ルーテル教会とは

マルティン・ルター博士


マルティン・ルター博士(1483-1546)はローマ・カトリック教会の神父であり、ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授でした。彼は1513年から1530年にかけての神学上の重要教理(聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ)を再発見し、1517年10月31日にドイツのヴィッテンベルク市にある城教会の扉に意見交換を呼びかける「95ヶ条の提題」を貼り出しました。これが宗教改革の始まりとなりました。

聖書の原書はヘブル語(旧約聖書)とギリシャ語(新約聖書)で書かれていますが、中世において標準とされていたのは、ラテン語訳聖書でした。ラテン語が通じるのはごくわずかな教養人のみで、一般大衆には馴染みがなく、多くの人たちは聖書に直接触れる機会が有りませんでした。ルターは、教会ではドイツ語を用いるべきであると考え、聖書をドイツ語に翻訳し、出版しました。翻訳にあたり、ルターは人々が理解できるように、民衆が使用していた民衆ドイツ語を考慮して訳しました。

また、ルターは礼拝において、教会の聖歌隊だけではなく、全会衆が歌えるようにと、コラール形式の賛美歌を作りました。コラールは旋律を繰り返す、単純な形式の讃美歌で、現在プロテスタントの教会で使用している讃美歌のほとんどはコラール形式の讃美歌です。ルターは音楽にも通じていたので、自身でも作詞作曲しています。『神はわがやぐら』(Ein' feste Burg ist unser Gott)は一番有名なルター作詞作曲の讃美歌です。

マルティン・ルター博士とルーテル教会

中世ローマ・カトリック教会の神学の教義に対して異議を唱えるプロテスタント宗教改革は、マルティン・ルター博士が1513年から1530年にかけて「発見」した数々の神学的な教義がきっかけで始まりました。最初のプロテスタント達は、けっしてローマ・カトリック教会をバラバラにしようと意図して決別したのではなく、教会生活とクリスチャンの信仰と実践のために、聖書の教えを唯一の権威として確信すべきだと主張して譲らなかったために、破門されたのです。

今日に至るまでルター派教会の教義は、古代教会と中世教会の伝統から多くのものを受け継いでおり、伝統的礼拝式文をプロテスタントの聖書厳守主義に従って改訂して用いることによって、神の民の長い歴史の中に加わっているという自覚を持っています。この様にルター派教会は、教義を健全なものとすることに専念して組織的に発展させ、牧師に説教を思慮深く語らせる教会となっています。

「ルーテル」は当初、プロテスタント宗教改革の時代にマルティン・ルターの信奉者に付けられたあだ名でした。今日その名ははるかに多くのものを意味するようになりました。信仰義認のルターの教えは、プロテスタント主義の「隅の頭石(すみのかしらいし)」と呼べるものです。

マルチティン・ルター博士がローマ・カトリック教会に反抗した話はよく知られています。ルターの立場を、端的にまとめるならば、「教会と教皇には、霊的な事柄に対して神から何の権威も与えられてはいず、良心に対して最終的な権威を持つのは、祭司や教会ではなく、聖書である」、というものでした。「何であれ、聖書に逆らわないものは聖書のためにあり、聖書は聖書のためにある。」とルターは言いました。人が罪を赦(ゆる)され無罪とされるのは、良い行いをしたからとか儀式を行ったからではなく、また特に、ローマ・カトリック教会から発行された贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符とも言う)を買ったからでもなく、聖霊によって導かれた罪の悔い改めによるものである、とルターは考えていました。義とされることは信仰によるのであって、儀式によるのではない。そして、信仰は教会の命令に同意することではなく、キリストに対する心からの真摯な信頼である。「義人は信仰によって生きる」(ガラテヤ3:11)というのが最初から最後までルターの考えでした。ルターは、「個人の良心は神に対してのみ責任がある」と考え、また、「聖書は明白で、完全で、霊感によって書かれた信頼できる神の言葉であり、人類のための案内書である」と考えていました。神と、良心と、聖書、この 3つの上にルター主義は建てられています。

1529年、ルターは小教理問答書と大教理問答書を書きました。その一年後に、信仰の声明書であるアウグスブルグ信仰告白書がルターの同僚であったフィ リップ・メランヒトンによって執筆されました。1537年にシュマルカルド条項がルター、メランヒトン、それにドイツの宗教改革者たちによってまとめられ ました。

ルターの死後、1577年には根本信条宣言が作成されました。これらの信仰告白に関する書物が、1580年に『一致信条書』としてまとめられ、ルーテル教会共通の信仰告白書となりました。ルターの観念や神学の解釈としてのこれらの文書はルター主義の教義上の基礎となっています。
(Handbook of Denomination in the United States by Frank S. Mead, Abingdon Press 1995, pp174-175. 訳:若林學)

 

宗教改革記念日 10月31日

10月31日は宗教改革主日です。2017年は500周年記念の年でした。

宗教改革はマルティン・ルター博士が、大勢の人々が教会に集まる、全聖徒の日(11月1日)の前日であった1517年10月31日に、ドイツのヴィッテンベルク市にある城教会の扉に意見交換を呼びかける「95ヶ条の提題」を貼り出したことが発端となりました。

ルター博士の有名な言葉は「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」で、宗教改革の三大原理となっています。

          95ヶ条の提題 (1522年に刊行されたもの)

免罪符、正式名称:贖宥状(しょくゆうじょう) 販売の大口上

今から丁度500年前の1517年ヨーロッパ中の町々でこのような大口上が聞こえました。 この免罪符の布告は、経験のある販売人である、ドミニカンのテッツェルに委任された。彼は町に近づくと、高位高官たちに出迎えられた。その人たちは、それから彼と共に、おごそかな行列を作って町にはいった。法王の紋章のついた十字架が彼の先に立ち、免罪符の法皇勅書が、金の刺繍をしたビロードのクッションにのせて高く支えられていた。市の立つ広場に十字架をおごそかに立てて、説教が始まった。 「さて、お聞きなされ、神と聖ペテロがお前さん方を呼んでおられるのだ。お前さん方の霊魂や、亡くなった愛する人たちの霊魂の救いについて、とくと考えなさるがよい。司祭・貴族・商人・娘さん・ご婦人・青年・お年寄り方よ、聖ペテロの教会であるお前さん方の教会に、今おはいりなされ。お前さん方の前に立って、いつもお前さん方を熱心に求めておられる十字架に、参詣なされ。お前さん方は、世間の誘惑と危険のまっただ中で、恐ろしい嵐に打たれているし、お前さん方は、この死ぬべき肉体ではなくて、お前さん方の不死の霊魂の港へ、着くことができるかどうかを知らないのだ、ということを考えなされたのか。よいかな、痛悔をしていて懺悔し、寄進した人人はみな、凡(あら)ゆる罪の完全なお赦(ゆる)しを得るのだ。お前さん方の愛する亡くなった親戚たちや友人たちが、お前さん方に歎願して、『わしらを可哀そうだと思っておくれ。わしらは恐ろしい苦しみに会っている。お前さん方はほんの僅かの喜捨(献金)で、わしらをその苦しみから救い出すことができるのだ。』と言っている声に、耳を傾けなされ。お前さん方はそれをしたくないのか。耳をほじくって、父が息子に、母が娘にこう言っているのを聞くがよい、『私たちはお前を産み、養い、育て上げ、お前に財産を残した。ところで、お前は残酷で、無慈悲だ。今お前はほんのすこし私たちを自由にすることをも喜んでいない。お前は私たちをこの焔の中にいさせたいのか。私たちの約束されている栄光を遅れさせたいのか。』と。お前さん方は、かれらを救い出すことができるのを、忘れなさるな。なぜなら、 箱の中で硬貨(お金)が鳴るやいなや、 霊魂は煉獄(れんごく)から飛んで出る からだ。お前さん方は、それじゃ、四分の一フロリンでこの免罪のお符をいただきたくないのか。このお符によって、お前さん方は、神聖な不死の霊魂を、パラダイスの祖国へ連れ込むことができるのだよ。」 (「我ここに立つ―マルティン・ルターの生涯」ローランド・ベイントン著、青山一浪・岸千年共訳、日本ルーテル文書協会、1954年10月1日発行、73-75頁)  

この免罪符販売による多額の売上金が、ローマに建立中の聖ペテロ大聖堂の建築資金に使われていました。この免罪符販売に疑問を呈したのが、当時ローマ・カトリック教会の司祭であり、ヴィッテンブルグ大学の神学教授であったマルティン・ルター博士です。博士は、罪の赦(ゆる)しをお金で買うことができるのだろうかと多くの人々に考えてもらいたいと思い、討論会を計画しました。そこで博士は、討論してもらいたい項目を95箇条にまとめ、多くの人々が礼拝に集まる「全聖徒の日」の前日、10月31日に、ヴィッテンブルグの城教会の入り口の扉に掲示したのです。この「95ヶ条の提題」はすぐにラテン語からドイツ語に翻訳されて、印刷されてドイツ中に知れ渡りました。この討論会開催の通知が発端となって、宗教改革が始まったのです。 〔ちなみに、「現在の価値の比較すると、このころの労賃などから考えて、(3.5gの)金貨1枚=12万円、1gの銀貨=3000円くらいと想定します。(食料や物の値段を基準にすると、もっと少ない金額になります)」出典: http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/E024.htm〕

ルーテル教会の名前の由来

現在、全世界で約7,400万人のクリスチャンがルーテル教会の信者です。こんなにも多くの数のクリスチャンがマルチン・ルターの名前で呼ばれるようになったことは歴史上の偶然によって起こりました。 ルターは1521年のローマ教皇勅書によってローマカトリック教会より公式に破門されました。加えるに、その勅書はルターの追随者を『ルーテル』と呼んで異端者で分派主義者の烙印を押しました。当然、ルターと彼の追随者はそのような状況の元で個人的な名前が使われることに抗議しました。それで最初の50年間、ルターの追随者達は『福音派』あるいは『改革教会』として知られていました。 しかし、ルーテル教会と改革教会派(ジョン・カルバン派)教会の区別がはっきりとされるに及んで、ルーテルの名前はだんだんと浸透していき、30年戦争の終わり(1648年)頃には一般的に用いられるようになりました。

(The Religious Bodies of America by F. E. Mayer, CPH 1961, p127 若林學訳 copyright(c)2008 Manabu Wakabayashi All rights reserved)

ルターの紋章