日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文(時に要約)を掲載しています。

2016年1月31日 「この上なく愛し抜かれた」 田邉優子 石和教会牧師
ヨハネ13:1~11

 ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架を前に弟子たち一人ひとりの足を洗われた「洗足」の出来事を通して、主イエス・キリストの十字架の意味を明らかにしています。
この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟った主イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました。この「世にいる弟子たち」という言葉は、1章11節の「自分の民」と同じ言葉が使われています。つまり、主イエスは十字架を前に、「世にいる弟子たち」すなわち「自分の民」を「愛して、愛し抜かれた」のです。
しかし、ここで言われている「自分の民」とは、主イエスを「受け入れなかった」民のことです。主イエスが「自分の民」としてくださったにもかかわらず、自分を受け入れない民を主イエスは「愛して、愛し抜かれた」のです。主イエスは、「自分の民」が、「世にいる弟子たち」がどのような存在か知らなかったのでしょうか。いえ、決してそんなことはありません。主イエスは民が、弟子たちが自分を受け入れず、それどころか、裏切る者であることを誰よりもよくご存じでした。しかし、主イエスはその弟子たちを「愛して、愛し抜かれた」のです。
主イエスによらなければ、だれも罪の汚れ(けがれ)を取り除くことができない私たち。自らの力で主イエスを救い主として信じ、神を礼拝することができない私たちのために、主は世に来てくださったのです。主イエスがここで弟子たちの足を洗われたのは、単に足の汚れ(よごれ)を落とすためではありません。そうではなく、主イエスの十字架の意味を弟子たちが後で、分かるようになるためです。弟子たち一人ひとりの足を洗い、その身の汚れ(よごれ)を洗いきよめてくださったように、「自分の民」として選び、愛して、愛し抜いてくださった救い主され受け入れず裏切る「世にいる弟子たち」、すなわち、私たちの汚れ(けがれ)をきよめ、罪から救い出すために、主は十字架についてくださったのです。
私たちの救い主イエス・キリストは、際限なくどこまでも、ご自分の命をささげるほどに私たちを「愛して、愛し抜かれ」る方なのです。

2016年1月24日 「離縁してはならない」 今村あづさ伝道師
申命記24:1~4、マタイ5:31~32

 ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架を前に弟子たち一人ひとりの足を洗われた「洗足」の出来事を通して、主イエス・キリストの十字架の意味を明らかにしています。
この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟った主イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました。この「世にいる弟子たち」という言葉は、1章11節の「自分の民」と同じ言葉が使われています。つまり、主イエスは十字架を前に、「世にいる弟子たち」すなわち「自分の民」を「愛して、愛し抜かれた」のです。
しかし、ここで言われている「自分の民」とは、主イエスを「受け入れなかった」民のことです。主イエスが「自分の民」としてくださったにもかかわらず、自分を受け入れない民を主イエスは「愛して、愛し抜かれた」のです。主イエスは、「自分の民」が、「世にいる弟子たち」がどのような存在か知らなかったのでしょうか。いえ、決してそんなことはありません。主イエスは民が、弟子たちが自分を受け入れず、それどころか、裏切る者であることを誰よりもよくご存じでした。しかし、主イエスはその弟子たちを「愛して、愛し抜かれた」のです。
主イエスによらなければ、だれも罪の汚れ(けがれ)を取り除くことができない私たち。自らの力で主イエスを救い主として信じ、神を礼拝することができない私たちのために、主は世に来てくださったのです。主イエスがここで弟子たちの足を洗われたのは、単に足の汚れ(よごれ)を落とすためではありません。そうではなく、主イエスの十字架の意味を弟子たちが後で、分かるようになるためです。弟子たち一人ひとりの足を洗い、その身の汚れ(よごれ)を洗いきよめてくださったように、「自分の民」として選び、愛して、愛し抜いてくださった救い主され受け入れず裏切る「世にいる弟子たち」、すなわち、私たちの汚れ(けがれ)をきよめ、罪から救い出すために、主は十字架についてくださったのです。
私たちの救い主イエス・キリストは、際限なくどこまでも、ご自分の命をささげるほどに私たちを「愛して、愛し抜かれ」る方なのです。

2016年1月17日 「聖なる者となれ」 今村あづさ伝道師
レビ記20:7~10、マタイ5:27~30

姦淫は、旧約聖書の十戒の第六戒で禁止されています。結婚した者同士の不倫は、考えるだけでもいけないと、主イエスは仰います。結婚前の男女の場合は、ここまで禁止されていません。結婚を前提として付き合い、結婚前は慎むべきですが、関係自体は禁止されません。そのような関係となったら必ず結婚することが求められています。
不倫は、伝統的に日本でも重罪とされ、江戸時代は見つかった場合は男女とも死罪とされていました。それは現在の日本国憲法になるまで、変わりませんでした。しかし、日本国憲法のもとでは、男女平等に反するということで、廃止されました。妻のみが罰せられ、夫は浮気をしても、一向に罪に問われなかったことが、問題とされたのです。いわゆるお妾さんがいて、当たり前の社会だったからです。
明治時代になってキリスト教が解禁となった時、教会が直面したのは、このような日本の現状でした。キリスト教徒は現状を憂慮し、一生懸命、一夫一婦制を基本とする考え方を広めました。売春禁止や廃娼運動など、随分社会に煙たがられましたが、努力は少しずつ報いられていると思います。
一夫一婦制の考え方を教会が進めると言っても、教会が差別をする側に回ってはいけません。主イエスが人を生まれや身分で差別することに対して戦ってくだったからです。主イエスは本来、選ばれる資格のないものを選んで神の子としてくださったのです。
現代の日本に姦通罪はありませんが、海外では現代でも、多くの国で、男女に姦通罪があります。家族や子どもたちの平穏な毎日を犯し、秩序を犯すものであることを思い起こさなければなりません。
主イエスは、罪の現実をご存知です。最初は思いだけでも、あるところから歯止めが利かなくなる時点があるのです。そのような現実をご存じだからこそ、見ただけで罪を犯したことになるのです。
神様がわたしたちを、すべての民の中で最も祝福される者となるということを約束してくださったことを覚えて、誇りを持ってふさわしい者になれるように努めましょう。

2016年1月10日 「ナジル人として」 今村あづさ伝道師
士師記13:1~7、24~25、マタイ2:13~23

日本では、12月25日が過ぎると、クリスマス・ツリーは可及的速やかに取り外され、松飾りにとって代わるので、あまり意識することはありませんが、ヨーロッパやアメリカ大陸のキリスト教国ですと、公現日までがクリスマスの期間で、公現日が過ぎるとクリスマスの様々な飾り付けをしまうようです。この公現日と言うのは1月6日で、イエス様の洗礼を記念する日のようで、光が公に現れた、と言う意味で公現日と言うようです。
もっとも、クリスマスの飾りをいつまで飾っておくか、というのは国によって異なるようです。台湾の教会を訪問したことがあります。2月だったと思いますが、まだ飾ってありました。台湾でいつまで飾っておくのが習慣かは、確かレントが始まる前までだったと思いますが、忘れてしまいました。台湾には台湾の事情があって、受け入れられているようです。
公現日のお祭りをやるところは、1月6日の次の月曜日にやっているとネットに書いてありました。正しいかどうかは分かりませんが、明日、11日と言うことになります。そこで、今日は「日毎の糧」という主日聖書日課からすると、聖書箇所として主イエスの洗礼の箇所が選ばれています。わたしの選んだ聖書箇所も、今日は、クリスマスに関連する聖書箇所の最後なので、イブ礼拝でお話をしなかったことについても、お話ししておきたいと思っています。1章18節の、「二人は一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と言う箇所についてです。
この箇所は、使徒信条の「おとめマリアより生まれ」と言う箇所に該当します。このことを信じることができなければ、わたしたちの信仰告白は嘘だということになります。しかし、ここをどのように信じているでしょうか。
一つの解釈としては、「おとめ」と言う言葉のもととなったヘブライ語に戻ることです。そうすると、ヘブライ語では、この言葉は「処女」という意味のほかに「若い女性」と言う意味を持っています。単なる若い女性と言う意味に過ぎない。若い女性が身ごもるのは奇跡でも何でもない。ギリシア語訳は誤訳に近いと考えるのです。
しかし、「おとめ」でなくてはならない信仰があります。カテキズム、つまり教理問答では、この信仰に立って説明します。これは、信仰的に理解するのだ。つまり、人間の男であるヨセフとは、遺伝的な関係がないという意味だと理解することです。
この遺伝的な、というのは、現代のわたしたちの知識にある遺伝子とか、DNAとかと言った意味とは異なります。アダムと言う一人の男が罪を犯した。そのアダムの罪は、原罪として、人類全体に遺伝している。このように考える遺伝です。
そして、イエス・キリストが、神の聖霊によって宿ったということは、人間の男によって宿ったのではないということであり、この原罪を受け継いでいないということを意味します。
使徒信条は、信仰告白としては簡易版です。公会議で認められ、東西のキリスト教会の信仰告白となっているものに、カルケドン信条があります。この信条では、「まことの神、御父と同質」と告白します。「おとめ」から生まれたというのは、まずはキリストが、父なる神と同質であるということを説明するものなのです。
しかし、それでは「マリアより生まれ」なくてはならなかったのは、なぜでしょうか。それは、真の人間の体を持つ必要があったからです。肉をまとい、この世の中のただ中に生まれ、わたしたちのどうしようもない罪の存在を、御自分の十字架に置いて担われたこのお方をこそ、私たちはまことのわたしたちの主であると告白しています。
イエス・キリストの神としての性格と、人としての性格は、いずれも完全で、欠けることがありませんでした。人間として痛みを感じないとか、苦しみを感じないとか、そういったことはなかったのです。一方で、真の神でもありました。ヨハネ福音書では、初めから神と共にあったと書かれています。これは、時間的なことと言うよりも、神と等しい性質を持っていたということです。
この人間としての性格と、神としての性格の二つが、一人の方の中に、混ざることなく、欠けることもなく、矛盾することもなく存在した。わたしたちの信条は、そのように信じています。「おとめマリアより生まれ」という一言には、ここまでが含まれています。
わたしたちは、福音書の主イエス誕生の物語、というと、夢物語と言うか、決まり文句で言うならば「信仰によって読むべき物語」として、読んでいることが多いと思います。それは、間違いではないのです。「当時は奇跡が行われたことが神が共にいてくださることだと信じられていたけれども、現代の人間にそれは無理だ」と考えることは意味がありません。「生物学的にあり得ない」とか、いろいろ考えても、福音は結局のところ、その人には開かれません。一読して夢物語と思われるような聖書の記述の中に、神様の真理を啓示する意味が含まれています。神様が現そうとしている真理が、わたしたちが日々生きていく上で真実だと信じるからこそ、わたしたちは聖書のみ言葉を自分に向けられた言葉として、読むことができるのです。

教会には、クリスマス・ツリーは外しましたが、いただいた年賀状はまだ掲示してあります。山梨中の教会からいただいたものもありますし、沼津教会の宮本先生からの物もあります。
山梨分区内の教師会は、明日ある訳ですけれども、わたしが新任一年目だということで、いろいろな御配慮をいただいています。このことは、何度もお話をしていますが、教区や分区からの謝儀補助がありますし、毎月の聖餐式の執行をするために富士吉田教会にどなたかが来てくださっているということがあります。
これに加えて、教会が教団に復帰する時にも、教区内の他教会の皆さんや、当時の教区長だった北牧師に大変お世話になったという話を伺いました。教会のために祈ってくださり、動いてくださった人たちがいたということです。そしてその祈りが、神様のみ旨に適っていたからこそ、かなえられたということでしょう。私たちは、祝福されている。そのように思い、感謝するのです。

ここに来て、寒さのせいもあるのでしょうか、教会に集う人々のご家族が、それぞれ、御病気になったり、転倒して骨折したり、あるいは食事が食べられなくなったり、といったご連絡が相次いでいます。介護する本人も、体調を崩している方たちがいます。私たち一人一人は微力です。しかし、主イエスは力強い。私たちは、主イエスによって、毎日を過ごしていく力を与えられます。わたしたちの日々が主に支えられて行くと同時に、わたしたちの支えている家族もまた、主の希望に生きることができるように、主の憐れみを願っていきたいものです。

さて、今日の箇所は、主イエスがエジプトから帰還し、ユダヤではなくてガリラヤのナザレに住んだことが書かれています。まず、20節に「この子の命を狙っていた者どもは、死んでしまった。」と天使が宣言をしていますが、これもまた出エジプト記4:19で、神がモーセにいった言葉です。ここは、前回の続きで、神の言葉を人々に伝え、囚われの地から解き放った神の御業を思い起こさせます。
22節で、アルケラオの名前が出てきました。ヘロデ王は、遺言としてアルケラオを後継者に指名し、ローマ皇帝の承認を得るように、言い残しました。ローマ帝国の属国としての地位を象徴的に示します。
ローマ皇帝アウグストゥスは、アルケラオをユダヤの国王とは認めず、イドマヤ、ユダヤ、およびサマリヤ地方の統治者とすることにし、残りは彼の兄弟フィリポとヘロデ・アンティパスに分割統治させることとしました。アルケラオは、9年間、領地を統治しましたが、失政が続いたため罷免されてしまいます。領地はローマの属領となり、ローマから派遣された総督によって統治されることとなりました。
ヨセフがエジプトから帰還した時、アルケラオがユダヤを支配していたというのは、この9年間の統治期間の間だったことを示しています。しかし、ヨセフがユダヤに行くことを畏れたのは、どうしてでしょうか。
エルサレム神殿には、過越しの祭りやペンテコステの祭りの時に、たくさんの人々が礼拝するために集まります。群衆と、駐屯しているローマ軍との間に何度も騒動が起きました。ユダヤの人々は、ローマ軍の駐屯を喜ばなかったのです。実際、このユダヤの状況は、占領は終わったけれども米軍基地が置かれ、安保反対のデモの繰り返された1960年代の日本の状況によく似ているところがあります。ユダヤの人々は、「ヤンキー、ゴーホーム!」とは言わなかったですが、気持ちは同じようなものでした。
ヨセフはどうしたでしょうか。このような騒動からは距離を置きました。ガリラヤ地方に引きこもった、という言い方には、浮世から離れて隠遁した、と言うニュアンスがあります。主イエスと言う宝をひたすら守ったのです。
ガリラヤのナザレとは、どんな町でしょうか。旧約聖書で、この町のことが書かれている箇所はありません。古い町でもなく、大きな町でもなく、城壁もありませんでした。ヨハネによる福音書では、1章では、フィリポがナタナエルに「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と紹介すると、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑問を呈します。彼は、ガリラヤのカナ出身だったので、ナザレと言う町の名前も、どんな町かも良く知っていたのです。そして、知っているからこその疑問だったのです。
しかし、それでは、「彼は、ナザレの人と呼ばれる」と、引用を示すかのような鍵かっこがついているのは、どう考えたらよいのでしょうか。そこで今日は、引用箇所のもととなったと思われる旧約聖書の箇所を一緒に読んだのでした。ここでは、ナゾーライオス「ナザレの人」ではなくて、ナジライオス「ナジル人」となっています。ナザレではなく、ナジルからひっかけているのだという訳です。
ナジル人の誓願については民数記の6章にあります。特別の誓願をする人々のことです。ぶどう酒、濃い酒、ブドウから造った物はすべて絶ち、誓願の期間中は髪を切りません。誓願期間は、普通、30日間とされていました。しかし、終生のナジル人と言われる人々がいて、その人たちは、生まれる前に親に与えられた神のみ心によってナジル人とされるのでした。
今日読んだサムソンは、終生のナジル人です。親による誓願があり、神に捧げられました。サムスンは、怪力で知られ、当時支配していたペリシテ人を散々に苦しめました。怪力の秘密は、剃ったことのない髪にあり、髪を切られたサムスンは力を失って捕らえられ、目をえぐられて獄につながれ、さらしものにされます。しかし捕らえられているうちに髪が伸びて来て、その怪力が甦ります。最後にサムスンは、繋がれている建物の柱を押し倒し、自分の命と引き換えに、ペリシテ人の領主を含む多数の人々を倒したのでした。
ナジル人であるサムスンは、自分の命と引き換えに、イスラエル人をペリシテ人の脅威から救いました。主イエスは、御自分の十字架での死によって、人間を罪から救いました。主イエスの御生涯は、ナジル人としての御生涯であった、とする人々の理解が、ここにあるのでしょう。
先ほど、ナタナエルの言葉をヨハネ福音書から引用しましたが、「主がナザレなんて言う取るに足らない町から出てくるはずがないではないか」と言わんばかりの反対者に対して、「ナザレの人」にはこんな意味がある、とマタイは示したかったのだと思います。
先週から読んできた、2章13節以降で現れる旧約聖書の引用箇所は、必ずしも救い主の預言にふさわしい箇所ではありません。けれども、これらの箇所を引用しているのは、ユダヤ人にはよく知られた救い主の出現の預言ではないけれども、ユダヤ人が読み落としている場所で、主イエスの出現は預言されており、それらがことごとく実現したのだということです。「ご計画のままに」神のご計画が実現した。「み心のままに」神の力強いみ手によって救いの出来事は起こった。マタイによる福音書の2章は、わたしたちにそのように教えているのです。
お祈りします。
在天の父なる神様。あなたは、わたしたちをすべて救ってくださるために、その力強いみ手を伸ばしてくださいましたから、感謝いたします。父なる神のご計画に従った御子キリストのなさった業を、わたしたちが感謝し、今日も一週間を生きる命をいただくことができますように。この世の中で、あなたの光を輝かすことができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

2016年1月3日 「ご計画のもとに」 今村あづさ伝道師
出エジプト1:22~2:10、マタイ2:13~18

主イエスの幼児時代がどのようだったのか、それは伝説によってさまざまに伝えられています。新約聖書では、誕生の次第はマタイによる福音書とルカによる福音書の二つの福音書で伝えられていますけれども、これ以外にも、外典とか使徒教父文書とか呼ばれる文書が、主イエスの幼児時代について、いろいろ伝えています。これらの内容は互いに異なり、マタイによる福音書とルカによる福音書も、マタイは夫ヨセフの側から、ルカ福音書は母マリアの側からの証言を語っており、内容は異なります。
外典などで伝えられる幼子主イエスの物語の内容は、「信仰と生活との誤りなき規範」(「日本基督教団信仰告白」より)として理解することはとても考えられず、だから「神の霊感によってなった」とは認められなかったために、聖書の一部として選ばれなかったと考えられます。
マタイによる福音書とルカによる福音書の誕生の次第も、一致はしていません。でも、聖書の一部として選ばれているのです。神の言葉として、わたしたちはこの箇所をどのように読んだらよいのでしょうか。
それは、この聖書の箇所に込められた意味を読み取るということです。
ここで、エジプトへの避難と、男児の虐殺についての記事があります。両方を合わせると、モーセの誕生の記事が思い出されるのです。モーセは、ファラオが男の子はすべて、ナイル川に放り込んで殺せという命令を出していたさなかに誕生し、見つかると観念して母が川に流した赤子は、哀れに思ったエジプトの王女に助け出されたのでした。
このモーセの誕生は、エジプトで奴隷として過酷な生活をしているイスラエルの民を、神が救い出すためのご計画だったのでありました。出エジプト記3:7~10を参照してください。
神様は、この幼子イエスのエジプト下りとガリラヤへの帰還の中で、何を私たちに示そうとしているのでしょうか。それは、いろいろ言われています。一つは、モーセの誕生の次第を思い出させることから、モーセに匹敵する預言者としてのイエスを現しているということです。モーセは、旧約聖書最初で最大の預言者と考えられています。そのモーセと匹敵する、いやいやモーセをしのぐ預言者として、主イエスの物語は置かれているのです。
モーセは最初からエジプトで生まれ、イスラエルの人々を率いてエジプトを脱出させ、カナンの地に入る直前まで導いた人です。一方で幼子イエスのこの旅は、イスラエルにいたのに、エジプトに降り、もう一度イスラエルに帰っています。このことはむしろ幼子イエスが、モーセの人生どころか、イスラエルの民族全体の運命をもう一度なぞったということも言えそうです。荒野の40日間の断食も、出エジプトの民の40年間荒野を旅したことを思い出させます。
「この子は自分の民を罪から救う(マタイ1:21)」ために、御自分の民のたどった道を、御自分で体験されたということかもしれません。神様が、民を救うという壮大なご計画のために、万全の準備をしていたということが言えるのです。
この神様のご計画に対して、人間はどのように対応したのでしょうか。
このような神様のご計画を、必死でぶち壊そうとした人がいました。ヘロデ大王です。彼は、占星術の学者たちの言葉から不安にかられます。神様のご計画に自分の息子たちが含まれていないことに気づいたのです。それどころか、この神様のご計画は、自分や自分の家族の地位を危うくするものでした。彼は、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させました。
主イエスの誕生に関して、男の子が虐殺されたのかどうかは、史実には残っていないそうです。けれども、ヘロデ大王については、若いころ、山岳地帯に洞穴を掘って潜伏していた反政府ゲリラの根城に、たいまつで火を付けて掃討したという逸話が残っています。ローマ兵に命じて、山の頂上からたいまつを持った兵士を入れたゴンドラをつりさげ、洞穴にたいまつを放り込んで、飛び出してきたゲリラを切り殺したのだそうです。また、晩年は、何番目かの妻と、自分の息子たちを次々と処刑したという記録もあります。ですから、ヘロデ大王が幼児を虐殺したというのは、ありそうなことと、考えられたことでしょう。
ヘロデ大王の目論見は失敗しました。天使は虐殺の計画を察知し、ヨセフにエジプトに避難させたのです。エジプトに避難した幼子イエスは助かり、ヘロデの計画は実行されたものの、目的を果たすことはできませんでした。この事件の後でヘロデは、すぐに死んでしまいます。
神のご計画は、神に敵対する者の行ったことさえもご自分のご計画に沿うものとして用いられる。わたしたちは、このことを確認したいと思います。そして、人間の思いによって立てられた計画は頓挫し、神のご計画は、人の思いとは異っても、あくまで進むのです。神を信頼する気持ちが無い者には呪いが置かれます。ヘロデ大王は、さまざまな面で輝かしいことを行って来ました。イスラエルの領土は安堵され、壮大なエルサレム神殿も築きました。しかし、彼の晩年が悲惨なものだったのは、神に信頼していなかったという、この一点にあったのではないか、と思うのです。

ヘロデ大王に対して、幼子イエスを神様からの大切なプレゼント、預かり物として、宝として、ひたすら神様のご計画に合わせて守り抜いた人がいました。夫ヨセフがその人です。
ヨセフとは、どんな人物でしょうか。彼は、マタイによる福音書の1章と2章、ルカによる福音書の4章までに登場します。しかし、ヨセフについては、マタイ福音書もルカ福音書も、言った言葉が書かれていません。彼は、台詞のない人物なのです。一方で、彼は行動する人です。ヨセフはいつも、移動しています。ベツレヘムへ行き、エジプトに下り、ユダヤに戻った後はガリラヤ地方に行ってナザレの町に住みました。
最初ヨセフは、身重になったマリアのために、密かに離縁しようと決心しました。ところが、夢に天使が現れ、安心してマリアを妻に迎えるように、促します。彼は、天使のお告げの通りに、マリアを妻として迎え入れました。神に従順に従ったのです。
無事に子どもが生まれると、エジプト下りとエジプトからの帰還があり、ユダヤに帰ってからも北方のガリラヤのナザレに住むことになります。移動、移動、移動です。いずれも、天使からのお告げがあって、それに従って行動します。その従い方は、尋常ではないでしょう。「起きて、夜のうちに(14節)」エジプトに去ったというのです。そこには、神に対する全幅の信頼があります。彼は、正しい人でありました。1章25節に「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。」とありますが、ここから神に対する畏れ敬う思いが伝わって来ます。
寡黙に、神の命じた通りに行動するヨセフからは、創世記22章で、イサクを神に焼く尽くす献げ物として捧げなさいと命じられた時の、寡黙なアブラハムの行動が思い出されます。2節で神から命じられると、一切彼は言葉を発することなく、しかし次の朝早く、神の言葉通りに出かけるのです。神の言葉にしたがって、エジプトに降りまたユダヤの地域を移動するヨセフから、神の言葉にしたがってイスラエルの地域を、生涯、旅をしながら一生を過ごしたアブラハムの信仰の姿が思い出されます。アブラハムは、たくさんの家畜を所有し、イスラエルの大地を移動して生活しながら、妻サラが亡くなり、彼女を葬る土地をヘト人に譲ってもらうまで、自分の土地を一切所有していませんでした。
ヨセフは、マタイによる福音書では、2章の終り以降は、登場しません。ルカによる福音書では、4章で12歳のイエスの宮参りの記事があり、ここが最後です。ルカでもヨセフには台詞が無く、それどころかクリスマスの記事の後は、名前さえ出てきません。思いも行動も、神に従い、従い抜いた人として、消えていくのです。
主イエスが、宣教活動を始められた以降、主イエスの家族は、母マリアや兄弟姉妹の話が出てきますが、ヨセフは登場しません。そこで、子どもたちが生まれた後、早くに亡くなったのだろうと、推測されてきました。しかしながら、その死がどんなものだったのか、聖書は沈黙していますし、亡くなった後の聖なる家族がどんな様子だったのか、主イエスの妹たちが地元で結婚していた以外は、良く分かりません。
つまりヨセフは、言葉を発することなく、神のみ心に従って行動したという以外、わたしたちには分かることは何もないのです。神の子を守る、神の母を守るという、神によって与えられた使命を全力で行い、神のご計画を実現させて行ったのです。神様のご計画、つまり主イエスを通じて、人間を救うというご計画です。
ヨセフに見えていたのは、無力な赤ん坊と無力なその母だけです。自分が大切に守っていかなければ生きていけない弱々しい存在です。しかもそれは、自分の子どもでさえない。「この子は自分の民を罪から救う」と言った天使の言葉は、それがどのようにして行われるのかについては、全く何も教えてくれません。ヨセフには、全く何も分からないまま、無力な幼子とその母が託されたのです。
ヨセフは、神に対する信頼、信仰によってのみ、この役目を引き受け、そして、まっとうしたのではないでしょうか。その人生は、一つ間違えば大切な宝物の命が、失われてしまうかもしれない、危険な旅の人生でした。守らなくてはならない者たちを抱え、この世界には頼る相手がいない中で、神に祈りつつ、神に託された使命を果たしていったのです。その祈りはまさに、「み心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りだったのではないでしょうか。
わたしたちもまた、このヨセフのように、父なる神に信頼し祈りつつ、歩んでいきたいと思います。
お祈りいたします。
父なる神様、あなたに信頼して歩んだヨセフの生涯を、わたしたちが心に刻むことができますように。み心が天になるごとく、地にもなさせたまえという、主イエスが教えてくださった祈りを、私たちもまた、わたしたちの心からの祈りとして捧げ、歩んでいくことができるように、わたしたちを支えてください。主イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン

2016年1月1日元旦礼拝 「あなた方はわたしの弟子」 今村あづさ伝道師
ヨハネによる福音書13:31~35

今年度の年間聖句が、週報の表紙に印刷されているように、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」という、今日の箇所の中の最後の部分、34節~35節です。今年度の年間聖句について、お話をする機会をいつにしようかと、年度の初めに考えていました。
第一礼拝では、今年はヨハネによる福音書を続けて学んで来ました。大体において順番なのですが、イースターにはご受難と復活を、クリスマスの時期に1章をやるなど、いろいろ時期的に考慮しています。あさって、新年最初の聖書箇所がここの部分です。そこで、新年に取り上げるにふさわしい箇所として、今日を選びました。
今日の箇所は、「さて、ユダが出ていくと、イエスは言われた。」と始まっています。「今や、人の子は栄光を受けた。」「人の子」とは、主イエスのことです。31節、32節で主イエスが言っていることは、これから起こる十字架のご受難、それは神の栄光を現す出来事なのだ、ということです。そして、それが主イエスによって行われるゆえに、神は主イエス自身に栄光をお与えになる、つまり復活させる。そのように言っているのです。
主イエスの言葉は、ユダが出ていくと始まっています。ユダが出て行ったことが、主イエスの栄光の時、神のみ栄を現す時、つまり十字架の時の始まりなのです。イスカリオテのユダは、主イエスを当局に引き渡すため、裏切るために出て行ったからです。
主イエスのご受難が近い。それは、主イエスとの別れが近いということです。ここで主イエスは弟子たちに新しい掟を与えています。この掟は、主イエスの遺言としての掟です。
モーセの告別説教というものがあります。申命記全体は、最後の34章を除き、ほとんどすべて、臨終の近いモーセの言葉だということになっています。長い長い遺言です。
主イエスの遺言は、それほど長いものではありません。14章、15章、16章です。そして、その後17章に長い祈りがあります。これも、遺言に近いでしょう。
ここで、主イエスの遺言は、簡単です。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛い合いなさい。」というのです。その結果として、「あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
この箇所の直前に、主イエスが弟子たちの足を洗う場面があります。14節では、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。」という、主イエスの言葉があります。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」という言葉と、「互いに足を洗い合わなければならない。」という言葉は、同じ意味でしょう。いずれも、「主イエスが自分を低くして奴隷のように弟子に仕えたのだから、弟子たちもお互いの奴隷のように、仕え合いなさい」、そういう意味になると思います。
当時、ラビと呼ばれる律法の先生に教えを請うためには、今で言えば内弟子のように先生に仕えたと言われています。しかし、それでも、先生の足を洗うことまではやらなかった。人の足を洗うというのは、奴隷の仕事だったからです。人間の尊厳が傷つけられるような仕事だとされていたのでしょうか。他人の体に触って世話をするような仕事は、ユダヤ人の社会の中では低く見られていたということもあります。
しかし、主イエスは、そのような奴隷の仕事をご自分でご自分の弟子たちに対して行うことによって、互いに仕え合うことを教えたのでした。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」パウロも、フィリピの信徒への手紙でこのように勧めています。

最近でも、人の世話をする仕事は、たとえば召使とか、女中のする仕事で、低く見られる傾向がありました。だからでしょうか、今でも看護、介護、保育の仕事は、報酬が低く抑えられているような気がします。
大変で報酬も少ないけれど、主イエスが模範になってくださったから、人を自分自身のように大事にして、お付き合いをしていきましょう、そういう意味に理解したら、ちょっと違います。でも、そういう意味に理解する人が多いし、世間的にはその方が受けがいい。そんな現実があります。
「教会の働きは、大変結構だ。福祉、教育、病院、社会で立派にやっている。あんたたちは、信仰があるから、低い報酬でも喜んで働くし。あの、刑法犯として処刑された男の話しさえしなければ。」と。そして、確かに「刑法犯として処刑された男の話」が出てこないような説教さえ、聞いたことがあります。
けれども、わたしたちのこの力、社会を世界を変えていく力を持っているのは、実にここのところ、あの刑法犯として処刑された男に依っているのです。「わたしがあなた方を愛したように」ここのところをすっ飛ばす訳には、いきません。
主イエスが、わたしたちを愛したというのは、どんなことだったでしょうか。それは、「わたしが死んでも、あなたに生きて欲しい」という愛でした。この愛は、父なる神の思いでした。子なるキリストは、御自分の身に父なる神の思いを引き受けて、十字架に掛って死んでくださいました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、(父なる神に対して)従順で(、神のご計画に従いま)した。」
主イエスが、御自分の生涯を人間の個人的な思いで生きたのだとすれば、別に死ぬ必要などなかったのです。やもめとして暮していたであろう母マリアを助け、兄弟姉妹と共に故郷のナザレで暮らし、あるいは地域の会堂で安息日には人々に教える。病気や悪霊に苦しむ人がいたら、癒してあげる。結婚し、子どもも生まれ、いわゆる人間としての生涯を全うすることも出来た筈です。
一方で、神でもある主イエスは、その権能をお使いになって、釘打たれた十字架から降りることも出来た筈です。いや、そもそも、神であるならば、死ぬことはないのですから、主イエスが苦しんだというのも、苦しむふりをしただけかもしれません。
しかし、実際には、主イエスはまことの神として、父なる神のみ心を現しました。それは、真の人間として、人間の肉体を持って死の苦しみを味わわれることで、まっとうされました。それは、肉体を持ってこの世界を生きて行かなければならない、わたしたちのまことの救いのためでした。
ですから、主イエスの「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」という主イエスの言葉は、御自分のたった一つの肉を持った存在を、わたしたちに捧げつくした主イエスの言葉なのです。
ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください。」とイエスに言うのに対して、イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました。主イエスの「愛する」ということは、単なる言葉や気持ちだけではなくて、御自分の全存在を掛けた奉仕なのでありました。
わたしたちの泥だらけの足、自分で自分を救えないわたしたち人間の現実の中で、神がわたしたちの足を洗ってくださる、御自分の死を通してわたしたちを救ってくださる。そのような泥臭い、体ごとの、泣き叫ぶ赤子を抱き締めるような、神の救いとはそういう形でなされるものなのでした。
そして、主イエスは、一人ずつ、足を洗いました。わたしたちと主イエスとのかかわりは、こんな風に、御自身が関わって下さる。わたしたち一人一人に対する個別の救いなのです。
主イエスは神様の愛を、わたしたちに示してくださいました。神様がわたしたちを先に愛してくださったのです。わたしたちが愛したから、神様が愛し返してくださったのではありません。神様が、わたしたちを愛してくださったから、わたしたちは、人を愛することができます。お互いに愛し合うことができます。そしてそのことが、主イエスの弟子であることのしるしなのです。
このしるしは、とても明らかなので、それによってこの人たちは主イエスの弟子なのだ、ということは明白になります。そして、明白になるということ自体が、この世の中とわたしたちが異質であるということを示しています。わたしたちが日ごろ感じている苦しさは、ここから来ています。
世界と異質の存在であるというのは、主イエスから来ているものがあるからです。教会は、この世にあるけれど、主イエスによって、天国が始まっているところです。わたしたちが味わっている救いの恵み、それはわたしたちから、教会から溢れ出て行って、世界には異質のものとして存在しますが、それは世界を変えていく力をも持つものなのです。
その力は、教会が始まったところから、始まっています。教会の働きは、幼稚園や大学を含む学校や、福祉施設、病院、ホスピスなど、大きく広がっています。それだけではなくて、政治であったり会社であったり、国際社会に対しても、わたしたちの働きは続いているのです。
「あなたはわたしにとって価値がある。」「あなたは大事なんだ」「あなたは役立たずではない。」「あなたは愛される価値のある人間なんだ。」主イエスが始めてくださった神の国、他人を愛することによって、他人に奉仕することによって、他人を変えて行き、世界を神の国としていく、そのような活動は既に始まっており、今も継続し、完成に向かっているのです。
「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」このことはまず、教会から始まります。ヨハネの手紙Ⅰでは、このことを当たり前のこととして、「「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお、闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。」と書かれています。兄弟を憎む人は、主イエスを信じていると思っていても、主イエスは共に生きてくれない。兄弟を愛する人は、光の中にいる。兄弟を愛する人には、主イエスが共にいてくださるのです。
これらのことを理解していても、実際にはうまくいかないということが、往々にしてあります。教会の歴史を紐解くと、分裂や脱退といった言葉によく出くわします。14章に入ると、主イエスが聖霊を与える約束をしてくださる箇所が出てきます。15節に、「あなた方は、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。うんぬん」主イエスが再臨してくださるまで、聖霊なる神様は、わたしたちと共にいてくださり、わたしたちを正しい方向に導いてくださいます。そのことに信頼して、進んでまいりましょう。主イエスご自身が、約束してくださっています。聖霊なる神様ご自身がこの教会を建て、導いていてくださっています。わたしたちは、み霊の助けを祈り、信頼して過ごしてまいりたいのです。お祈りします。
聖霊なる神様。あなたは、教会の頭なるキリストのもとにわたしたちを集め、わたしたちを支え、必ず正しい方向に導いてくださいますから、感謝いたします。わたしたちがあなたの働きを信頼し、主イエスの再臨の時を、共に愛し合いながら、待つことができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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