説教全文

2020年4月5日(日) 棕櫚(しゅろ)の主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「光の子供となる」

ヨハネの福音書11章20-43節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 「棕櫚の主日」の礼拝の説教の聖書箇所は、ヨハネの福音書12章20~43節です。そして説教題は「光の子供となる」でございます。
四旬節も押し迫り、本日より聖週間が始まります。聖週間のそれぞれの日に、イエス様が何をしておられたのか調べてみました。その説明が書いてある本によって、少しずつ異なりますが、大体次のようです。

 本日の、聖日曜日には、イエス様は、棕櫚の枝を打ち振る大勢の弟子たちに前後を囲まれ、ロバの子に乗られて、エルサレムの町に入城されました。エルサレム神殿に来られたイエス様は、そこでギリシャ人たちと会われ、本日の会話が交わされています。
 そして翌日の聖月曜日には、イエス様はエルサレム神殿の宮清めをしておられます。
 そして聖火曜日には神殿で民衆に教えられ、この日の夕方ベタニアで、マリアから葬りの用意のためとして、高価な香油を頭に注がれました。
 聖水曜日には、イエス様は、エルサレムの町を出られてオリーブ山の付近に滞在し、そこで説教をされました。そしてこの聖水曜日に、弟子の一人であるイスカリオテのユダが祭司長たちの所に行って、イエス様を売り渡す陰謀を図っています。
 次の聖木曜日、すなわち種なしパンの祝いの第一日目には、弟子たちに過ぎ越しの用意を命じ、その夕方には弟子たち12人の足を洗い、弟子たちと共に過ぎ越しの食事をなさっておられます。この最後の晩餐の時に、「これから私を覚えてこの様に行いなさい」と命じて聖餐式を設定されました。その晩餐の後、ゲッセマネの園で祈っておられる時に、イスカリオテのユダに導かれてきた群衆に捕まり、大祭司カヤパの邸宅に連行され、そこで開かれたユダヤ人らの裁判の席で、死刑と宣告されています。
 翌日、聖金曜日の明け方から、ローマ総督ピラトの前で、裁判を受けられました。総督ピラトは「十字架に付けろ」と叫ぶユダヤ人の声に圧倒されて、いやいやながら十字架刑を承諾します。イエス様は午前九時頃に、ゴルゴダの丘で十字架に付けられ、午後三時ごろ息を引き取ります。そして安息日が始まる日没前に、お墓に、あわただしく葬られました。

 さてイエス様がロバの子に乗られてエルサレムの町に入城されたことは、たちまちエルサレム中に広まりました。マタイの福音書21章10節にはこのように書いてあります。「こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。」何しろ大勢の弟子たちが棕櫚の枝を打ち振って、イエス様の前を行く人たちも、後に従う人たちも、「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」と叫んでいたからです。
 この騒ぎを聞いた人たちの中に、幾人かのギリシャ人がおりました。彼らは過ぎ越しの祭りの礼拝に、出席するために、エルサレムに上って来た、ユダヤ教へ改宗した、人たちでした。彼らは当時ギリシャ語に翻訳されていた、70人訳旧約聖書を通して、ユダヤ教の中に、真の神様の存在を認め、先祖伝来の宗教を捨てて改宗したのですが、ところが、現実に行われているユダヤ教に接してみると、昔の人の言い伝えを守って日常生活を送れ、という、厳格な生活態度を求められていること知って、うんざりし、幻滅を感じていたのです。
 しかし彼らはそのような暗さを感じるユダヤ人の中に在って、イエスというお方の教えに何か希望の光を感じ、自分たちの求めていたものがあるという思いに満たされ、何とかこのお方に会いたいと願っていました。そして尋ね求めて会えたのが弟子の一人ピリポでした。彼らは、ピリポにギリシャ語で「キュリエ」と呼びかけました。21節です。これはミサ曲の最初の言葉、ラテン語の「キリエ」で、直訳すると「主よ。」です。新改訳聖書第三版は「先生」と訳されています。新改訳2017は「お願いします。」と、全く違う言葉に言い換えられています。
 ピリポはアンデレに相談し、二人でイエス様に取り次ぎました。多分、そこにギリシャ人たちも居たことでしょう。イエス様は訪ねて来たギリシャ人たちに「答えて言われました。」この「答えて言われた」という言葉遣いによって、福音記者ヨハネは、イエス様がギリシャ人たちに、とても丁寧に返事をされた様子を、伝えています。事実イエス様は24節で、「まことに、まことに、あなた方に告げます。」と、荘重な面持ちで話を、始められました。「まことに、まことに」と2回同じ言葉を繰り返されたのは、重要なお話ですよ、という意味です。「今からお話しすることは本当に真実です。」とイエス様は言われました。そして続けられました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。(23節)」今までイエス様の任務はユダヤ人だけに限られていました。その任務が終わろうとしているのです。その終わり方は、イエス様が栄光を受ける終わり方です。使徒パウロはこの終わり方をピリピ人への手紙2章8節と9節でこのように言っています。「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」 即ちイエス様は「十字架に掛けられる」と言われたのです。ですから本日の聖書箇所24節の「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」とは、イエス様の十字架を意味し、「豊かな実を結ぶ」とは、全世界の中から、ご自分を信じる人が大勢出て来る、ことを意味しています。この結果25節で示されているように、この世の物質的な暮らしを愛して、永遠の命であるご自分を信じない者は、この世限りで滅びると警告され、この世の暮らしよりも、永遠の命という霊的な神様である、イエス様を信じる者は、永遠の命を得て、永遠に生きると約束されました。
 そして26節でイエス様はご自分を尋ねてきたギリシャ人に言われました。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」この「イエス様に仕える」とは「イエス様を信じる」ことであり、「イエス様について行く」とは「いつでも、どこでも、なんでもイエス様の指示を仰いで、イエス様の知恵と力で行う」ことを意味しています。そうすればイエス様といつも一緒にいることになり、父なる神様がその人を天の御国に入れてくださり、全ての災いから守り、素晴らしい人生を送らせてくださる、とイエス様は約束しておられます。神様の報いは、この世とあの世の両方にまたがり、いかに手厚いかということが分かります。

 イエス様はご自分に会いに来たギリシャ人たちに向かって話し終えると、心が締め付けられるような痛みを覚えました。数日後にゴルゴダの丘の上で十字架に付けられているご自分の姿を見たからです。その姿は、ご自分の上に、古今東西の全人類の罪が、ヘドロのようにべったりと、何重にも張り付き、その罪の多さと、重さと、悪臭とのために、今にも窒息しようとしている、何ともおぞましいご自分の姿でした。イエス様は後ずさりしそうになりました。でも気を取り直し、ご自分の使命を思い起こし、この世でのご自分の最後の任務に向かって、敢然と歩み直したのです。
 そしてその任務が達成できるよう父なる神様に祈りました。28節です。「父よ。御名の栄光を現してください。」イエス様にとって一番大切なことは、ご自分を遣わされた父なる神様の栄光を現わすことでした。それは、御子イエス様を通して、父なる神様の御計画が実現し、父なる神様が褒め称えられるためでした。本日、聖書朗読でお読みましたピリピ人への手紙2章6節から11節に書いてある通りです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」
 父なる神様が御自分の栄光を現わされた第一番目は、なんといっても、イエス様が行われた数々の奇跡です。イエス様は、多くの人の病を癒し、多くの人の罪を赦(ゆる)し、多くの人を信仰に導かれました。多くの人が、イエス様の奇跡の業を通して、イエス様を送ってくださった父なる神様を褒めたたえたのです。
 そして第二番目の父なる神様の栄光は、人類の身代わりとしてのイエス様の十字架上の死です。イエス様は、古今東西の人の罪を背負って、十字架に掛かられますから、全ての人の罪が赦されます。その結果、すべての口が、『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神様をほめたたえるようになるのです。
 そして、このイエス様の十字架によって、悪魔である「この世を支配するものが追い出されてしまいます。(12:31)」すなわち創世記3章15節で預言された御言葉が成就するのです。アダムとエバを誘惑して罪を犯させた、あの蛇である悪魔の頭は、踏み砕かれてしまいます。
 こうして、イエス様の十字架は、古今東西の全ての人々の身代わりの死となり、全ての人が、信じる人も信じない人も、イエス様の所に引き寄せられ、この世の最後の日によみがえらされ、裁かれてしまいます。その結果、生前イエス様を信じた人は天国に導かれ、信じなかった人は地獄に落とされてしまうのです。

 ですからイエス様は、ご自分に興味があっても、なかなかご自分を信じようとしない群衆に向かって言われました。36節です。「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」光とはイエス様のことです。イエス様はヨハネの福音書8章12節で言われました。「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」イエス様は世の光です。イエス様を信じる人は、決して闇の中を歩むことが無く、命の光を持つのです。つまり、イエス様を信じる人は、命の光を持つ光の子どもになるのです。イエス様を信じると、イエス様がその人の内に入ってくださり、その人に永遠の命を与え、この世に在ってはイエス様によって守られ、導かれ、祝福された人生を送る者とならせていただけます。その人の中にはイエス様がおられますから、決して闇の中を歩むことはありません。
 それでは闇の中を歩くとはどのような状態を言うのでしょうか。世の光であるイエス様を信じていませんから、イエス様が35節で言われるように、「自分がどこへ行くのか分かりません」。つまり、なぜ自分がこの世に生まれてきたのかも知らず、どうやってこの世を過ごしたらよいのかもわからず、死んだらどこへ行くのかもわかりません。命の光を持ちませんから、結局、地獄の炎の中で、永遠にもがき続けることになります。

 最後に福音記者ヨハネは、預言者イザヤの預言を引用して、なぜユダヤ人がイエス様を受け入れることに失敗したのかその理由を述べています。40節です。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」ユダヤ人がイエス様を信じることができなかったのは、主がユダヤ人の目を盲目にし、心をかたくなにされ、信じることができないようにされたからだと結論しています。
 なぜ主はユダヤ人の目を盲目にし、心をかたくなにさせて、イエス様を信じることができないようにされたのでしょうか。その答えを使徒パウロが、ローマ人への手紙11章11節で述べています。「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。」そして同じくローマ人への手紙11章25節と26節の一部で、このように述べています。「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。」異邦人の救いが完成すると、次にイスラエル人の救いが完成すると使徒パウロは説明しています。

 この様な訳で、私たちユダヤ人でない異邦人は、世の光であるイエス・キリストを信じて光の子供とならせていただきましょう。イエス・キリストを信じてクリスチャンになったからと言って、宗教に縛られ、偏った見方をするようになり、幅広く学問が自由にできなくなるわけではありません。全く反対です。イエス様がおっしゃっておられるように、クリスチャンは光の子供です。命の光を持つ者です。自分がどこを歩んでいるのか、わかる人なのです。世の光であり、この世を創られたイエス・キリストに導かれているからです。イエス様に導かれ、神様が造られた興味深い世界探求に、夢中にさせられることは、間違いありません。
 反対にキリスト教を嫌って、この世の光であるイエス様を信じない人は、その人の内に光を持ちませんから、何処へ行くのか分かりません。全て手探りですから、良い成果を出すことは難しくなります。イエス様をその一人に持つユダヤ民族から、多数のノーベル賞受賞者を輩出しているのは、意味のあることです。
 ですから、イエス・キリストを信じて、光の子どもとならせていただきましょう。イエス様に導かれ、イエス様に守られ、イエス様に祝福された、光の人生を歩ませていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



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