説教全文

2022年2月13日(日) 顕現後第六主日

書箇所 説教全文

説教全文

「天においてあなたがたの報いは大きい」

ルカの福音書6章17-26節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日のお話は、かつて「山上の垂訓」と呼ばれ、現在は「山上の説教」と呼ばれている有名な箇所です。この「山上の説教」はマタイの福音書とルカの福音書の両方に記されています。どちらが有名かと言ったら、マタイの福音書の「山上の説教」でしょう。なぜなら、マタイの福音書では5章3節から12節にわたって「9人の幸いな者」が挙げられていますが、本日の聖書箇所であるルカの福音書では6章20節から26節にわたって「4人の幸いな人」しか挙げられていないからです。しかしルカの福音書の「山上の説教」も負けてはいません。ルカの福音書にはその数を補うかのように、「4人の哀れな人」が記されており、どのような人が幸いで、どのような人が哀れな人なのかが、詳しく説明されています。このことから、福音記者ルカがイエス様の「山上の説教」を福音書の中に書くにあたり、イエス様が山の上で説教されたことを整理して、読者に分るように簡潔にまとめたとも受け取れます。
 と言いますのは、福音記者ヨハネがその著書ヨハネの福音書の最後の言葉である21章25節に、このように記しているからです。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」「イエス様が行われたことはほかにもたくさんある」、と言うことは、イエス様が話してくださったお話も、聖書に書かれている以外にも沢山あると言えます。その沢山あるお話の中から、四人の福音記者それぞれが自分の読者を想定して、内容を取捨選択して福音書を書いたわけです。特に医者であった福音記者ルカは、自分が仕えているテオフィロと言う名前の主人に献呈するために、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書きました。ルカの福音書1章1節から4節に「献呈の辞」が記されており、その3節にはこのように書いてあります。「私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」この福音記者ルカの言葉から、ルカはキリスト教初心者のテオフィロ閣下が理解できるように、福音書を「順序立てて書いた」と言うことがわかります。

 さてイエス様は本日のお話を行われる前に、病気を癒していただこうと集まって来た全ての人々の病気を癒されました。汚れた霊に憑かれた人々も、汚れた霊を追い出していただきました。この病人たちはどこから来たのでしょうか。本日の聖書箇所である6章17節に、「ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た」と記されています。そしてその数は半端ではありませんでした。17節の後半に「おびただしい数の人々がそこにいた。」と記されています。このおびただしい数の人々は、「イエス様の教えを聞くため、また病気を治してもらうために来て」いました。ですからこの時点で、イエス様の評判はユダヤの国だけでなく、その周辺の国々にまで及んでいたことが分かります。イエス様は神様ですから、ご自分を求めて集まった人々の心の内をご存知でした。どの人もイエス様の教えを聞きたいと願っていました。そして病気持ちの人は、病気を癒してもらいたいと願っていました。
 イエス様は、御自分を求めてくる人を空手で帰らせることは決してありません。必ず、「イエス様のお話が聞けて良かった」、「病気を癒していただいて良かった」と、喜びの気持ちで満たして下さる御方です。ですからイエス様は、ご自分を求めて来る病人一人一人の信仰を確認なさらないで病気を癒してあげ、悪霊を追い出してあげました。19節を見ますと、「群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。」と書いてあります。このような、「病気を治してもらおうとして、イエス様に触ろうとした女性」を私達は知っています。それはルカの福音書8章43節に登場する「12年の間、長血を患っていた女性」、つまり不正出血に悩んでいた女性です。この女性は「イエス様の衣の房に触れば癒される」と信じていました。それでイエス様の衣の房に後ろから触ったとたん、直ちに癒されました。ですからイエス様を求めて集まって来た群集も皆、この長血の女性と同じ信仰、「イエス様の衣の房に触れば癒される」と信じていたのではないかと思われます。「イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。」と書いてある通り、イエス様の衣に触った人は、誰も彼もが直ちに癒されました。そして病気を癒された人々は、長年苦しんでいた病気が癒された、という自分の身に起こった奇跡を経験して、「イエス様は神様である」、と心から信じたのです。それでもうイエス様から離れられなくなったのです。
 不肖私も46歳の時に、心臓弁置換手術を受けて、自由に動ける身にしていただいた、という奇跡を経験して、イエス様から離れられなくなりました。それでイエス様の弟子となりたくて、献身を決意し、会社員から牧師となりました。他人の上に起こった奇跡は、「ひとごと」としか受け止めることができませんが、自分の身の上に起こった奇跡は、イエス様が神様であるという確信を与え、イエス様から離れられなくさせます。この意味で病気も決してマイナスではありません。かえってプラスになることがあり得る、と言うことができます。

 ですから、イエス様のお話が始まった時には、病気の人は一人もおらず、皆喜んで、心からイエス様のお話に耳を傾けることができました。
 この時集まってきた人々の数は、半端ではありませんでした。17節に「おびただしい数の人々がそこにいた。」と記されています。多分、数万人はいたのではないでしょうか。ルカの福音書9章14節には、「五つのパンと二匹の魚」から、「男だけでも五千人の群衆に食事を与えた奇跡」が記されています。男だけでも五千人ですから、この時は女性と子供を含めると二万人近い人々がいたと思われます。マイクもスピーカも無かった時代に、このおびただしい人々に、イエス様は一体どうやって、ご自分の声を届かせたのでしょうか。20節を見ますと、「イエスは目を挙げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。」と記されています。弟子たちとは、17節に書いてある、「大勢の弟子たちの群れ」です。イエス様の弟子たちのうちには、13節に記されているように、「十二人の使徒」と任命された弟子だけでなく、使徒に任命されなかった弟子たちも沢山いました。これらの弟子たちを見つめながら、イエス様はお話を始められました。弟子たちはイエス様に一番近い場所に座り、その後ろにおびただしい群衆が座っていたと思われます。この一番遠くに座らざるを得なかった人々に、イエス様は一体どのようにしてご自分の声が聞こえるようにお話しされたのでしょうか。先ほども申しましたように、イエス様は神様ですから、ここでも奇跡が起きていたことは確かです。どんなに風が吹いていても、どんなに人が多くとも、イエス様は弟子たちだけでなく、群衆の一人一人の心に届くように語り掛けられたので、人々はイエス様の声をはっきりと聞き取ることができた、と言わざるを得ません。 

 さて前置きが長くなりました。これからが山上の説教の中身についてのお話しとなります。イエス様は20節で、「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」と言われました。ここで「貧しい」と翻訳されている言葉は、原文のギリシャ語を見ますと、「縮こまる、うずくまる」と言う意味の言葉が使われており、「乞食をしている。他人の援助に頼っている。非常に貧乏である」という生活状態の人を指しています。今日のコロナ禍の中において、職を失い、アパートの家賃も払えなくなり、日々の食事に事欠いて、炊き出しや食糧の無料配布に頼っている人々の姿を思い浮かべます。この様な境遇の人たちをイエス様は「幸いです。」と言われるのでしょうか。そうだとすると、イエス様は、皮肉をおっしゃっていることになります。そうではありません。日本語で「幸いです。」と翻訳されているギリシャ語は、「本来神々における不安や労働や死の無い、至福の状態を示す言葉」とギリシャ語辞典には記されています。「至福の状態」を意味する言葉ですから「幸いです。」とそっけなく翻訳すべきではないと考えます。至福状態ですから、私でしたら「なんと幸いな事よ!」と、感嘆する言葉で表現したいですね。その理由は、イエス様が、「神の国はあなたがたのものだからです。」と言われるからです。神の国とは、神様がご支配なさっておられる国ですから、「霊的な国」であることが分かります。ですから、貧しい人とは、「霊的に貧乏な人」、即ち、「自分には罪以外何も誇るものが無く、自分は罪だらけである」と自覚して、「魂が神様の前でひれ伏している人」のことです。いわゆる心から悔い改めた状態です。こういう人が神の国に迎え入れられるのです。ですからイエス様はマタイの福音書4章17節で言われました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」このイエス様の言われる、「天の御国が近づいた」とは、「悔い改めれば金持ちでも貧乏人でも、王様でも庶民でも、誰でも、天の御国に入ることができるようになりました。」と言う意味です。
 次に21節前半でイエス様は言われました。「今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。」この福音記者ルカの言葉だけからでは、「今飢えている人たち」が、今、何に飢えているのかがはっきりしません。それで並行記事のマタイの福音書5章6節にある山上の説教を見ますと、この「飢えている人」とは、「義に飢えている人」であることが分かります。「義」とは「罪が無い」と言う意味です。ですから「義に飢えている人」とは、現状のままでは地獄に行くから、裁判官から「『無罪!』、と宣言していただきたい」、と欲している人となります。霊的な意味での裁判官は、父なる神様です。御子イエス・キリストは古今東西の人間が犯した罪の身代わりとして今から約2千年前に十字架に掛かって下さいました。そして三日目に復活され、現在、天の御国で父なる神様の右の座に就いて、イエス・キリストを信じる人たちのために、父なる神様に向かって、「私はこの人のために十字架に掛かりました。ですから、この人は無罪です」と、執り成しておられます。このイエス・キリストの執り成しの故に、父なる神様は私達に、「無罪」と宣言して下さるのです。ですから、「自分の身代わりとして、イエス・キリストが十字架に掛かられた」と信じる人の罪は全て赦(ゆる)され、義と認められるのです。この義と認められることが、「義に満ち足りるようになる。」という意味です。
 それでは21節後半の「今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。」とは、どのような意味でしょうか。聖書の中で、「(声を出して)泣く」と言うギリシャ語が使われている箇所を調べてみましたら、マルコの福音書14章72節に、弟子のペテロが声を出して泣き崩れる場面がありました。マルコの福音書14章72節をお読みいたします。「するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」最後の晩餐が終わって、イエス様と弟子たちがオリーブ山に行ったとき、イエス様は弟子たちに、「あなたがたはみな、わたしにつまずきます。」と預言されました。そのようにイエス様から預言されて、一番弟子のペテロは「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。(マルコ14:29)」と豪語しました。「つまずく」とは罪を犯す事です。しかしペテロはイエス様がユダヤ人たちに捕らえられた後に、イエス様を知らない、と三度も言ってしまいました。そしてペテロは、自分が罪を犯すことを、イエス様から予め指摘されていたことを思い出し、声を出して泣き崩れたのです。ですから、「今泣いている人」とは、自分が罪を犯したことを認め、「赦してください」とイエス様のお名前を通して父なる神様に罪の赦しをお願いしている人、となります。ペテロが罪の赦しを求めて泣いたために、ヨハネの福音書21章15節から17節にかけて、イエス様はペテロの罪を赦し、ペテロをご自分の弟子として復帰させています。ペテロの顔に再び笑顔が戻って来たことは確かです。
 そして本日の聖書箇所の22節と23節を見てみましょう。「人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」この22節と23節はどのような意味でしょうか。ここで言われている「人々」とは従来のユダヤ教を信奉するユダヤ人たちで、祭司長たちや、律法学者たちや、民の長老たちのことです。彼らは「律法を守ることによって、義とされる」、と人々に教えていました。ですから律法主義的なユダヤ教を堅持しようとしていたのです。一方イエス様の弟子たちは、「救い主であるイエス様を信じることだけが、義とされる道だ」、と信じていました。この教えは後に「信仰義認」と呼ばれるようになりました。そして主イエス様が、十字架の死によって勝ち取って下さった、この信仰義認のキリスト教を普及させようとしていたのです。ですから、この信仰義認の考えを一般民衆が受け入れて、ユダヤ教の領域を犯し始めるならば、ユダヤ人たちは当然のことながら、自分達の領域を守るために、弟子たちを侵略者と決めつけ、迫害し始めることは目に見えています。この将来起こるであろう、両者のせめぎ合いを、イエス様は予め弟子たちに預言したのです。そしてそれは恐れることではなく、「躍り上がって喜ぶべきものですよ。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいからです。」と教えられました。なぜなら、「彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたからです。」とイエス様は言われ、ご自分を「救い主である」と人々に伝える仕事をする弟子たちを、「昔の預言者たちと同じ働きをする人々である」、と明言してくださいました。これは大変名誉なことです。こうしてイエス様は、これから降り掛かって来る、保守派(律法主義派のユダヤ人)の妨害や迫害をあらかじめ弟子たちに教えることによって、大胆に宣教活動に専念する心構えを弟子たちに伝授されたのです。
 次に、24節から26節に掛けては、4種類の「哀れです」が記されています。この「哀れです」も先ほどの「幸いです」と同じく感嘆詞で、「なんと哀れな事よ!」と表現する方が良いと思います。24節、「富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。」この24節の意味は、「この世の富に、富んでいるあなたがたは、なんと哀れなことでしょう!あなたがたはこの世の富によって、既にこの世の慰めを受けているので、神の国に入ることはできません。」となります。25節、「今満腹しているあなたがたは、哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは、哀れです。あなたがたは、泣き悲しむようになるからです。」この25節の前半の意味は、「今、良い行いと言う『この世の義』で、満腹しているあなたがたは、なんと哀れなことでしょう!あなたがたは神の義に飢えるようになりますが、神の義を持たないあなたがたは、神の国に入ることができないからです。」となります。そしてこの25節の後半の意味は、「今、自分達には罪が無いからと笑っているあなたがたは、なんと哀れなことでしょう!あなたがたは最後の審判に遭遇して、罪を指摘されて地獄へ落とされ、泣き悲しむようになるからです。」となります。26節、「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」この26節の意味は、「人々が皆、あなたがたを褒める時、あなたがたはなんと哀れなことでしょう!彼等の先祖たちも、偽預言者たちを褒めました。その結果、皆悔い改めず、滅んでいきました。同じように、あなたがたも滅んでいくのです。」となります。

 本日イエス様は、ユダヤ全土とその周辺の国々から集まって来たおびただしい群衆の病を癒すと同時に、その群衆の目の前で、弟子たちに向かって、「天においてあなたがたの報いは大きい」と言われ、「イエス・キリストは救い主である」と人々に伝える仕事をする弟子たちを、「昔の預言者たちと同じ働きをする人々である」、と明言してくださいました。十二人の弟子たちがイエス様から直接任命された使徒だとすると、クリスチャンは皆、御父と御子と聖霊の御名によって、洗礼を受けていますから、間接的にイエス様から任命された弟子だとみなすことができます。ですからクリスチャンは、自分が救われていることに満足せずに、自分たちもキリストの弟子の一員であると自覚して、まだイエス様を知らない方々にイエス様は救い主だとお知らせしましょう。そうすれば、天において私たちの報いは大きいのですから。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

©2022 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.

書箇所 説教全文