説教全文

2020年3月29日(日) 四旬節第五主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「私を信じる者は死んでも生きる」

ヨハネの福音書11章1-27、38-53節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 「四旬節第五主日」の礼拝の説教の聖書箇所は、ヨハネの福音書11章1~27節、飛んで37~53節です。そして説教題は「私を信じる者は死んでも生きる」でございます。
 四旬節も押し迫り、本日は四旬節第五主日となりました。そして来週の日曜日は棕櫚の日曜日となります。いよいよイエス様の十字架に掛かられる日が近づいてきました。それで本日は、なぜイエス様が十字架に掛からなければならなかったのかというお話をいたします。

 さて先程お読みしましたヨハネの福音書11章17節には、「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。」と書かれています。ですから、イエス様は四日前に亡くなったラザロさんを復活させるために、ベタニアに来られたのです。
 18節を見ますと、ベタニアはエルサレムから南東方向に15スタディオン、約3キロメートル離れた村であることが分かります。オリーブ山の尾根を越えた東側のふもとに位置しています。ベタニアはエルサレムから近いので、19節には、「マルタとマリアのところには、兄弟の事で慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。」と書いてあります。この記述から、ラザロさんは、生前多くの人々と交友があった著名人である、と推定されます。また12章3節、4節、5節を見ますと、ラザロさんの姉妹のマリアさんは、イエス様が来られた時、純粋で、非常に高価なナルドの香油を1リトラ(約328g)取って、イエス様の足に塗って、自分の髪の毛で拭っています。この香油の値段がいくらだったのでしょうか。12章5節にイスカリオテのユダが見積もっています。「300デナリ」です。日本のお金に換算すると約300万円です。何と高価な香油を、マリアさんは惜しげもなく、イエス様の足に注いだことでしょうか。12章7節でイエス様がその理由を言われております。マリアさんはイエス様の葬りの日のために香油を注いだのです。このようにラザロさん一家は、多くの資産を持っていた裕福な家族であって、特にラザロさんは多くの良き働きをされた人であったと思われます。それで広い邸宅と、自前の墓地を持っていたのでしょう。
 しかし人生は良いことばかりが続くものではありません。ヨハネの福音書11章3節と4節を見ますと、ラザロさんの姉妹であるマルタさんとマリアさんは、イエス様に手紙を書いて、兄弟ラザロが病気で、癒して欲しいと依頼して来ました。ところがイエス様はその依頼にすぐには答えず、二日間その場でぐずぐずしておられました。ラザロさんが亡くなるのを待っておられたと思われます。イエス様は神様ですから、マルタさんとマリアさんが、手紙で知らせなくとも、ラザロさんが病気であり、そして亡くなることを知っておられたのです。ですからラザロさんが亡くなったことを知ると、その場所から立ち上がって、弟子たち共にベタニアに向かわれました。
 私はこの事の成り行きを見ますと、旧約聖書ヨブ記のヨブの家族のことを連想してしまいます。ヨブ記1章1節から3節にヨブが紹介されています。ヨブは誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れ、悪から遠ざかり、七人の息子と三人の娘が与えられ、羊七千頭、ラクダ三千頭、牛一千頭、雌ロバ五百頭、それに非常に多くの僕を持っており、東の人々の中で一番の富豪でした。サタンはこれを嫉妬して、神様に「あなたがヨブを祝福しているから、ヨブはあなたを恐れているのではないですか。彼の財産と家族とヨブ自身をも打ってください。そうすれば、彼はあなたを呪いますよ。」とけしかけます。それで神様はサタンがヨブを打つことを許します。ヨブは財産と家族を失い、自身も全身、悪性の種物に覆われる災難に遭いました。これを見たヨブの奥さんが言いました。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」ところが、ヨブは彼女をたしなめるのです。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」このヨブの最後の言葉がいいですね。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」この様に、ヨブは災難に遭っても、決して神様を呪うことはしませんでした。その結果、サタンは敗北し、神様はヨブの健康と家族を回復し、財産を2倍に増やされました。
 このヨブのお話から、イエス様が、ラザロさんの病気になったのをご存知でありながら、なぜすぐに姉妹の要請に応じて、癒しに行かれなかったのか、なぜラザロさんが亡くなるのを、待っておられたのか、見えてくるような気がします。11章4節を見ますとこの様にイエス様は言われています。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けるためです。」イエス様はここではっきりと、ラザロさんの病気とその死は、神の子であるイエス様が、栄光を受けるためのものである、と言われました。もっとはっきり言うならば、ラザロさんの病気とその死は、父なる神様が起こされたもので、イエス様がラザロさんをよみがえらすことによって、イエス様御自身が栄光を受けるためであると言われたのです。イエス様が「栄光を受ける」と言う意味は、「多くの人がイエス様を神様と信じるようになる」ということです。

 そのためにイエス様は、まずマルタさんの信仰の質を、新たにしようとされました。マリアさんの信仰に比べ、マルタさんの信仰は、一般的過ぎました。つまり知識的だったのです。心から信じまでには至っていなかったのです。それでイエス様とその一行はベタニアの村に着くと、イエス様は村の入り口から使いを出して、マルタさんを呼ばれました。
 マルタさんはイエス様に会うなり思いのたけを口にました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」イエス様が、自分達の要請に、すぐに応えてもらえなかったことを、恨めしく思っていたのです。それでイエス様はマルタさんに言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きかえります。また、生きていてわたしを信じる者は、誰でも永遠に決して死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか。」このイエス様の問いかけにマルタさんはこのように答えています。27節です。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」この彼女の信仰告白の言葉は、大変立派です。でもちょっとちぐはぐな感じがします。マルタさんはこの知識をどこから得たのでしょうか。ヨハネの福音書10章22節から39節に、イエス様がエルサレムで、宮清めの祭りに参加された時、ユダヤ人たちと行われた、やり取りが書いてあります。宮清めの祭りとは、今でも12月になるとユダヤ人の間で行われているハヌカーのことです。その10章24節でユダヤ人は言いました「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」するとイエス様は答えられました。25節です。「私は話したのに、あなた方は信じません。」次にイエス様は、10章36節でユダヤ人にこのように言われました。「『私は神の子である』と私が言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」ベタニアはエルサレムから近いですから、このイエス様とユダヤ人とのやり取りは、ベタニアまで伝わって来たと思われます。それでマルタさんは「イエス様は神の子キリストである。」という知識を得たのではないかと推測されます。マルタさんの信仰は頭の中だけの信仰であって、心で確信するまでに至っていなかったと思われます。ですが、もう一息です。
 イエス様がマルタさんに言われた言葉「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」この言葉は知識ではありません。心でそうだと信じる信仰です。つまり心でイエス様にしがみつくことです。頭で信じるのではなく、自分の心の中にイエス様をお迎えすることです。使徒パウロがガラテヤ人への手紙2章20節で言っている御言葉です。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」この言葉は新改訳第三版から取りました。大切なことは「よみがえりであり、命で」あられる「キリストが私の内に生きておられる」という実感です。この実感を心に経験されていない方は、是非イエス様にお願いして、経験させていただきましょう。何事もお願いしなければ何も始まりませんし、何もかなえていただけません。しかし、お願いすれば必ずかなえていただけます。

 イエス様は、マルタさんと弔問客であるユダヤ人たちを引き連れて、ラザロさんが眠っているお墓に行かれました。そのお墓は大変立派なお墓でした。立派と言っても私たちが日本で通常みるような、平地に磨き上げられた立派な石の塊を積み上げたお墓ではなくて、ほとんど垂直に削られた岩壁に彫り込んで作られた洞穴でした。
 私と妻は2013年にエルサレムを訪れ、イエス様が葬られたのではないかと言われている「園の墓」を見学しました。そのお墓は、岩壁に彫り込んで作られており、内部は立って歩けるほどの空間で、その一角に亡骸を安置する台が有りました。そして入口には大きな円盤状の石を転がせるように溝が掘られて、まさに聖書が述べているようなお墓でした。
 イエス様とマルタさんと弟子たちと、そしてユダヤ人たちは、ラザロさんが葬られているお墓に来ました。墓の入り口は石で塞がれていました。イエス様は人々に言われました。「その石を取り除けなさい。」するとマルタさんが叫んだのです。「主よ、もう臭くなっております。四日になりますから。」このマルタさんの叫びの言葉から、マルタさんが、イエス様のなさろうとしていることを、全く理解できていなかったことが分かります。ですからイエス様は言われました。「信じるなら、神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」マルタさんは、はっとして、イエス様の言われた25節の言葉、「私を信じる者は死んでも生きる」を思い出しました。そして、死んだ私の兄弟ラザロはイエス様を信じていた、ということ思い出したのです。マルタさんの心が、だんだんとイエス様に近づいて来ました。
 人々は、マルタさんがイエス様の言葉を受け入れた様子を見て、石を取り除けました。お墓の入口の前にイエス様は立たれ、顔を天に向けて祈られました。この祈りの言葉をギリシャ語から私なりに翻訳してみました。「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを私は知っています。けれども私の周りに立っている大勢の人々のために私はあなたに願いました。父よ、あなたが私をここに遣わされたことを人々が信じるためです。」この様に祈られてからイエス様は、非常に大きな声で呼びかけられました。「ラザロよ。出て来なさい。」ヨハネの福音書5章28節で、かつてイエス様は、ユダヤ人にこのように言われました。「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。」この預言の言葉通り、お墓の中から、死んでいたラザロが、手と足を長い布で巻かれたまま、のっしのっしと出て来たのです。この恐ろしい光景を見た人々はみな、「きゃあー」と言って逃げたでしょうか。いや、逃げませんでした。人々は、恐ろしさに震えながら、その後の展開を、かたずをのんで、見守っていたのです。その人々にイエス様は命じられました。「包帯をほどいてやって、帰らせなさい。」人々はイエス様に言われるまま、ラザロの両手両足の布を巻き取り、そして顔の布を取りました。その顔を見た人々は、きっと皆その場に座り込んでしまったことでしょう。そこには笑顔を浮かべているかつての懐かしい顔のラザロがいたのです。皆、安堵の喜びに満たされました。そしてイエス様を「まことの神の子キリスト」と信じたのです。

 このラザロのよみがえりを、目の当たりにした人々は、皆喜びに溢れ、その何人かはパリサイ人たちの所にも行って、彼らにイエス様がなさった素晴らしい奇跡を伝えました。この奇跡の報せを受けた祭司長たちとパリサイ人たちは、なんと、苦虫をかみつぶしたのです。さっそくサンヘドリンという名前の最高法院を開き、対策を練りました。「このまま放っておくと、全ての人がイエスを信じるようになり、自分たちは追い出されてしまう。そうなるとローマ人がやって来て土地も国民も我々から取り上げてしまう」、と恐れたのです。
 そこで大祭司のカヤパが言いました。「あなた方は何も分かっていない。一人の人が民に代って死んで、国民全体が滅びないですむ方が自分たちにとって得策ということを考えてもいない。」この大祭司カヤパの言葉を福音記者のヨハネはこのように解説しています。「カヤパはこの年の大祭司だったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、散らされている神の子らを、一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」「国民」とは大祭司カヤパから見て自国民であるユダヤ人のことです。そして「散らされている神の子達」とは全時代に渡って全世界中に散らばっているイエス様を信じる人たちのことです。つまり私たちクリスチャンのことです。このクリスチャンを天国に導くためにイエス様は死のうとされておられるというのです。即ち間もなくやって来るゴルゴダの丘の十字架刑のことを預言されました。
 このゴルゴダの丘の十字架は、聖書が教えている、今から約6000年の昔、エデンの園で、最初の人間であるアダムとエバが蛇に騙されて、神様の戒めを破り、善悪の知識の木の実から取って食べた時に、神様が蛇とアダムとエバに宣告された、救いの預言の成就です。創世記3章15節に書いてある御言葉です。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」蛇であるサタンはユダヤ人を用いてイエス様を十字架に掛けますが、そのことは同時に、イエス様が古今東西の全人類の罪の身代わりとなることを意味します。蛇であるサタンはイエス様を十字架にかけて殺したと思ったのでしたが、それは全人類を罪から解放してしまうことだったのです。こうしてイエス様は蛇の頭を踏み砕いて、人間の罪の解決を成し遂げてくださいました。

 この様にイエス様はラザロを死からよみがえらせることによって、ご自分が真の神の子キリストであることを示されました。そして誰でも、「私を信じる者は、死んでも生きる」と言われました。イエス・キリストを信じるということは、甦りであり、命である、生ける神の子イエス・キリストを私たちの心の中に宿すことです。そのためには、イエス様にお願いして、自分の心に入っていただくのです。そうすれば、私たちの心に入っていただけます。イエス様を心に宿した人は、死んでも甦る体に変えられ、この世に在りながら、天国に導き入れられます。ですから、甦りであり、命であるイエス・キリストを心に宿しましょう。そして、この世に在って、神様と交わり、神様から守られ、平安と喜びに満ちた人生を送らせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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