス様は更に29節と30節で「あなたの上着を取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。」と言われました。イエス様が生活された当時のユダヤの国では、上着は貧乏人にとって、夜寝る時に寒さから身を護る唯一の手段でした。出エジプト記22章26節にも「もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。」と規定されています。このように、寒さから身を守って夜を寝て過ごすための上着しか持っていない貧乏人から上着を奪い取ることは、律法で禁止されています。ですから上着を取る人の対象は貧乏人ではなく、上着を二着以上持っている裕福な人となります。そのような裕福なクリスチャンにイエス様は、「あなたの上着を奪い取る者には下着も拒んではなりません。」と教えられました。この言葉によってイエス様は、自分よりも貧しい人たちに快く譲る憐れみ深さを示すように教えられました。
 31節でイエス様は言われました。「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」このイエス様の言葉は黄金律と呼ばれています。同じ境遇にいる人たちは、同じことを考えがちです。例えば病気をしたことのある人は、周りの人が色々と世話をしてくれたことを骨身にしみて感謝しています。ですから自分が健康になった時、病気の人をみたら、それとなくお世話してあげることができます。たとえ病気をしたことがなくとも、自分が病気だったら何をしてもらいたいかと考え、人にしてあげることはできます。したがってイエス様は32節から34節で、私たちが、「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても」、「自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても」、「返してもらうつもりで人に貸したとしても」、「どんな恵みがあるでしょうか。」と言われました。ですから「この世の罪人たちが行っていることと同じことをしただけでは、あなたがたに恵みはないのですよ」、とイエス様は言われるのです。
 その上、自分を愛してくれる者たちを愛するような打算的な人生はクリスチャンには似合わないと、イエス様は35節で指摘されました。「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子供になります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」この御言葉をイエス様は、36節で繰り返し、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」と強調されました。あなたの敵を愛してこそ、あなたはいと高き方の子供、即ちクリスチャンだ、とイエス様は言われます。あなたの敵を愛することが憐れみ深い態度だ、とイエス様は言われるのです。この「憐れみ深い」という性質が、イエス様の教えられる全ての行いの基本となっています。イエス様はこの「憐れみ深い」行為の例として、先の「敵を愛すること」以外に、37節と38節でその憐れみ深い行為を示されました。その一つ目は「人を裁かないこと」です。二つ目は「人を不義に定めないこと」、つまり「人を非難しないこと」、三つ目は「人を赦すこと」、そして四つ目は38節の「人に惜しみなく与えること」です。イエス様は38節で言われました。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」ですから私たちが「憐れみ深い」心を持つ人になるということは、私たちが御父の子供であることを表すのです。
 このイエス様の言葉から分かることは、私たちがこの世を去って天の御国に入る時、私たちクリスチャンには御褒美がありますが、問題は、そのいただく御褒美の大きさというか、重さというか、その程度が、クリスチャン一人一人によって異なるということです。それは、いただくご褒美が、私たちがこの世で用いた秤で量られるからです。このように、私たちがこの世で用いた升目や重りが用いられるので、多く受け取る者もいれば、少なく受け取る者もいるということになります。多く受け取る人は、この世で惜しみ無く与えた人であり、少なく受け取る人は、この世で惜しみ、惜しみ、与えた人ということになります。
 本日のイエス様のお話から、私たちクリスチャンは、この世でどのようにして過ごしたら良いのかが見えてきます。私たちクリスチャンは、この世において、人々に憐れみ深く接し、敵を愛し、憎む者には善を行い、呪う者たちを祝福し、侮辱する者たちのために祈り、人を裁かず、非難せず、返して貰うことを考えずに貸し、求める者には気前よく与えて日々を過ごしましょう。そうすれば神様御自身が、私たちが量った秤で量り返し、詰め込み、揺すり入れ、盛り上げ、気前よく私たちの懐に入れてくださると約束しておられます。ですから私たちは、熱心になって神様の恵み、即ち罪の赦しを、多くの人々に宣(の)べ伝えましょう。そして多くの人々と共に天の御国に凱旋いたしましょう。この世で福音を熱心に述べ伝えた人が受け取るご褒美は決して少なくないとイエス様は保証しておられます。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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