日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年11月26日 「どんな種より小さいのに」 今村あづさ伝道師
マタイ13章31~33節

今日の譬え話でイエス様は、元はとても小さいのに、結果がものすごく大きくなるものが、天の国なのだ、とおっしゃっています。大きくしてくださるのは、神様の力です。神様の力の力強さをイエス様が13章でおっしゃっている。それは、12章でイエス様を殺す相談がなされ、14章では洗礼者ヨハネが殺される、その間に語られているということです。敵の圧迫が大きくなっていく中で、イエス様は神様の大きな力を確信しています。そして、イエス様は、ご自分が神様の大きな御手の力、この地上で行おうとされておられる福音の出来事に、ご自分が用いられることを確信しているのです。

最初のたとえ、からし種の譬えを詳しくみていきましょう。
からし種というのは、マスタードの中に入っている粒々のことです。からしは、アブラナ科の植物ですから、野菜ということになりますが、大きなものは2mにもなるそうです。ですから、どの野菜よりも大きくなる、というのは、多分そうなのでしょう。けれども、いくらなんでも木になるのでしょうか。
野菜については、旧約聖書では野菜ではなくて「草」として出てきて、例えば、詩編の37編では、「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」と、簡単にしおれ、枯れる、あまりいいイメージはないようです。
一方、「木」については、ダニエル書3章後半から「バビロン王ネブカドネツェルの見た大きな木の夢」というのがあります。この中で、バビロン王は、大きな木の夢を見ます。(この夢の意味がわからないので、ダニエルがいとも簡単に解き明かすので、驚嘆してしまうのです。ヨセフがエジプトのファラオの夢を解き明かしたように、ダニエルも行ったのです。)
夢では大地に大きな木が生えています。天に届くような高さで、その枝には空の鳥が巣を作るのです。ダニエルは、この木はネブカドネツェル自身だと読み解きます。木の素晴らしさは、王の権威の大きさ、王国の強大さを表しているのです。
今日の聖書の箇所にも、ダニエル書と全く同じ表現、「枝には空の鳥が巣を作る」というところがありますから、小さな小さな出発でも、神の国はあっという間に力強い王国ができるということなのでしょう。
木には、鳥が来て巣を作ります。鳥は、創世記1章にあるように、神様によって創造された存在です。しかし、イスラエルが神様に背くと、神様は外国の勢力を使ってイスラエルを懲らしめることになります。そうすると、人も空の鳥も、ことごとく逃げ去るのです。しかし、イエス様の洗礼の時には、天から神の霊が「鳩のように」降って来た。そのようにここでも、空の鳥は聖霊を感じさせます。からし種のように小さなものが、聖霊をいただくほどに成長させていただくのです。

二つ目のパン種のたとえ。
パン種を手に取って、粉に混ぜる。パン種というのは、この時代のことですから、ドライ・イーストのはずはなくて、干しぶどうなどにくっついている天然酵母の場合もあるでしょうが、普通は発酵させたパンを焼く前に、少し取って置くものです。最近は、全然焼かなくなってしまいましたが、私もホーム・ベーカリーを持っています。パン焼き器です。夜、小麦粉、水、イーストなどの材料を入れ、スイッチを押すと、翌日の朝にはパンが焼き上がってきます。この時の小麦粉の量は、250グラム。1キロの小麦粉の袋が4回分です。この250グラムが、焼きあがると、一斤のパンになります。発酵させると膨らみ、焼くとさらに膨らみます。何倍にも膨らみます。
ところが、このたとえでは、混ぜる粉は3サトンです。3サトンというと、なんと、40リットル弱の量になります。燃えるゴミのゴミ袋を思い浮かべるといいでしょう。最初の量が、40リットル。これが発酵して膨らんで、焼かれて膨らんで、最終的にはどんな大きさになるのでしょう。人の手には負えなさそうです。

先ほどのからし種の譬えでも、空の鳥が巣を作るほど大きくなる。それは、人間がどうこうできる大きさではありません。わたしたちには、収拾がつかなくなるほど大きくなるみ業を神様は成してくださるのです。最初のからし種とパン種はとても小さなものでした。しかし神様の力が働くと、私たちの想像のつかないほど大きくなり、性質を変えられていくのです。
12章と14章、イエス様を殺す陰謀と、洗礼者ヨハネが殺される事件、これらの間に、たとえ話は置かれています。圧迫の中にあって、イエス様の福音は大きくなっていく。世界を変えていく。イエス様は、そのことを確信を持って語っています。私たち自身も、そのことを信じて、安心して進んでいきたいのです。

さて、日本のクリスチャン人口が増えないとか、あるいは日本基督教団の教勢が伸びないとか、言われています。一方で、山梨分区は、そのような中で健闘していると、分区長が言ったりしています。このたとえが本当ならば、クリスチャンは、どんどん、人数が増えていいはずです。ここで言っているのは、人数や全体の割合のことなのでしょうか。
特に日本では、教会に行かないけれども、聖書を読んでいるという人たちがいます。教会には行かないけれど、私の宗教はキリスト教です、という人は、政府の統計よりも何倍も多いのです。もちろん、教会に繋がっていなければ、私たちの信仰は強くなれません。たった一人で神様に出会い、生涯、神様と共に歩んでいくことは、厳しいことでしょう。けれども、こう言った形でみ言葉は、その人に出会ってくださり、その人を変えてくださっているという出来事が起こってきているのです。
さて、私たち自身のことを考えてみると、聖餐式で私たちは、小さなパンをいただき、盃をいただきます。それは、私たちに差し出されたキリストの体であり、新しい契約のしるしです。私たちは、キリストの体と血潮を表すパンと盃をいただいています。そしてその食べ物は、消化されて私たちの体となります。キリストはわたしたちの一部として私の中に生きていてくださる。そして、小さなパン種が混ぜられると、全体が膨れてくるように、私を変えてくださる。私たち自身が、キリストによって、変えられていくのです。
変えてくださる力を信じて、進んでいきたいと思います。祈ります。
在天の父なる神様。イエス様によって、私たちが生かされ、変えられていくことを感謝します。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

2017年11月12日 「刈り入れの時まで」 今村あづさ伝道師
2017年11月5日 「実りをもたらす方に信頼して」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書13章

 今日の箇所で鍵となる「悟る」と言う言葉はもともと、一緒になるという意味があります。これは14節では「理解」という言葉で訳されています。イザヤ書からの引用では、「悟る」とは心で理解し、悔い改めることです。そして、16節以降もイザヤ書52章15節を踏まえていますが、一度も聞かされなかったこと、つまり十字架の救いを悟ることです。マタイではこの「悟る」とは行動することです。
 たとえで書かれていることは、容易なことではありません。19節で「奪い取る」とは、11章12節の「奪い取る」と同じ言葉です。ここでは洗礼者ヨハネが捕らえられた場面であり、主イエスの十字架もまた、激しく襲う者によってなされました。石だらけの所に蒔かれた者は、大喜びでみ言葉をくださる人から贈り物として受け取った者たちです。しかし、そんな者でさえ、躓いてしまうと言われます。躓くとは、信仰を捨てることです。しかし、あのペトロでさえ、鶏が鳴く前に三度、主を裏切ったのでした。日本では、家族の中でたった一人のクリスチャンである妻が、大変な思いをして礼拝に通うということがよくあります。人によっては、子育ての間や介護の間、礼拝に出られず、何十年も礼拝に出られなかった後、やっと出られるようになったという証も聞きました。ペトロが赦されたように、その長い年月の間も、その姉妹たちの信仰が失われないように、わたしたちも支えていくべきでしょう。
 茨の中に蒔かれた種と言うのは、まさに自分の置かれた状況ではないか、と思って読む人が多いと思います。週日は仕事に追われ、土曜日もたまった用事を片付ける日に当てられる。そうして、やっと日曜日に礼拝に出る。平日に出るのはとても無理ですし、他の奉仕も出来ません。まさに、サンデー・クリスチャンです。
 たくさんの実を結ぶことは、とてもむづかしいことのように思えます。それは自分自身が祝福されることと、福音宣教で祝福されることです。自分自身の祝福も、この世的な成功と言うことでは必ずしもなくて、主イエスがわたしたちと共に生きてくださり、わたしたちと共に死んでくださるということです。兄弟姉妹と愛し合いながら教会生活を喜んで送り、福音を伝えて行くことが、わたしたちが実を結ぶことなのです。

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