日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年9月17日 「ここにわたしの母がいる」 今村あづさ伝道師
レビ記19章17節
2017年9月10日 「空き家」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書12章43~45節

今日の説教題を、「空き家」としました。これは、今日の聖書の箇所で、一番大事な言葉が「空き家」だからそうしたのです。けれども、教会の表には説教題を貼ります。それを見た方が、「先生、これは?」と言うのです。確かに、これでは、「教会が」空き家です、と告知しているようにも見えてしまいます。
さて、今日の話の家は、空き家だけれど、きれいに掃除がされ、整えられていたようです。お客様を迎える準備ができているのに、誰も来ていない。そこに、追い出された汚れた霊が、今度はもっと強力な悪霊を連れて来て住み着くというのです。
「空き家になって」と言う言葉、ギリシア語ではスコラゾーと言う言葉なのですが、この意味について先ずは確認しておきましょう。この言葉は、「義務から解放されている」というのが、最初の意味のようです。だから、暇だとか、レジャーと言った意味となり、空き家と言う言葉に訳されているのだろうと思います。
一方、ギリシア人は、労働に携わる義務を負っていることについては、否定的な考えの人々もいたようです。食べるために働かなければならないという状況ではなくて、そんな状況から解放されて、本来自分のなすべき創造的な、クリエイティブな活動に専念する。そんな意味合いがあります。ですから、「空き家」と訳される言葉が、同時に「専念する」とか、「夢中になる」とか、と言った意味も持っているのです。
「掃除をして」というのは、「箒を使って掃き清められていた」と言う意味です。妙に生活感があります。
それから、「整えられていた。」と言う言葉も、いろいろな意味があります。「一定のルールに従って整える」と言うのが、元の意味のようです。そうすると、別の翻訳では、「飾り付けられていた」となっているものがあります。ローマの初代皇帝のアウグストゥスの言葉に、「戦いをやめ、一定のルールに従って整えよう」と言う言葉があります。この文脈ならば、「一定のルールに従って整えよう」とは、「秩序を取り戻そう」と言う意味になるでしょう。「戦いをやめ、秩序を取り戻そう。」と言う訳です。
これらの言葉の意味合いを考えると、「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」と言う聖書の箇所は、「掃除したり、秩序を取り戻すことに夢中になっていた。」と読むことも出来ます。新共同訳の翻訳が、不適切であるとは言えません。いろいろ考えましたが、まずは新共同訳のテキストの意味があるのですが、掃除や飾り付けに夢中になっていたという意味も、全くないとは言えない、と言ったところでしょう。
掃除や秩序の回復、あるいは飾り付けに夢中になっているのは、もう、悪霊は来ないと安心してしまっているということではないでしょうか。しかし、43節の悪霊の状態はどうでしょう?弱ってしまっている風でもありません。45節を読むと、性懲りもなく、別のもっと悪い霊を引き連れて、つまりパワーアップして、もう一度やってくるわけです。より強力な悪い霊がやってくる心配をしなければならなかったのに、敵は退散した!と安心して掃除にいそしみ、平時の秩序を取り戻そうとする。つまり、平安を取り戻そうとする。甘いよ、と言う訳です。悪との戦いは、終わっていないよ、と言う訳です。
せっかく、悪霊が追い出されたのに、また来るよ、もっと強力になって戻ってくるよ、と言うこの状況は、どうしてなのでしょうか。どうにかして、この状況から、安心して暮らせるようにはならないのでしょうか。そこで、「空き家」と言う意味が、もう一度、大事になって来ます。
汚れた霊は、どうやって人から追い出されたのでしょうか。間が空いているので、ちょっと分かりづらいのですが、「霊」については、18節から触れられ、22節から32節まで、論争が続いていました。28節を見ると、霊を追い出すのは、イエス様です。18節で、イエス様は神様によって選ばれ、神の霊を授けられていました。そして、神の霊を使って、人々の悪霊を追い出していたのでした。そうして、イエス様は、それによって神の国がわたしたちの所に来ていると、仰っていました。
ところで、神の国とは、神様のご支配と言うことです。わたしたちが神様のご支配に入れられるとは、神の霊を受け入れるということです。そして、イエス様のところに行くことによって、わたしたちは神の霊をいただくのでした。
せっかくイエス様によって汚れた霊を追い出していただいたのに、神の霊を受け入れないので、もう一度戻って来てしまうのです。もっと、パワーアップして、別の形を取って、戻ってくるのです。イエス・キリストによって、神の霊をいただいていなければ、悪霊を追い出していただく前よりも、状況はもっと悪くなるよ、イエス様はこう言っている訳です。

さて、話しは変わりますが、最近、DVDで「海街ダイアリー」という映画を観ましたので、考えたことを少しお話したいと思います。
是枝裕和監督の映画で、2015年に公開されました。原作は、吉田秋生のコミックです。三姉妹が鎌倉の古い民家に住んでいます。両親は離婚して、それぞれこの家を出て行っています。お祖母さんに育てられていたのですが、そのお祖母さんも数年前に亡くなっています。ただ、既に三人共、仕事をする年齢になっています。
お父さんが亡くなった、という知らせを受けるところから物語は始まります。秋田まで葬儀に出掛けるのですが、そこには中学生になった腹違いの妹がいました。妹の母親は既に亡くなっていて、父親が無くなった今は、父親の三度目の結婚相手の家に住むことになる。血の繋がりのない継母とその幼い子どもたちと一緒に住むことになる。そこで、三姉妹は妹を引き取ることに決めるのです。
映画で、原作のコミックに書かれたそのままの家が出てくるのには驚きました。庭付き一戸建て築数十年の和風木造住宅で、庭には庭木がうっそうと茂っています。たくさん実を付ける梅の木があって、その梅で梅酒を漬けるのが、姉妹の毎年の恒例行事になっています。伝統的な生活をしていることが見てとれます。仏教的でもあります。葬儀が2回、法事もあります。一階の茶の間の隣の部屋には仏壇があって、毎朝手を合わせる。一方で、長女の仕事は看護師で、ターミナル・ケア病棟で働くことになっていたりします。
現代的な仕事と伝統的な生活が当然のこととして描かれているこの映画は、国際映画コンペティションに出展されたので、外国の評価者にも興味深かったことと思います。けれども、コンペティションでは一つも賞を取れなかったことも、覚えています。どうしてなのか、と考えてみました。
実は長女は、奥さんのある人と不倫をしています。次女は呑みに行って意気投合した男の人と一夜限りの関係を結んでしまいます。彼女たちの父親は不倫の末、家を出て行ったわけですし、母親はそのあと別の男性と再婚をし、家を出て姉妹を顧みることもありませんでした。両親に対しては、彼女たちは怒りと軽蔑の感情を持っています。けれども、自分たちも同じ「業」---仏教的な用語ですが---を持っている。「業」と言うのは、欲望ということで、キリスト教的に言えば「罪」ですが、そういったものを自分たちが抱えていることに気づいて行きます。気づき、そのようなことをやめる。そのことは、なんとなく描かれているのだけれど、その心の葛藤のようなものは、多分、外国の方が期待するような、あるいはよく知っているような悔い改めと言った形では映像で見ることはなくて、なんとなく、そうなっている。もちろん、そこに罪の深淵と言ったものを、彼女たちは見ているのですが、きちんと描かれていない。日本人だったら、分かるところですが、そこがキリスト教のバックグラウンドを持つ人たちには分かりづらかったのではないかな、と思うのです。
映画の最後は、腹違いの妹が、「わたしはここにいてもいいのね。」と言って終わっています。彼女は、自分の母親が、お姉さんたちから父親を奪ったことを考えていたのです。父親を奪った憎むべき女の娘としての自分が、ここにいていいのか。それが彼女の問いでありました。そして長女は、自分自身の不倫を乗り越え、心から「いて欲しい」と言います。自分の罪に気付き、悔い改めて行く。父親、母親に対する赦せない思いがあって、しかしそれでも「愛している」あなただからこそ、ここにいていいのだ、わたしたちはあなたを引き取る義務があるというよりは、あなたにいて欲しい、ということだと思います。
日本の悔い改めは分かりづらいと感じるのは、パワーアップした別の霊がやって来た時に、また支配されてしまうんだろうな、と感じるところです。イエス様がいないと、そこはあくまで地の民として、生涯、罪にまみれた生活を続けるのだろう、と思うのです。
映画の中で、大人たちの会話を通して、罪が語られます。登場人物の一人は、ヒマラヤ登山で、欲を出したために悪天候に見舞われ、凍傷で足の指を6本、失うことになりました。しかし、その彼が、遥か上空に、ヒマラヤ山脈を越えて行くアネハヅルの群れを見たという話しをするところがあります。それは、とても美しい情景だった。欲を持ちそのよくによって滅ぼされた自分に、そんな天上の世界を見ることが許されるとは?そこに自分が行くことはできないけれども、見ることは許された。そのような喜びがあります。
黙示録4章にも、似た話があります。天上では、父なる神、子なるキリストを中心として、御使いや聖なる獣、そして聖徒たちが常に神を賛美しているというのです。そして、わたしたちは、時々、その天上の礼拝を仰ぎ見ることができる。教会のプリンターを置いてある場所の壁に、そんな絵も飾ってあります。
私たちは、その天上の宴会の席に、いつか招かれる希望を持っています。仏教的には、そこは見ることを許されているだけなのでしょうか。それとも、連れて行ってくれる人が来ることを願うのでしょうか。わたしたちには、いつか、地上の様々な罪から解き放たれて、神の身許に向かう希望が与えられています。
12章の始まる直前、11章28節には、イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃっています。すべてのことは、父から御子キリストに任されています。わたしたちの救いもまた、この方に掛っているのです。
悪霊を追い出していただいたら、もう二度と悪霊に支配されないようにしようというのが、今日の聖書箇所の結論でしょう。だから空き家ではなくて、神の霊を迎え入れる。そのためには、イエス様に堅く結び付くということです。
せっかく神の霊によって、悪霊を追い出していただいても、神様の霊にご支配していただかない限り、悪霊はまた、戻って来ます。パワーアップして戻って来ます。神様の霊にご支配していただけるように、すべてのことが任されているイエス様にしっかりと繋がっていきましょう。
お祈りいたします。
在天の父なる神様。わたしたちは、自分では自分を救えません。あなたにより頼んで生き、真の平安を得させてください。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

2017年9月3日 「預言者ヨナのしるし」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書12章38~42節

イエス様とファリサイ派との間の論争は続いています。律法学者とファリサイ派は、イエス様に「先生、しるしを見せてください。」と言います。
しるしというのは、イエス様が神から遣わされた救済者、キリストであることを認めることのできるような奇跡のことです。
イエス様は、22節で、悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人を癒しました。それを見た群衆は、びっくり仰天して、「この人はダビデの子ではないだろうか。」と言い合います。ダビデの子とは、神の子、メシア、キリストということです。群衆は、この奇跡を、イエス様が神から遣わされたキリストであると認めることのできる奇跡と受け取ったのです。
しかし、ファリサイ派の人々は、イエス様は単なるエクソシストに過ぎないと考えました。悪霊を追い出す奇跡は、この時代、何人もの人々が行っていたのです。そして、エクソシストは、ユダヤ教の聖職者の改装の中では、低いものでした。親分がいるはずだ、その親分は神ではなくて、悪霊の頭ベルゼブルだろう、と彼らは考えたのです。
イエス様の福音を告げ知らせている奇跡を見ても、彼らはこんなものでは証しにはならない、もっとはっきりした奇跡を見せろ、というのです。「邪で神に背いた時代の者たち」と、イエス様は、このような人たちのことを呼んでいます。イエス様によって、主なる神が現されているのに、イエス様を信じない人たちということです。
今日の箇所は、マルコによる福音書でも、ルカによる福音書でも、該当の箇所があります。少しずつ書いていることが違います。
先ず、マルコによる福音書では、どうでしょうか。目の前に神様の業を見ても、信じることができない人々に対して、マルコによる福音書でイエス様はこう言います。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」しるしは与えられないとは、その人にとっては救い主は来ない、ということになるでしょう。
次にルカ福音書です。ルカ福音書の場合は、マタイ福音書と大体、書いていることは同じなのですが、40節に当たるところがありません。そうすると、どのような解釈になるでしょうか。129ページの該当の箇所を読んでみます。ヨナのしるしと南の女王の事が出てきます。ニネベの人々も、南の国の女王も、立ち上がってしるしを欲しがる人たちを裁くだろう、とイエス様は言っています。
ニネベと南の国の女王に共通しているのは、異邦人だということです。ファリサイ派の人々は、神様に選ばれた者として、非の打ちどころのないものとなろうと努力をし続けていました。それなのに、よりによって、自分たちが異邦人に裁かれるとは!「ここにソロモンにまさるものがある」「ここにヨナにまさるものがある」と、イエス様は言っています。ソロモンやヨナというイスラエル人の素晴らしい人々よりも、異邦人がまさるものがある、それは悔い改めだ、というのです。イスラエルの人々が、イエス様を受け入れないのであれば、それは罪人と言われて来た人々によって裁きの対象となる、ということです。
ここで、南の国の女王と一緒に考えられているヨナのしるしとは何でしょうか。悔い改めた、と書いてあるのですから、ヨナ書の3章のことだと考えられます。3章1節~10節を読んでみましょう。
ルカ福音書での解釈は、こうです。イエス様は、悪霊に取りつかれて目が見えず口もきけない人を癒しました。群衆は、イエス様が神の子だと言い始めます。ところが、敵対するファリサイ派の人々は、これでは十分ではない、わたしたちはまだ、イエスは神の子であるとは考えられない、と言います。そこで、イエス様の裁きの言葉は、「あなた方、真理を真理と受け止めない人々は、終わりの日に、神様に立ち返った人々、しかもその中には異邦人さえ含まれているような人々によって、裁かれるんですよ」という訳です。
ところが、マタイによる福音書では、40節が入っています。これだけで、ルカ福音書とは、意味合いは随分変わって来ます。ヨナのしるしは、3章のことではなく、先ほど聖書朗読で読んでいただいた2章だと考えられるのです。
ヨナは2章で大きな魚に飲み込まれるのですが、どんな事情だったでしょう。1章でヨナは、主なる神によって、ニネベの都に悔い改めを呼び掛けるよう、召命を受けます。しかし彼は、逃げ回ります。ニネベは、アッシリアの都です。チグリス川の中流にあるのですけれど、ヨナはそこへは行かないで、タルシシュ、つまり今のスペインへ行く船に乗り込むのです。しかしながら、海が荒れ、それは主なる神にヨナが逆らったからだということが明らかになります。…この辺は、神の召命に逆らうとどうなるか、ということを示しているのですが…そして彼は、彼もろとも荒れ狂った海の藻屑とされることを恐れた人々によって、海に投げ込まれます。
さて、海に投げ込まれたヨナは、誇大な魚に呑み込まれます。タルシシュ行きの船に乗り込んだのは、ヤッファ、使徒言行録にも出て来るエルサレムから西に降った港町、今のテルアビブの町の一部です。クジラのモニュメントなどもあって、ヨナの話を思い出すことができます。
ヨナは、魚の腹の中に三日三晩いたのですが、これはヨナの祈りを見れば分かるように、陰府の世界として考えられています。そして、ヨナは、陰府の滅びの穴から神によって命を引き上げられます。神の救いの信仰を歌うのです。
40節では、ヨナのように、「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」とイエス様が仰います。ここで、「人の子」というのは、終わりの時にやって来る神的な存在の人間、つまりイエス様のことです。イエス様の十字架の死と三日目の復活を預言しているのです。
今日の箇所は、イエス様の十字架の死と三日目の復活を預言している箇所としては、マタイによる福音書の中で最初の箇所となります。14節でファリサイ派の人々がイエス様を殺すことを決議したり、イエス様の奇跡物語から受難物語へと、物語は進んで行くことを感じさせる12章です。
ルカ福音書では、ヨナのしるしとは、イエス様を神の子だと信じないイスラエル人が、終わりの日に異邦人によって裁かれることでした。異邦人の側からすると、これは福音、良き知らせ、となるかもしれません。一方、マタイによる福音書では、ヨナのしるしとは三日後の復活のことです。十字架の死の後に、三日後に甦ることが、イエス様が神の子であることを示しているとマタイは言いたいのです。
これまで、イエス様が神の子である、救い主であるということは、さまざまな奇跡によって、示されて来ました。さまざまな奇跡に対して、群衆は「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言い、とうとう「この人はダビデの子ではないだろうか」と言い出すのですが、そのことを最終的に決定的に示すのが、十字架の死と三日目の復活であると、マタイはここで主張するのです。

十字架と復活こそが、イエス様を通じて顕わされた神様のみ旨であると、キリスト教会はずっと考えてきました。このことは、使徒信条でイエス様について、「処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」というところに現れています。つまり、誕生とご受難、復活、高挙しか、使徒信条には入っていないのです。さまざまな奇跡や、たとえ話をしたこととか、論争をしたことなど、一つも入っていない。見事にご受難、復活、高挙に集中しています。ご受難と復活にこそ、わたしたちの救いがあると信じて、そうなっているのです。
十字架の死と復活によってこそ、イエス様は、どうしても罪に囚われ続けなければならないわたしたちを解放してくださいました。復活のキリストの悪の力に対する勝利。これは、それまでも以後も、誰にも出来ない一度限りの、出来事でした。イエス様は、まったく新しいことを、やってのけたのです。それによって、わたしたちには、新しい生き方ができる可能性が開かれました。
この世界によって犯罪人として処刑されたイエス。世の中は、イエス様を否定し、捨て去りました。捨て去ったつもりでした。しかしこの方を父なる神は、復活させてくださいました。その復活の力は大きく、一人ではどうしようもない罪に囚われている私たちに及びます。この復活のキリストのお力によって、わたしたちもまた、わたしたち一人一人が縛られている縄目を解いていただき、神様の命に生きる自由をいただいているのです。
ヨナ書2章7節後半から10節を読んでみます。ゲッセマネの園で、迫りくるご受難とたった一人で戦いながら、イエス様は、「救いは、主にこそある。」と祈りました。神が、命を滅びの穴から引き上げてくださると、信じました。このお姿にこそ、わたしたちの救いの根拠があります。この復活の主イエスをわたしたちは信じて行くのです。
お祈りいたします。在天の父なる神様、イエス様の十字架と復活によって、わたしたちに新しい命が与えられました。この命を喜びながら、今週一週間を生きて行くことができますように。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りいたします。アーメン

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