日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年12月25日 「民全体に与えられる大きな喜び」 今村あづさ伝道師
ルカ2:8~20 クリスマス礼拝

【第一礼拝】
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」今日の、聖書の最初の箇所です。「野宿」です。キャンプじゃなくて、野宿です。日本よりも緯度の低いところです。少し暖かいかもしれない。でも、やっぱり冬ですから、寒いでしょう。それに、夜通しです。交替で仮眠をとりながら、野獣などが襲いに来ないように、見張っているのです。寒い、眠い。大変な仕事です。
そんな人たちに、「主の天使」が近づいてきた。天使ですから、歩いてやってくるのではありません。天使は、神様の伝言を人間に伝えるのがお仕事です。天から来るのですから、羽を持っているのでしょうか、いともあっさりと、現れることができるのです。
天使は神様のところからやってくるのですから、神々しく、清く、明るくすばらしい。天の音楽が流れますし、何かかぐわしい香りもしてきます。それが、暗い中で寒い思いをしている元気のない小父さんたちのところにやってくるのです。
しかも、天使はものすごいメッセージを持ってやって来ます。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。民全体に与えられる大きな喜びを、羊飼いたちにまず、伝えに来たのです。つまり、羊飼いたちは民全体の代表だと言う訳です。あなたがたが、見聞きしたことを、ほかの人たちにも伝えなさい、という訳です。「皆を代表して、あなたたちが見に行くんだよ。」
皆を代表して、何か、大事なことをしに行く、皆さんが、そんなことに選ばれたら、どう思いますか。たとえば、今年も、ノーベル賞に日本人が一人、選ばれました。去年のノーベル賞を取った人は、山梨県の出身でした。大村智さんですね。「あなたを選びましたから、ストックホルムまで来てください」という訳です。これは、大村さんの研究が、とても優れたもので、たくさんの人々の病気を治すことができたからですね。
選ばれるのは、だから、すごいことをしたとか、偉い人とか、そんな人が選ばれると思います。それなのに、ここでは名前も分からない、温かい家で普通に暮らしている人でもない、寒い中を野宿をしている羊飼いが、皆の代表で選ばれたというのです。
こんな風に、選ばれたら、嬉しいですよね。どんなに遠くでも、行きたいですよね。実際、大村智さんは、飛行機で10時間以上かかる、スウェーデンのストックホルムまで、はるばる出かけたのでした。とても大事なことだからです。だから、羊飼いの人たちも、「さあ、ベツレヘムへ行こう。」と話しあって、出掛けて行きました。
天使は、赤ちゃんを見つけることが、民全体に与えられる大きな喜びの印なんだよ、と教えてくれました。どういうことでしょう?赤ちゃんは、まだ、なにも出来ません。お父さん、お母さんに守られないと、一日も生きていくことはできません。歩くことも出来ないし、自分でご飯を食べることも出来ないし、話すことも出来ないですよね。でも、この赤ちゃんは、わたしたちの救い主のイエス様です。
今、イエス様は、とても小さくて、なにも出来ません。でも、段々大きくなります。皆さんも、最初は赤ちゃんだったけれど、大きくなってきましたね。毎年、背が伸びて、これまで着られた着物が小さくなっていくでしょう。そして、出来ることが段々、増えていきます。今年は、どんなことが出来るようになったかな?
イエス様も、クリスマスの夜に生まれた時は、なにも出来ませんでした。ヨセフさんとマリアさんに大事に守られて、暮らしています。けれども、段々大きくなって、いろいろなことができるようになって、そうして私たちを励ましてくださり、病気の人を癒してくださり、もっともっと大きなことをわたしたちにしてくださいます。私たちは、そのことを楽しみにして待っているのです。
教会のクリスマス・ツリー、とても奇麗でしょう。何人もの人たちが、折り紙で折って作ってくださったんですよ。てっぺんの星も、折り紙です。折り紙で、折り方を覚えるのは、むづかしいですよね。でも、この折り紙は、どうやったら星になるかな、どうやったらきれいな飾り付けになるかな、と、作った人が考えてくださって、出来たんです!
クリスマス・イブのクッキーも、今日のお昼の御飯も、皆が自分のできることを持ち寄って出来ました。準備した人たち、折り紙を折った人たちは、自分は大したことは出来ないと、思っているかもしれません。確かに、一人で準備をすることはできません。でも、自分が出来ることを持ち寄ることで、全体では大きなことになります。
天使の言うことに励まされて、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。」と立ち上がりました。羊飼いたちも、自分のできることを持ち寄ったのです。小さなイエス様は、神様からわたしたちへの大きな贈り物です。最初は小さいけれど、段々大きくなっていきます。神様から遣わされた方ですから、父なる神と同じように大きいのです。だから、私たち人間が出来ないすばらしいことを、成し遂げてくださいました。そのことの始まりが、クリスマスです。もっともっと大きくなる神様の御業のしるしを、今日、羊飼いたちは見に行くことになったのです。
わたしたちはなかなか、天使にお目に掛ることはできません。天使は神様の考えていることを人間に伝えるために、この世へと遣わされています。教会では天使の代わりに、聖霊なる神が働きます。私たちが行ったいろいろなこと、折り紙を折ったり、クッキーを焼いたりといったことも、もしかしたら今日、もっと寝ていたかったのに起こされて教会に来たのも、皆、聖霊なる神様が働いておられます。人々を教会へ招き、教会のためのほんの小さなことを、すばらしいことに代えてくれます。
私たちが、教会に招かれているということは、わたしたちが神の愛に招かれているということです。神様は、わたしたちが豊かに生きられるようにと、わたしたちを招いてくださっています。大丈夫、あなたは愛の中に生きるようにと、神様に招かれています。神様は、聖書を通じてあなたに語りかけ、あなたが神様を賛美して喜んで歌ったり、祈ったりすることができるようにしてくださいます。神様と共に生きている人々の集まりの中に入れてくださり、共に生きることができるように、取り計らってくださっているのです。
羊飼いの人たちがイエス様に会いに行くように、天使に招かれたように、私たちもまた、教会の礼拝に招かれました。今日は嬉しいクリスマス!わたしたちの喜びの印であるイエス様が生まれたことを記念する日です。皆で、礼拝に招かれたことを、喜びたいですね。
お祈りします。神様、イエス様を生まれさせてくださって、ありがとうございます。今日は嬉しいクリスマスです。あなたに招かれ、楽しい時を過ごさせてください。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

【第二礼拝】
クリスマスの出来事というと、馬小屋に羊を連れた羊飼いが訪ねて来る。そこには、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんのイエス様がいて、マリア様とヨセフさんが出迎える。そんな風景をわたしたちは思い浮かべます。教会の玄関にも、そんな人形が飾ってあります。そこには、マタイによる福音書に出て来る、三人の東方の博士たちも一緒にいて、贈り物をそれぞれ持ってきています。
子どもたちへのメッセージで、羊飼いが、民全体の代表として選ばれていると、お話をしました。思いがけず、選ばれた普通のおじさんたちは、心を奮い立たせて、ベツレヘムに向かい、飼い葉桶に寝かされたイエス様に出会います。大きな喜びを民全体に告げるために、この人たちは証人として選ばれたのです。
この時代に、民の代表として羊飼いを考えることは、常識的には考えられないことです。ヘロデ大王の時代ならば、この地はローマ帝国の属国でした。ヘロデ大王が亡くなった後は、結局、ローマ帝国に併合され、属州となりました。ヘロデ大王や、その息子たち、そしてアリマタヤのヨセフのような最高法院の議員たちが、この社会の地域の民の代表ということになるのではないでしょうか。
しかし、ルカ福音書で、天使が向かったのは、社会の中では夜もあまり寝られない、温かい家で過ごすことも出来ない過酷な労働の従事者でした。上等な着物を着て、豪華な食事をする生活とは、無縁の人々です。なぜ、この人たちが、民の代表となったのでしょう。
昨日、イブ礼拝で、ヨセフは、時の権力者ローマ皇帝に翻弄され、苦しんだ末にベツレヘムでイエス様が生まれたと言う話しをしました。イエス様は、この時代の権力者によって翻弄された状況の中で生まれたのであれば、今日の箇所の羊飼いもまた、権力のある人々では絶対になかったのです。神様のご計画は、このような社会的弱者を通して、進められたのでした。
今日は、旧約聖書の箇所を、詩編23篇と、エゼキエル書の二か所読みました。これらの箇所は、旧約聖書で、羊飼いがどのように考えられてきたかを示しています。
詩編23篇では、主なる神が、羊飼いです。神によって守られ、育まれ、生かされていく羊たち。それは、わたしたちのことです。ダビデの歌だとされていますが、神に心から信頼し、神と共にいる平安、喜びを歌った詩編です。
詩編23篇では、羊飼いは主なる神ご自身でしたが、その役目は人間の指導者に託されるようになって来ます。イスラエルでは、王や祭司が、羊飼いと考えられるようになりました。しかし、良い羊飼いばかりではありません。エゼキエル書34章は、悪い羊飼いを批判しています。羊の群れを養うどころか、羊から搾取の限りを尽くすのです。
旧約聖書では、悪い羊飼いとは、イスラエルの悪い指導者のことでした。けれども、イエス様の生まれた時代、ローマに支配されている時代には、ローマ帝国の指導層のことになるかもしれません。また、ローマ帝国の中で、どうにかうまく立ち廻ろうとするユダヤ地方の指導者たちのことかもしれません。
エゼキエル書は、このような指導者たちを鋭く批判しながら、34章23節で、まことの良い羊飼いを起こす、それはダビデであると言ってます。羊を養い、また主なる神を神とし、悪い者から守る羊飼いです。人々の生活も心も、神に立ち返らせ、命へと導きます。他国の圧政、圧迫の中で、まことの神に立ち返り、民を真の神により頼んで牧する指導者が、羊飼いという職業に込められているのでしょう。
ルカによる福音書の主イエスが誕生する場面で、羊飼いが登場するのは、なぜでしょうか。エゼキエル書の預言が、主イエスによって実現するのだ、ということを意味しているのではないでしょうか。真の羊飼いが、神様によって起こされるという預言です。主イエス自身が、神によって立てられる真の羊飼いだと言うことです。今日の箇所で野宿をしていた羊飼いたちは、真の羊飼いがこの世に送られてきたことの証人となったのです。
ローマ帝国の社会の中で、羊飼いは無力に見えます。飼い葉桶に眠るみどりごも、無力な存在です。神の救いのご計画は、このように一見、無力なものを通して、始まりました。しかし、この無力と思われた者が、全くこの世界を変えてしまうのです。
父なる神は、この方を真の羊飼いとして立てようと、この世界に送って下さいました。飼い葉桶のみどりごを前にして、羊飼いたちも私たちも、そうなりますようにと祈ります。み国が来ますように、と。そして、神の出来ないことは何もない、と天使がおとめマリアに言ったように、これは確実な約束でありました。神様の行おうとしてくださることに、真に信頼することが出来るからこそ、心の平安があります。天使は、神の栄光を讃え、み心に適う人々の心に平安があるようにと、大きな賛美の声を上げます。私たちが、神様のご計画に信頼することができるようにと、声を上げているのです。
お祈りします。主なる神様、主イエスをこの世へと送ってくださり、わたしたちを救おうとご計画されました。父なる神様、あなたに出来ないことは何もありません。私たちに計画されていることは、確実にかなえられますから、感謝いたします。私たちは、心からクリスマスを喜びます。主イエス・キリストのみ名を通して、祈ります。アーメン

2016年12月24日 「小さき者たちを用いて」 今村あづさ伝道師
イザヤ9:1、5、ミカ5:1~2、ルカ2:1~7 クリスマスイブ燭火礼拝

主イエスのご誕生は、偶然に翻弄され、大変な困難の中の出来事でした。ローマ帝国の初代皇帝であるアウグストゥスが、ローマ帝国全土に登録をせよとの勅令を出したことが、発端です。これは税金の取り立てと、徴兵のためです。当時は人頭税と言って、人間一人に税金いくら、という形の税金が多かったからです。ローマ帝国の直轄領ならば、これに加えて兵役の義務があります。ユダヤは属領だったので、兵役はなかったわけですが。
ローマ帝国は、大変広い領土を持った帝国です。西は今のスペイン、ポルトガル、イングランド、南はサハラ砂漠よりも北の地域、東はトルコはもちろん、パレスティナ地方、そして北はドイツが半分入ります。この帝国の第一人者がアウグストゥスで、彼が号令を掛けるだけで、帝国内のすべての人々に影響が及ぶのです。
住民登録をするために各々、自分の町に旅立った、と書かれているところを見ると、当時は住民票ではなくて、戸籍でもって登録することになっていたのでしょうか。大混乱になる訳ですけれど、仕方ありません。皇帝のご命令なのですから。それぞれが、自分の負担で、自分の故郷の町に出掛けて行ったということでしょう。
ヨセフが、ガリラヤの町ナザレから、わざわざ100キロ以上も南の自分の町ベツレヘムへ旅立ったということは、彼はナザレでは、よそ者とされていたということかもしれません。ベツレヘムには土地があったかもしれないけれども、ナザレでは土地を所有しておらず、大工の仕事をしていたということでしょう。
100キロ以上も旅行をしなくてはならないこと以上に、ヨセフの場合は、特別に困った事情がありました。いいなずけのマリアは、身重であったのです。身重で、それもベツレヘムで出産することになるのですから、本来なら、旅行はしたくないところです。しかし、登録の期日が決まっていたのでしょう。あわただしく、出掛けなければならなかったのです。もちろん、ローマ皇帝は、このような事情を持った人のいたことなど、「そんなこともあるだろうな」と想像はできても、当然のことだと思っている訳ですし、ヨセフとマリアのことなど、知る由もありません。
ヨセフと身重のマリア、二人は、大変な思いをしてベツレヘムにたどり着いたに違いありません。けれども、ヨセフのふるさとであるはずのベツレヘムでも、彼らには実家というか、泊まる家もなかったのでしょうか。宿屋に泊ろうとした。けれども、宿屋に泊る場所がなかった。そこで、あろうことか、出産をすることになった。踏んだり蹴ったりというか、あわただしい中で、事は進むのです。
こんな状況を考えれば、人間としては最悪のタイミングで事が起こったように思えます。実際、時の権力者であるローマ皇帝に翻弄された挙句の出来事です。社会の権力者に、いとも簡単に翻弄されてしまう、弱い者、社会的な弱者としての姿に見えます。実際、宿屋に彼らの泊まる場所がなかったという、最悪の状況。それは、人間としての居場所が与えられなかったという状況を象徴しているのです。ローマ帝国の中で、人間扱いされていない。人間の間に居場所がないと言うことです。神の御子である主イエスは、人間の間に宿ることができなかったのです。
主イエスのご誕生が、どうしてここまでひどい状況なのでしょう。日本人のわたしたちは、神社で祭られている神様と言えば、英雄たち、権力者たちであることを知っています。もっとも、祟り神に分類されている神様もいます。主イエスは、どちらでもありません。たくさんの人々を癒し、罪を赦し、悪霊を追い出し、嵐を静めるなど、奇跡を行いました。けれども、最後はユダヤ人たちに憎まれ、ローマ帝国によって死刑に処されたのです。キリスト教会が、主イエスを信仰しているのは、英雄として功績を讃えるためでもなければ、恨みを残して死んだ人の霊を慰めるためでもありません。十字架で死んだ人が、神によって復活し、わたしたちがその復活の力によって、父なる神との関係を回復することができるからです。
実際、ヨセフとマリアは、ローマ皇帝によって翻弄され、大変な思いをさせられた訳ですが、この新約聖書の最後のヨハネの黙示録によると、主イエスの福音は、ローマ帝国の中で神の預言として、ローマの権力を批判する力を持ちました。そして最後には、ローマ皇帝自身がクリスチャンとなり、ローマ帝国もキリスト教国になるところまで行きます。
一緒に読んだミカ書では、ベツレヘムからイスラエルを治める者が出ると預言しています。ベツレヘムはユダの氏族の中で、とても小さな者。この小さな者、という言葉には、重要でない、下げずまれた、召使のように従属的地位にある、という意味があります。若いと言う意味もあり、それは兄弟の中で末っ子ということです。イスラエルの人々の中でも、兄弟はやはり長男が一番、重んじられ、弟たちは長男に従属する立場だったのでしょう。
しかしながら、そのベツレヘムで生まれた子供によって、彼の兄弟の残りの者は、イスラエルの子らの許に帰って来る、そのような功績を上げる者が、ベツレヘムから出るよ、そのように預言していました。
「彼の兄弟の残りの者」とは、独特の意味を持っています。イスラエルは、他国によって国家が滅ぼされました。それによって、イスラエルの人々は、世界中に散り散りばらばらになって暮らすようになりました。第二次大戦後の日本兵のシベリア抑留のようなものです。数十年に渡り、故郷に帰還することはできませんでした。
彼の兄弟の残りの者とは、このような世界中に散らされている、同じイスラエル民族の同胞のことです。国が滅びたことを、イスラエルの人々は自分たちが神に背いたからだと理解していました。しかしいつか、わたしたちは神に赦され、そして故郷に帰れるんだ。神の許に帰れるんだ。そのいつかが、子どもが生まれる時まで、ということなのです。
数百年もの間、世界中に散らされて生活してきた。多くは、その地で重要でない、下げずまれ、従属的立場で暮らしてきたことでしょう。さらに、このルカによる福音書が書かれた時期は、ヘロデ大王によって立派に修復されたエルサレム神殿が、ローマ軍によって破壊された直後の時代です。人々は、国もなく、神にお会いし、礼拝する場も失われたのです。小さき者として生活している者たちが帰ってくる。それが、ユダ族の中の特に小さな者、ベツレヘムに生まれる子どもによって、成し遂げられるというのです。
みどりご主イエスは、これ以下はないほどのひどい状況のヨセフとマリアの許に生まれた。そして、この子が世界中で虐げられ、馬鹿にされ、辛い思いをしてきた人々を救う。このようなひどい状況の中で、神のご計画、つまり預言が成就していく。これ以上ないほど小さき者たちを用いて、神はこれまでできなかった救いの御業を成し遂げようとしてくださっているのです。それは、神の手に掛ると、最も小さい者も大きくされ、もっとも弱い者も強国となる、そのように神に出来ないことは何もないからです。
この約束は、散らされた人々にとって、希望の光に見えたことでしょう。希望もない、絶望の暗闇の中で暮らしていた人々が、大きな希望の光を見たのです。光は、死の影の地に住む人々の上に輝くことでしょう。

この物語は、2000年も前の、わたしたちとは何の関係もない、外国の君主の誕生物語でしょうか。そうではありません。イエス・キリストは、すべての国の、すべての人々に対して、開かれた神の福音です。わたしたちには、ローマ帝国はないでしょう。しかし、私たちにとってのローマ帝国は、実際に存在し、わたしたちを押しつぶそうとしているのではないでしょうか。
クリスマスに、東方の三人の博士が、大きな星の光を頼りに、ベツレヘムまでやってきたことが、マタイによる福音書には書かれています。明るい星の光は、希望の光です。それはまだ、闇夜の光で、暗闇の人々を明るく照らすものではありません。けれども、この光は、やがてイースターが来て、わたしたちが復活の光を浴びることになる、確かな約束であるのです。教会が聖霊をいただき、わたしたちが神の民となる、最初の一歩です。
クリスマスは、冬至に近い記念日です。冬至に近いけれど、冬至より必ず後になります。日は、確実に、長くなり始めているのです。冬は、これからが本番です。しかし、日が長くなり始めているということは、必ず春が来ると言うことなのです。イースターが来て、わたしたちが復活の光に照らされることが、約束されています。クリスマスの不思議な赤星よりも、もっと大きな復活の光が、約束されています。わたしたちの命が、約束されているのです。
クリスマスの光を喜び、確かな約束として、イースターを待ち望みましょう。お祈りいたします。
主なる神様、あなたは、小さくされた者たちを用いて、あなたの御業を行ってくださいました。私たちが、まことにあなたの許に集められるためです。どうか、わたしたちが、希望をもって歩むことができますように、主イエス・キリストの復活の命の中にわたしたちを生かし続けてください。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

2016年12月11日 「わたしの魂は主をあがめ」 今村あづさ伝道師
ルカによる福音書1:39~56

 エリザベトとマリアの物語はいずれも、神のご計画ですが、エリザベトとザカリアと言う老夫婦が子供を授かる物語は、旧約聖書の伝統にのっとった物語です。 しかし、イエス様のご誕生の物語は、おとめマリアは、結婚する前に身ごもってしまいます。 当時のユダヤ教の枠内で言うと、マリアはとんでもない罪を犯してしまったことになるのです。
 神は、ご自身がイスラエルに与えた律法に、背いたのです。 ご自分の造られた被造物の世界の秩序を壊してまで、何か、とてつもない新しいことを始めようとされているのです。
 旧約聖書では、神様に用いられるのは、モーセやヨシュア、イスラエルの王たち、そして預言者たちです。 弱い者は、配慮されなければならない存在でした。弱い者、低い者に聖霊が降ることは、旧約聖書ではなかったことなのです。
 しかしイスラエルの王国が滅びてしまうと、王はいなくなり、神殿も壊されてしまいました。 人々はイスラエルから世界中に散らされ、力弱くされ、世界帝国の中で虐げられた民として、さまざまな自由を奪われ、苦役を背負いました。 弱い者、低い者こそが、イスラエルの多くの人々を代表する姿になったのです。
 イザヤを初めとして、預言者の人々は、救い主が来ることを約束しました。たとえば、イザヤ書40章1節~5節があります。 おとめマリアや、このような弱い者、低い者の代表として、聖霊を受けたのです。
 マリアは、弱い自分が神の霊を受けたことを喜び、心と体全体で喜びを歌います。 今やマリアは、預言者たちと同じく、主に選ばれて用いられる、主のために仕えるものになったことを喜ぶのです。 「身分の低い」とは、先ほどのイザヤ書で「苦役」と訳されている言葉で、虐げられたイスラエルを、神が心に留めてくださったという意味になります。
 神の聖霊を受けたおとめマリアに起こる科学的には信じられないような奇跡は、聖霊を受けてキリスト者となるわたしたちの、先達として、マリアに起こる奇跡です。
 イエス・キリストによる奇跡の物語があります。十字架の死と復活、ペンテコステ、その後の奇跡は、わたしたちの歴史です。 聖書の奇跡物語は、現代のわたしたちに続いて行く物語です。 わたしたちもまた、聖霊によって守られ、導かれ、命に生かされているのです。
 絶対不可能と思われたことが、神によってなされる。 神に出来ないことは何もない!この奇跡の物語の、神の始めた真に新しい神のご計画の、最初にマリアは立っています。 おとめマリアの、信じがたい奇跡物語は、わたしたちを生かす奇跡につながる物語なのです。 「聖霊によって宿り、おとめマリアより生まれ」このことは、わたしたち自身に今も働き続けている、神の働きを信じることでもあるのです。

2016年12月4日 「お言葉通り」 今村あづさ伝道師
ルカ1:26~38

毎週、金曜日に東京神学大学で学んでいます。先週の金曜日は、聖書釈義の発表の日でした。説教準備のために、聖書を釈義するのですけれど、いろいろな方法があります。有名な神学者が書いた説教集や講解を読む、と言った方法があります。しかし、今、受講しているクラスでは、それよりもまず、ギリシア語の聖書を自分で読むということが一番大事だと、指導されています。
ギリシア語の聖書で読む、と言うことがどうして大事なのか、というと、聖書が神の言葉である、と言うことを考えると、良く分かると思います。聖書は、神様からわたしたちへのラブレターだよ、と教えてくれた牧師もいました。愛する人からのお便りだとするなら、一言一句が大事になると言うのは、当然のことです。
レポートは、10ページありましたが、文法的な検討が全くなされていなかったので、その点が突っ込まれました。実際、細かい文法までこだわらなくても、取れる意味はそんなに違わないではないか、と思い、時間がないと後回しにしてしまいがちです。けれども、その時に思ったのは、今年の年間聖句でした。主イエスの与える水を、汲み出せるだけ汲み出そう、と今年の前半で皆さんにお話ししたと思います。しかし、皆さんは、直接的にはわたしの説教を通して、み言葉に触れる訳で、わたしの汲み出し方が足りなければ、そこで皆さんはいのちのことばを汲み出すことはできなくなってしまいます。ですから、わたしのできることは、もっともっと精進することだ、と感じたことでした。

人間の目から見ると、不幸な出来事が、実は、神が用意してくださったこの上もないご計画であった。---主イエスの十字架の死と、復活の出来事は、こう言うものでした。人間として、ローマ帝国の政治犯として処刑された。そしてそれは、あろうことか、敵対しているはずの属国の政治的、また宗教的指導者たちの意向を反映してのことだった。しかも、罪状はすべてでっち上げで、正当な裁判もなされない上でのことだった。
個人的には、これは悲劇です。しかし、そこに神の私たち人間を救おうとするご意図があって、そのためにご計画されたことだったことを、わたしたちは知っています。人間の目から見れば断罪された政治犯であったイエスは、神の目から見れば、人間の罪を贖う尊い生け贄であったのです。
今日の聖書箇所でも、一見すると不幸な出来事は、神が用意してくださったこの上もないご計画でした。
26節は、「6か月目に」、と始まっています。なにから6か月目かと言うと、祭司ザカリアの妻エリザベトに洗礼者ヨハネが生まれるよ、という知らせを受けてから6か月目、と言う訳です。ルカ福音書の記述は、とてもきちんと、順序立てて書こうとしています。それは、ルカ自身が3節で、書いている通りです。
26節は、6カ月ほどたって、天使ガブリエルが送られた、神から、ガリラヤのナザレと言う名前の町に、と原文では書かれています。わざわざ「ナザレと言う名前の町に」、と「名前」を入れています。読んでいる人が、ナザレと言う町を知らないことを前提にしているのです。それだけ、名前も知られていない、無名の町だったことが分かります。
そして、27節、ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけである乙女の所に遣わされたのである、と言う文、「いいなずけ」、ですけれど、これは、男性の側からの求めで婚約していた、と言う意味です。そして、「いいなずけであるおとめ」と「そのおとめの名はマリアと言った」と、名前を紹介する時、もう一度「おとめ」と言う言葉を使っています。この三つは何を意味しているかと言うと、マリアが自分から男性と関係を持つような女性ではなかったと言うことでしょう。
天使ガブリエルは、ヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされました。「おとめのところに」というところ、単に場所だけではないようです。おとめマリアと心を通い合わせると言う意味合いがあるようです。天使は、単にお知らせです、と言って用件だけ言って帰るのではない。何らかの心を通わせる交わりをする目的で、やってきたのです。
どういうことか?これから天使が伝えることは、おとめマリアにとっては、驚愕する内容だからです。神のご計画は、この世界に救い主を送るというものでした。そしてそれは、おとめマリアの胎に宿って、人間の子供として生まれることによって、行われると言うことでした。それが、モーセにそうしたように、シナイ山で人間と会うとか、敵に四方を囲まれて絶体絶命のイスラエルに天使の軍団を送るとか、そういった形ではなくて、あくまで神の子を人間の姿でこの世に贈ると言うことが私たち人間の救いになると、分かっていた神のご計画でした。
人類全体を、永遠に救うと言うご計画は、しかしおとめマリアを用いるということで、彼女にとってはある面、身の破滅を意味する事柄です。若い結婚前のおとめが、婚約者の子供ではない子どもを身ごもる。それは、女性にとっては、婚約者の庇護は受けられず、律法を厳格に適用するならば石打の刑で死刑になる出来事です。
ガブリエルは、神の側のご計画を語りますが、そのようなマリアの側の事情を全く考えてくれていなかったのでしょうか。それが、いいなずけであるおとめの「ところに」の原文には込められているように思います。この言葉には、役所の「通達」のような意味合いではなくて、交渉するというニュアンスがあるのです。
つまり、天使には、これから伝えることが、人間にとって何を意味するのかが、分かっていたということです。今、天使には、と言いましたけれど、天使は神の意志を人間に伝えるものですから、父なる神ご自身が、自分が行おうとする計画が、おとめマリアにとって何を意味しているのか、熟知していたということです。それはそうなのです。だって、先ほど、石打の刑で死刑になるところだ、と言いましたが、これは律法に依ります。そしてその律法は、主なる神が、人間が幸せに暮らすことができるようにと、イスラエルの民にくださったものだからです。
人間にとって、この上もない福音が、神によってもたらされました。それは、人間が神にしてはいけないと禁止されていた罪を犯してしまう、そのような人間を救うためでした。しかし、その福音は、神の律法に反する形で、この世にもたらされたのです。
人間は、神様からいただいた律法を、自分たちで勝手に、自分たちの都合のいい形で解釈していました。それは、神の意図ではありませんでした。いわば、神の贈り物である律法は、神の意図とは異なる、いささか乱暴な形で世の中で運用されていた現実があります。天使の「お知らせ」は、まさにその中に、このおとめを放り込むことになるのです。そして、この神の出来事をどのようにこの世界に実現していくか、つまり「み心が天になるごとく、地にも」なすのは、人間の手に委ねられるのです。
天使は、こう言います。「おめでとう、恵まれた方。」ここの翻訳は、難しいと思います。いろいろ、翻訳できます。普通の、「合格おめでとう」とか「結婚おめでとう」とかと言った時の「おめでとう」ではありません。たとえば、「よろこべ!」と言う意味になります。単に、「お目にかかれてうれしいです。」くらいのニュアンスにもなります。人によっては、とてもじゃないが、「おめでとう」と言えないような状況の中で、「喜べ!」という訳です。
そして、「恵まれた方」。神様から愛されていますよ、あなたは神の恵みを一杯にもらっていますよ。だから、「主があなたと共におられる。」と言うのです。これから、マリアに伝える内容は、マリアにとってはこの世的には社会的な破滅を意味するかもしれない内容です。しかし、神はご自身のご計画の中で、マリアを単なる持ち駒として、好きにあしらえる便利な奴隷として、みなしているのではないのです。神が、どこまでも一緒にいて、味方をしてくださるのです。
しかし、29節で、マリアはこの言葉に戸惑います。一体、何のことだろう?なぜ、こんなに歓迎されるのだろう。さっぱり、思い当たる節はないのです。
そうすると、30節でいよいよ、天使は、驚愕の発言をします。結婚前に子どもが生まれることが、神からの恵みだと言うのです!
天使は、「マリア、恐れることはない。」と前置きをしてから、驚愕のお知らせをします。この、「恐れることはない」と言う言葉を、旧約聖書でさまざまな人が聞いています。アブラハムがそうです。まだ、カナンに自分の土地がなく、この世的には地上を旅するアブラハムに対して、神はその子孫を天の星のように多くすると約束されました。神は、恐れるな、アブラムよ、と呼び掛け、わたしはあなたの盾である、と宣言されました。
先ほど、神のご計画は、おとめマリアをこの世的には破滅に追いやる恐れのある者であり、その対応は、この世に委ねられた、と言いましたが、しかし神の守りは、マリアを離れることなく、マリアを守る盾となって働くと言うのです。
実際には、マリアと幼子の守りは、夫ヨセフによってもたらされました。それは、マタイによる福音書によれば、主の天使によって指示されたのでした。
天使のお知らせに、身に覚えのないマリアは、「どうしてそんなことがありましょうか。」と言います。それに対して天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」と言います。いと高き方の力があなたを包む、というのは、分かりづらい表現かもしれません。出エジプト記では、神がご臨在する印は、光り輝く密雲、雲が密集することでした。また、ルツ記には、「主がそのみ翼で覆う」と言う言い方があります。めんどりが雛を翼の中で保護するように、覆うと言うことなのです。
わたしたちは、神が共にいて下さる時、自分の力ではどうしようも出来ないと考えていたことが、不可能でなくなるどころか、信じられない勢いで進んでいくことを知っています。わたしたちの教会も、一人の人が神に出会って、それから教会ができて、この礼拝堂が出来て、と言う展開は、信じられない早さで進んだのでした。「神に出来ないことは何一つない」天使はだから、力強く宣言するのです。
旧約聖書には、せっかくの神の選びを、断ってしまう物語もあります。今日の箇所の直前のザカリアも、男の子が生まれるという天使の言葉を信じなかったために、子どもが生まれるまで話すことができなくなりました。しかし、マリアは言います。「わたしは主のはしためです。」文字通りに訳すと、「見よ、主のはしためがいます。」となるでしょうか。神に心から従っていくことを決心した、言葉です。これを、let it be with me according to your word. と訳している英語の聖書の翻訳があって、この最初の「レットイットビー」が、ビートルズのあのレットイットビーの歌のタイトルの由来だ、とする説があるのだそうです。神のご計画の言葉通りになるように。それは、神への深い信頼があって、祈りの言葉としてしか、口からは出てこないことでしょう。すべての不都合も、神のはしためとして、喜びと神のなされることへの信頼を持って、おとめマリアは受け入れる覚悟を持ったのです。
お祈りいたします。
天の神様、アドベントを迎えました。主イエスによって私たちの罪を赦し、命に生かしてくださるあなたのご計画を喜び、感謝いたします。あなたのご計画を信じ、み心がこの地になるように、受け入れた人々の勇気と信仰に、わたしたちが学ぶことができますように、主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りいたします。アーメン

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