日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年12月31日 「喜びにあふれる旅」 今村あづさ伝道師
マタイ福音書2章1~12節

2017年12月24日 1.第二礼拝(10:30~)
「飼い葉桶の救い主」 今村あづさ伝道師
ルカ福音書2章1~7節

暫く前、神学校時代の同級生がfacebookで、「優しいおじさんが復活してびっくりする話」という書き込みをしていました。聖書の事を言っているのだと気づくまで、少し掛りました。気づいてから、暫く、なるほどねえ、と感心していました。神学校時代に、礼拝学の教授から、「福音とは一言で言えば何ですか?」と授業で問われ、クラス皆で答えに苦しんだ覚えがあります。誰が思いついたのかは分かりませんが、これも一つの答えなのだろうと思いました。
しかし、その友人は、突っ込みを入れていまして、それが、わたしには「そっちか!」と言う突っ込みでありました。「おじさんかよ!」そうか、中高生からしたら、おじさんかもね、と。彼は、普通の大学を卒業して、そのまま大学三年に編入して来たので、大体、聖書のイエス様と同じくらいの年齢な訳です。そうか、俺はもう、おじさんなのか、と言う訳です。
皆さんは、どこに突っ込みを入れたくなるでしょうか?わたしは、イエス様は、「やさしい」のか?と言うことでした。確かに、イエス様が子羊を抱いている絵画などは、典型的です。「小さくされた者に寄り添っていこう」と言う時、小さくされた者たちを癒してくださり、罪の赦しを宣言してくださった優しい方というイメージがあります。でも、本当にそうでしょうか。
イエス様の誕生は、ヨセフとマリアの旅行の最中でありました。たまたま、時のローマ皇帝アウグストゥスが、人口調査をしようと考えた。おかげで、旅先で、きちんとした産屋も、ゆりかごも、暖かい部屋でさえない中で生まれた。マタイによる福音書は、ヘロデ大王と言う奇跡的にもユダヤ王国という独立国の国王だった人物を登場させます。この人もまた、イエス様を亡き者にしようとします。
亡くなった時期もそうで、総督ポンテオ・ピラトの判決で十字架刑となったのでした。ピラトは、別にイエス様に罪があるとは思っていなかった。しかし、ユダヤ人の暴動がおこると、ローマ皇帝による自分の評価が悪くなって、次の任地先がろくなところにならないかもしれないということで、イエス様を十字架に掛けたのでした。
イエス様の御生涯は、最初から最後まで、世界によってひどい目にあわされ、迫害され、無実の罪を押しつけられたものでした。
ひどい目に遭わされたという意味では、この世界、人間によってばかりではなくて、神様によってもそうかもしれません。12月から読んでいるように、イエス様は聖霊によって宿ったのです。それは、この世的には、父親が不明の、大変に不名誉な誕生です。さらに、マリアの夫ヨセフについては、どうも早いうちに亡くなってしまったらしい。母マリアはやもめとして、イエス様を頭に、何人もの息子、娘を育てたのです。イエス様は、大工として働いていた。今でいえば、充分な教育も受けられず、下手をしたら、どん底の生活の苦労をしてきたということです。
イエス様は、この世の権威によって苦しめられ、そしてこの世の苦労を味わいました。すべて、貧しく、弱く、罪深いわたしたちを救うためでした。すべての人のための救いのためにへりくだってこの世に来られた方がイエス様なのです。
このイエス様の誕生に、母マリアは、身分が低い人を高く上げ、飢えた人を良いもので満たすためだと歌いました。一方で、思いあがる人は打ち散らされ、権力ある者はその座を弾き降ろされると言います。ご誕生は、あまりにも憐れで、この世の権力に打ちひしがれたようにも見えます。しかしこのお方は、ダビデの子、この世によって低くされているだけなのです。
13節では、天の軍勢が「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」と歌います。ここで歌っているのは、天の大軍です。軍隊です。神は、戦うお方です。「主は正義の胸当てを着け、偽りのない裁きの兜をかぶり、ご自分の清さを堅固な盾とされる。主は激しい怒りを鋭い剣とし、狙いの定まった稲妻の矢が放たれ、引き絞った雲の弓から的を目がけて飛んでいく。」神は今や、地上にご自分の力を及ぼされ、この世界を御子によって変えることを、堅く決心しておられるのです。この神のみ旨を、天使の大軍が示しています。
旧約聖書で救い主とは、王、預言者、祭司のことでした。士師記やサムエル記を読むと、救い主は何よりも、イスラエルの人々の生存を守るために、先頭に立って外国の勢力と戦う人々のことでありました。士師記の大士師たち、そしてサムエル記のサムエル、サウル、ダビデは、神の聖霊を受け、それぞれの仕方で、命を掛けて、イスラエルのために戦った人々だったのです。
イエス様は、ダビデの子孫としてこの世に生まれました。誕生の次第は地味な、むしろ惨めなものでしたが、やがては頭角を現し、ダビデのようにこの世に神の国を建てようとされているのでしょうか。確かに、イエス様の十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました。これを書いたのは、ローマ人でした。ユダヤ人の王として即位することと引き換えに、十字架に付けられたとも、考えられます。
でもこれは、イエス様自身が、否定しています。「わたしの国は、この世に属していない。」この世の王国ではない。神の王国なのです。しかし、この王国は、この世とまったく関係のない天の王国ではありません。わたしたちが死んで、天に昇ったら入ることのできるというだけのものではないのです。
ヨハネの黙示録があります。ヨハネの黙示録では、天上、空中、そして地上と、三か所で、神と悪魔の勢力が戦い、最終的に神が勝利していきます。天上の父なる神と、御子キリストの支配が、やがて地上へともたらされるのです。地上に生きる人々は、長い長い悪魔の支配に苦しみながらも、最終的な神の支配を確信して待つ。これが、ヨハネの黙示録です。
そして、ヨハネの黙示録は、ローマ帝国のそれぞれの地で、迫害に苦しんでいたキリスト教徒を励ますために書かれました。神は勝利することを確信して、希望を以ってこの世界を生きたのです。そしてその生き方は、この世界を変えていくものでもありました。神を愛し、教会の兄弟姉妹と愛し合い、隣人を愛す。この生き方が、地上で受け入れられて行きました。
そのような生き方こそ、わたしたちの戦い方です。エフェソの信徒への手紙6章12節では、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい」とパウロは勧めます。「わたしたちの戦いは、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸例を相手にするものなのです。」「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。」
わたしたちの主であるイエス・キリストは、教会の頭です。キリストは、わたしたちの先頭に立って戦ってくださっています。教会は、わたしたちの砦、わたしたちの陣地です。ここからわたしたちは、聖なる戦いに出掛けて行きます。
この戦いは、伝道だとだけ考えるのであれば、まだまだ足りません。わたしたちの心の中の戦いがあります。教会の中を整えることがあります。一日一日を、キリストの命に生きる。キリストによって贖われた喜びに生きる。このことこそが、わたしたちの神の武具です。
ただの一人も残さずに、わたしたちすべてを救ってくださるために、わびしい姿でこの世に生まれ、わたしたちの苦しみをご自身で味わってくださった方。しかしながら、御自身は、その苦しみに屈することなく、父なる神と共に歩まれ、十字架の最後まで歩み通された方。だからこそ父なる神が、この方を高く上げられ、ご自分の右の座に着かされた方。この方によって贖われ、生かされている喜びの内に生きていくこと。それこそが、キリストを着ること、光の武具を身につけることです。
ローマ帝国の皇帝の支配のもとに生まれながら、罪人であるわたしたちをその両腕に抱えて天に昇らせてくださる方がいます。無力なわたしたちを、ご自分と共に勝利へと導いて下さる方がいます。ご自身は既に、天の御座についておられる。だからこそ、わたしたちの勝利もまた、約束されたものです。この方に信頼し、ついて行きましょう。お祈りいたします。
在天の父なる神様。御子キリストをこの世に生まれさせてくださり、ありがとうございます。わたしたちの御子を信じる心を堅くしてくださり、最後まで導いてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

2017年12月24日 2.イブ礼拝(16:30~)
「天に栄光、地に平和」 今村あづさ伝道師
ルカ福音書2章8~20節

クリスマスとは、「キリストの礼拝」と言う意味で、イエス・キリストの誕生を祝う礼拝です。そのイブ、つまり前夜が今日にあたります。
今は、一年の内で、もっとも昼が短い時期です。暗い世界に明るい光が灯るのが、クリスマスです。
クリスマスとされる12月25日は、もともとローマ帝国の時代には、異教の当時の後の太陽の祭りが行われていました。一年で一番、昼の時間の短い冬至が終わり、太陽がまた戻ってくることを祈る祭りです。同じ時期に行われるユダヤ教のハヌカーと言う祭りは、もともとは神殿の宮清めの祭りですが、このハヌカーでも神殿に灯りを絶やさず燃やし続ける習慣があります。いずれも、光と関連があります。
マタイによる福音書の2章では、東方の学者たちが大きな星に導かれて、ユダヤ人の王として生まれた子供を訪ねてきました。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の谷に住む民に光が射し込んだ。」イエス・キリストの伝道活動の開始もまた、光として描かれます。
まっ暗闇の中に、明るい灯火が灯る。クリスマスの情景です。わたしたちは、それを希望の光として大事にします。それは、イースター、春のキリストの復活祭へと、必ず大きく輝く光となるからです。
クリスマスで、小さな光が生まれ、その光は大きく成長していきます。そして、いつかは、わたしたちは真昼の光の中に生かされることになるでしょう。クリスマスは、わたしたちが真昼の光の中に入れられる始まりを示しているのです。

今日、皆さんと読みましたのは、クリスマスによく読まれる箇所です。空いっぱいに天使が現れて賛美の歌を歌う。馬小屋で寝ている幼子イエスと、母マリア、ヨセフに出会う。光と平和に包まれた情景です。意味は分からないけれど、不思議なロマンチックな情景だと、感じる方も多いでしょう。
けれども、一つ一つの指し示している意味を考えてみると、ここには大変にアンバランスな、不思議なメッセージが示されていると思うのです。

ルカによる福音書の2章1節から始まるイエス様の誕生の次第は、大変に厳しく、また、わびしいものでした。イエス様の誕生は、時の皇帝によって翻弄された庶民としての出来事です。誕生の場は、宮殿であるどころか、産屋としてふさわしくしつらえた場所ですらなく、馬小屋でありました。
それでは、ただの庶民のあわただしい出産の出来事か、というと、8節から物語は大きく展開します。天使が現れるのです。神様の栄光が周りを照らしました。これは、「栄光」つまり栄える光が射したという感じですけれど、神様の栄光とは、地上で神様のなされる業、地上に働かれる神の力のことです。神様がいらっしゃることを示す光。神様のご臨在を示す光が照らした。神様の人の意志を遥かに越える大きな力が、光となって暗闇を照らすのです。
しかし、神の栄光を表す光が照らす相手が羊飼いだ、と言うところに、またギャップがあるのです。羊飼いは、税金の徴税人などと同様、この時代のユダヤ人にとっては、律法を守れる職業ではありませんでした。卑しい人々、軽蔑される存在だったのです。
わざわざ、よりによって羊飼いに、天使が現れた意味は、天使自身の言葉で理解できるでしょう。「民全体に与えられる大きな喜び」を告げるためにやって来たのです。あの、人々に軽蔑されている羊飼いに、天使が直接現れた。それは、誰もこの喜びから洩れる人はいないよ、と言うことなのです。
そして、天使はこう言います。「今日、ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」「すべての人のための」神の子が生まれたのです。すべての人を救ってくださる。そして、その人は主、つまり神であるというのです。
はっきりと天使は、庶民の代表である羊飼いに告げます。こんなにはっきり、それもただの人、偉くもない庶民に、あからさまに神様のお告げが知らされています。これまた、異常なことです。旧約聖書では、神の民イスラエル人だとしても、神の言葉は特別の人々、王、祭司、預言者と言った人々にしか、知らされなかったからです。神様は、ここで、これまでの常識を破って、一人一人に直接、ご自分のお考えを知らせているのです。
神様が、これまでとは異なる形で人々に救いをもたらそうとしている。そのしるしは、飼い葉桶の乳飲み子だと言います。ダビデの子とは、王様の子ども、王子です。ところが、その王子が飼い葉桶に寝ている?あり得ない。あり得ないことを起こして、神様はご自分のお考えを知らせるのです。
ここまで天使が言うと、天の大軍の賛美が始まります。王子の誕生を賛美する歌を歌います。当時、王宮で王子の誕生をお披露目する祝宴では、音楽が演奏され、王子を祝福する歌が披露されました。ここでは、天使がそれを行うのです。
そして賛美するのは「天の大軍」です。ここで天使の大軍は、武装しています。神の鎧を着け、悪に対して戦うためです。神のみ旨、すべての人の救いをこの世で実現しようとする神の力、栄光の力がここには現されています。神のみ旨、つまり軽蔑されている人々に至るまで、一人残らず救うために、神は戦うというのです。
羊飼いたちは、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を訪ねに行きます。それはさながら、王子のお披露目の祝宴に招かれる大事なお客です。自分が選ばれ、自分が王子のお披露目の祝宴に呼ばれたのです。

さて、何日か前に、ちょっと不思議な夢を見ました。どこか、高い塀に囲まれたところか、病院の待合室か、そこがはっきりしません。たくさんの人々が、立ったまま、自分の名前が呼ばれるのを待っています。自分の名前が呼ばれると、中に入れてもらえるのです。呼ばれなければ、中に入ることはできません。
しかし、いつまで経っても呼ばれない人たちがいます。いつも、「さあ、今日はここまでですよ」と、呼ばれる扉は閉ざされてしまいます。夢の中では、自分のその一人になっていました。「ああ、今日も呼ばれなかった」と、夜の帳の中を帰って行く。そんな日がずっと続いている。朝になると、もう一度出掛けます。昨日はまだ、到着していなかった新しい顔もあります。しかし、自分よりも後から到着した人が、どんどん、自分を差し置いて、中に呼ばれて行く。とにかく、自分は外でずっと待ち続ける。。。
羊飼いというと、こんな人々ではないか、と思います。何日も呼ばれない、毎日毎日、呼ばれずにがっかりして帰っていく。そんな日々を続けていると、どうなるでしょうか。自分は永遠に呼ばれないのではないか。そもそも、ここに立ち続けることが間違いなのではないか。神の怒りを招いているのではないか。そんな気さえしてきます。
貧しい生まれや育ち。働いても働いても追いつかない生活。愛されたかった場所で、愛されたかった人に愛されることのなかった日々。なぜか自分には手の届かない幸せ。突然、与えられた幸せをつかみきれず、拒んでしまったことに気づく惨めさ。貧しくまた卑しい習慣。そんな自分だから、呼ばれないのかもしれない。たくさんの人々が、自分を諦め、自分の人生を諦め、この世界を苦しみの時間と諦めて生きているということなのではないでしょうか。
そんな人々が、とうとう、呼ばれたのです。とうとう、主は顧みてくださった!わざわざ、迎えまでよこしてくださったのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう!」まるで、それまで立ち上がれなかった人々が立ち上がるように、躍り上がり、できる限り急いで、出掛けて行く。喜びに心を躍らせながら、出掛けて行くのです。
今日、御子はお生まれになり、羊飼いと言う、人々に軽蔑され続けてきた人々をその証人にとお招きになりました。
「今日、ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この言葉は、この世に王子が生まれた。その王子は、すべての人を救うために、つまり、この小さく縮こまったこの「わたし」を救うために、神によってこの世に生まれたのだということを、示しているのです。

お祈りします。主なる神様。あなたがわたしたちにご計画してくださったクリスマスの出来事を感謝します。人知れず、苦しみながら生きている人々がいます。その人々一人一人のために、あなたはイエス様を生まれさせてくださいました。イエス様が、自分のために生まれてくださったことを、わたしたちが信じることができるようにしてください。イエス様のお名前で祈ります。アーメン

2017年12月17日 「主が導いて下さる」 大木正人牧師
イザヤ書40章1~11節

 今日読んだ箇所に「荒れ野」という言葉が出てきます。これは何の良いものも期待できない先行き不透明な現実に絶望している人々の思いを語っています。昼は灼熱の太陽から身を隠す場所がなく、夜には急激に冷え込む冷気から身を守る物のない、そんな過酷な荒れ野に放り出されているような恐れや不安に人々は晒されていたのです。
 しかしこの現実の只中に神様の言葉が響いてくるのです。「慰めよ、私の民を慰めよ」「苦役の時は今や満ち」という神様の言葉が届けられます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」暗闇を切り開く天からの光。絶望に飲み込まれそうな私達に向かって天から届けられる救いの言葉。このことを「心に語りかけ…呼びかけよ。」
 「心に語りかける」は時には「言い寄る」と訳されることもある言葉です。本来は「愛する者を口説き落とす」ときに使ったようです。神様は情熱的です。固く心を閉ざし、心の荒野で砂をかむ孤独を味わっていた人々を「口説き落とすように」語りかけて、その心を開かせるのです。そのために神様ご自身が情熱的に倦むことなく語りかけられます。皺の寄った布地を伸ばすヒノシ(慰の元の意味)に入れる炭火のように熱く、混沌とした世界にスジを通し、冷え切った私達の心に折り目を付けて正し、強めるために、神様は行動される。私達の凝る心を解きほぐし。心を燃え立たせるのは、自らのいのちをさえ惜しまない神様の捨て身の熱情、受難さえ厭わぬパッションです。
 もはや神様に希望をつなげない人々に、信仰など過去の愚かな遺物ではないかと思う人々に、そのくせ何かを信じずにはいられない人々に、つまり私達一人ひとりに向けて、神様は「私の民」と宣言されます。「神の民」などと呼ばれるのに全く値しない、過ちだらけの私達を神様は「私の民」、かけがえのない宝の民とさえ呼んで下さいます。たとえ私達が神様を見捨てても、神様は私達をお見捨てになりません。愚直なほどにまっすぐに神様はやって来られます。私達が落ち込み、沈み込めば、神様もまたそこまで降って来て下さいます。そして私達を慰め、励まし、救ってくださいます。このお方によって私達は支えられ、よりよく生きる力を与えられて、喜びと平安のうちを歩みます。それがこの世界に確かに刻み込まれたのがイエス・キリストです。
(礼拝説教要約)

2017年12月10日 「夢を信じて」 今村あづさ伝道師
マタイ福音書1章18~25節
2017年12月3日 「お言葉通りに成りますように」 今村あづさ伝道師
ルカ福音書1章26~38節

「お言葉通り、この身に成りますように。」この言葉の直前に、「わたしは主のはしためです。」わたしは、神様の奴隷です。そのように言っているように、この言葉は、自分自身の人生を、命を神様の前に投げ出して、神様に捧げる、お任せする言葉です。神様の圧倒的な力の前に、祈りを持って応えるしかない。その祈りを、神様は善しとしてすべてをよきようにしてくださるだろう。そのような決意の言葉です。
「お言葉通り、この身に成りますように。」
「レ・ミゼラブル」の「夢破れて」と言う歌の話をします。これは(話しの筋を知っている人からすると、分かるのですけれど)、娼婦に身を落としながら、娘を育てている女性の悲痛な歌です。結局この人は、結核か何かに掛って、死んでしまう。主人公のジャン・ヴァルジャンは、この女性の残された娘を引き取って育てるという物語です。
「夢破れて」という歌の歌詞を読んでみると、どうもこの人は、だれかとても好きになった人がいた。「神は許してくださるだろう」と歌っているので、結婚していない関係だったのかもしれない。その関係は、一夏だけで、秋にはもう、別れていた。しかし、子供を身ごもったのでしょう。相手が帰ってくるのを待つ。けれども、帰って来ない。わたしは今、地獄にいる。それはそうでしょう。娼婦に身を落として、生活しているのですから。そして、この地獄からは逃れられない、と言う訳です。
レ・ミゼラブルの背景には、19世紀の自由主義社会があります。ある面、自由な社会になった。人々の思いは、教会から離れて自由になった。でもそれは、弱肉強食の社会でした。ずるい奴が得をする社会です。貧富の差が激しい。それなのに、パン一つを盗んだだけで、何年も牢獄に繋がれて苦役に従事しなければならないような社会でもあります。娼婦に落ちるのも自己責任。だまされた方が悪いという訳です。
今日の箇所、1952年版の英語の聖書では"let it be" で始まります。ここからポール・マッカートニーの「レット・イット・ビー」が作られたと信じられています。この「レット・イット・ビー」を、「どうにでもなれ」「ほうっておいて」と言う意味だと考えてしまうと、この「レ・ミゼラブル」の世界になってしまいます。母マリアの場合は、神様にお任せするということで、「レ・ミゼラブル」にはならなかったのですけれど、「結婚していない関係で身ごもった」と言うところを見ると、つまり今日の聖書箇所のマリアの置かれている状況は、同じだ、と言えないでしょうか。とても危うい状況です。とても危険な決断を彼女はしたのです。
とても危険な決断をすることになるのに、マリアはなぜ、「お言葉通り、この身に成りますように。」と言ったのか。結局は、「わたしは主のはしためです。」という、自己認識があります。自分は、神様の奴隷なんだ。これが神様ではなくて、どこかの旦那様なら、なんだかとても、悲しい言葉に聞こえますが…。
「戸惑い、いったい、この挨拶は何のことかと考え込んだ。」とか、「どうして、そんなことがありえましょうか」とか、「わたしは主のはしためです。」というこの言葉を言う前に、自分の様々な思い煩い、苦悩があります。つまり、「レ・ミゼラブル」の示しているような状況です。母親だったら、それは、避けたい状況です。愛する子どもには、暖かい部屋でお腹いっぱい食べさせ、清潔な衣服を着せて、優しい言葉を掛けてやりたいと思うでしょう。「主のはしため」と言った時に、そんな状況から神様は守ってくれるだろう、と思ったことでしょうか。確かに、「あなたの息子は、偉大な人に成って、王様になって永遠にイスラエルを治めるだろう。」天使は、つまり神様は、そのように約束してくださいました。けれどもそれは、ささやかな安寧な暮しを意味していたでしょうか。そうではないんですね。待っているのは、十字架の死です。その前に、ユダに裏切られて売り渡され、外国の勢力によって裁かれ、鞭打たれ、社会の反逆者として死んでいったわけです。
もちろん、もう一度言いますけれど、この時点で、マリアは天使の言っている意味が、そんな悲惨な人生を意味するなんて、分かりません。分からないけれども、どうして、「主のはしため」だということになるのでしょうか。そこに、もう、従うしかない言葉がある。どうして、従うしかないのか。それは、神様の意志が固かったからだ、と思います。神様は、このマリアを通して救い主を生まれさせ、その方を通して人間を救うのだ、と言う固い決心をしておられた。神様は、肉を持ち、人の心を持ち、飢えに苦しみ、この世の様々な問題に縛られているわたしたちとまったく同じ人間を通して、神様の御心を現そうと、固く決心されていた。その決心の固さ、その思いの高さ、大きさに触れて、マリアはお任せします、と言う気持ちになったのではないかと思います。
「神にできないことは何もない。」天使ガブリエルは、そう言いました。普通、これは不妊の女と呼ばれたエリザベトをも神は身ごもらせることができる。だから、マリアが処女であっても、神は身ごもらせることができるのだ、そんなふうに読めることでしょう。どうも、わたしは、もう少し、違う風に読んでしまいました。「処女懐胎があるのかどうか、それは聖霊によるので可能なのだ」、と言う話しではなくて、「マリアの産む息子が偉大な人になり、神の子と言われ、神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」これに対して、天使ガブリエルが、「神のみ旨なんだから、実現する」と言うのです。マリアは、ダビデ王の子孫、王の家系のヨセフと結婚してからの子どもならば、状況によっては王様になるということはないとは言えないけれど、まだ結婚していないのだから、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」とびっくりするのです。
もう一度、「レ・ミゼラブル」に戻りますと、娼婦に身を落としてさえも、娘のために稼がなければならなかったこの女性、この時代の考え方だと、自堕落な女だから、報いを受けたんだ、という理解になります。簡単に言えば、身ごもった子どもの父親は、悪人であった。聖書的に言うと、悪霊につかれていた、と言ったら話が簡単でしょうか。そんな関係を持った者が悪い、地獄に落ちても仕方がない、と言うことです。
ところが、マリアの出来事は、聖霊によるのだ、とガブリエルは言う。この聖霊による、と言う聖霊の関わり方は、さっきの悪霊に取りつかれている悪い男の関わり方とは全然違いますから、そこはお断りしておきます。神様のみ旨なんだから、生まれる子どもは聖なる者であり、神の子と呼ばれるのです。
マリアはこれから、この世界で、子どもを身ごもり、産み、育てる。それは、この世に反逆することも、意味します。この世の常識とは異なる所で生きることに成ります。神の者として、聖別された生き方をしていくのです。しかしそれは、この世のさまざまな苦しみから逃れられるように神様が準備してくださる訳ではない。それどころか、キリストの十字架の死まで、苦しみの日々だったはずです。自分が代わってあげられるものなら、代わりたい。むしろ、代われるものならば、その方がマリアには幸せだったでしょう。大河ドラマで、徳川信康の母が、武田に内通していたのは、自分です、と言って、自分を討たせましたが、それは母である自分が討たれることによって、息子が助かるならば、本望だという思いでした。
父なる神は、生きやすいように状況を整えてはくださらない。むしろ、キリストのお苦しみを通して、人々が救われることこそが、父なる神のご計画なのでありました。
御心がある時、生まれてくる子どもは聖なるものとされる。神の子とされる。そして、自分にはよく分からないけれども、神様のご計画の中で用いられていく。
何度も言いますが、多くの女性にとって、できることは限られていました。これからマリアに用意されている社会的状況、シングル・マザー、やもめは、旧約聖書では保護されるべきものとして、律法にいろいろと配慮されています。配慮はされているけれど、それは、社会的な弱者としての状況が用意されているということです。人々の配慮の中で、食べさせて頂ければありがたい、そういう状況が、少なくとも息子が大きくなるまで続く可能性があります。来週、そうならなかった、と言うマタイの物語りを読むことになっていますが。
これは社会の矛盾なのですが、旧約聖書の申命記でも、「この国から貧しい者がなくなることはないであろう」と書いてあります。でも、「わたしたちがエジプトの地で奴隷だったことを思い起こせ。」そして、恵まれない人々に手を差し伸べよ、そのように神様は律法で命じられています。けれどもここでは、その社会的な弱者を通して、神のみ旨がわたしたちに手渡される。
なぜ、マリアがそのような決心が出来たのか。マリアが強いからではないのです。マリアは、もっとも弱い存在だった。だからこそ、この地上に神様のみ旨が行われることを、心から望んだのではないでしょうか。
不充分な自分が選ばれた。自分が何を言おうと、何をしようと、この世界は知らない顔をしようとするかもしれない。貧しさの中で生まれる子どもを、この世界はかけがえのない神様からの贈り物だとは、受け取らないかもしれない。けれども、神は、決心しておられる。神が決心しておられる時、「神が一緒ならば、不可能なことは何もない」のです。
神様の固いご意志、そしてそれに答えた人間たちによって、わたしたちの救いは用意されました。
最後に、蛇足なのですけれど、少し社会派的なことも、お話ししておきます。日本の社会は、やはり、シングル・マザーになるような状況について、自己責任だ、と考えている社会です。保護は必要ですが、働かなくてもいい状況を作ってしまうと、道徳的な乱れに繋がるのではないか。そういう考え方も、根強いでしょう。なにしろ、キリスト教の布教が明治になって許されて、キリスト教の倫理である一夫一婦制が浸透するまで、長い時間が掛ったのです。その前の、社会的に地位のある人たちがお妾さんを持つのは当たり前と考えるような社会に戻りたくないと考えるのは、当然のことです。
しかし、現在の日本では、子どもの十人に一人は貧困状態にあるという社会です。この貧困の大きな理由が、母子家庭、父子家庭だろうと思います。
ヨーロッパ諸国は、こう言った家庭の子どもたちへの補助制度が手厚いところが多く、特に教育は実質的に無償で受けられることになっています。一方で、アメリカ合衆国の場合は、妊娠人工中絶に対する人々の反対がとても多いということが、聞こえてきます。中絶手術をする医師が何人も殺されているという状況も聞きました。十代で妊娠する少女たちが安心して出産できるような民間のNGOが活動をしており、生まれた子供の養子縁組先を探します。
このような状況を見ても、わたしたちは特に注意を払うことはないかもしれません。けれどもこれらは、神様の子どもを、社会全体で生かし、育てて行こうという気持ちの表れです。母マリアは、神様の子どもを宿した。わたしたちの授かる子どもは、神様の子どもです。神様のみ旨、神様のご計画によって生まれて来る。大切な神様からの贈り物として、この世が受け取らなければならない。ヨーロッパやアメリカのこう言った制度を支える考え方として、イエス様の誕生の物語、そして神様の救いのご計画のために、自分を用いてくださることを喜び、「わたしは主のはしためです。お言葉通りにこの身に成りますように。」と答えたおとめマリアの決断があります。

礼拝説教アーカイブ

2018年

2017年

2016年

以前のアーカイブはこちら。
(準備中)

ページのトップへ戻る