説教全文

2022年2月6日(日) 顕現後第五主日

書箇所 説教全文

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「すべてを捨ててイエスに従った」

ルカの福音書5章1-11節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝は、この「すべてを捨ててイエスに従った」という御言葉を通して、神様は私たちに何を語り掛けておられるのか、耳を傾けてまいりましょう。
 最初にイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて救い主に就任されてから、先週の聖書個所までの間に起こった出来事を振り返ってみましょう。
 まずイエス様が救い主の任務に就任されるために、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天が開けて聖霊が鳩のようにイエス様の上に降られ、そして「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」と告げる父なる神様の御声が天から聞こえてきました。イエス様が救い主の任務を開始された後、洗礼者ヨハネの紹介で、ヨハネとアンデレの二人がイエス様の最初の弟子となり、次にこの二人の導きで、それぞれの兄弟であるヤコブとシモン・ペテロが弟子となり、そしてイエス様自身もピリポとナタナエルの二人を弟子に召し、宣教の始めに合計6人の弟子ができました。その三日後にイエス様はこの6人の弟子を連れてガリラヤのカナで行われた結婚式に参列され、清めの水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われて、新婚カップルの船出を祝福されました。その後ナザレからカペナウムの町に引っ越しされて、カペナウムを宣教の本拠地と定めてガリラヤ地方全域を巡り、町や村の会堂で教えられ、多くの人の病気を癒すという奇跡を行われ、全ての人から賞賛されました。しかし故郷ナザレの町の会堂で説教された時には、ナザレの町の人々はイエス様を信じようとはせず、かえってイエス様を崖の上まで連れて行って、そこから突き落とそうとしました。ところがイエス様はナザレの人々の真ん中を通り抜けてその場を去り、カペナウムに帰って行かれました。そしてカペナウムの町の会堂では悪霊につかれた人から悪霊を追い出し、礼拝後、シモン・ペテロの家でペテロの姑(しゅうとめ)の熱病を癒すという奇跡を行われ、その夜もカペナウムの多くの病人を癒されました。  

 その結果何が起こったのかが、本日の聖書箇所に示されています。その本日の聖書箇所であるルカの福音書5章1節を見ますと、「群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫った」と書いてあります。群衆が「神の言葉を聞こうとして」いたというのです。この記述から分かることは、イエス様がガリラヤ地方の町や村の会堂で説教し、多くの病人を癒されたものですから、癒された人たちだけでなく、その家族もイエス様は神様であると認識するようになってきた、ということです。癒された人々とその家族や友人らは、イエス様が瞬時に、それも完ぺきに癒してくださるその癒しの奇跡に、「イエス様は神様である」という心の底から沸き起こってくる揺るがない確信に満たされ、もうイエス様から離れられなくなったのです。病を癒された人だけでなく、看病疲れの家族も長い間続いてきた辛い看病から解放され、喜びに満たされて、イエス様の内に真の神様を見るようになりました。それで大勢の人々が、癒し主のイエス様の御言葉を聞きたいとイエス様に押し迫って来るようになったのです。誰も彼もがイエス様に近づきたいと思ったものですから、群衆はじりじりとイエス様に押し迫って来て、イエス様はゲネサレ湖の水辺に迄、来てしまったのです。ちなみに、このゲネサレ湖というのは、ガリラヤ湖の別名です。
 それでイエス様は、岸辺に二艘の小舟が繋いであるのをご覧になり、その内の一艘であるシモン・ペテロの舟に乗り、シモン・ペテロに陸から少し沖へ漕ぎだすように頼みました。イエス様は全知全能の神様ですから、二艘の舟のどっちがシモン・ペテロの持ち舟か分かっていました。そしてイエス様は腰を下ろし、舟から群衆を教え始められました。イエス様が何を教えられたのか、その中身は記されていません。福音記者ルカの関心事は、イエス様が教えられたことを記すことではなく、次のステップである、弟子のシモン・ペテロを本格的な宣教者として訓練することにあったからです。

 群衆へのお話が終わると、イエス様はシモン・ペテロに、言われました。4節です。「深みに漕ぎだし、網を下ろして魚を捕りなさい。」私は子供の頃に少し釣りをしたことがあるだけなので、このイエス様の指示が的を射ているのかどうかは全く分かりません。5節には漁師である、漁業の専門家シモン・ペテロの返事が記されています。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。」このシモン・ペテロの言葉は、「私たち漁師は、魚が寄ってくるところを知っており、それも今の様な真昼でなく、夜であることを知っています。その私たちですら、一晩中働いても、何一つ捕れなかったのです。それなのに先生は、魚がいるとは思われない深みに、それも魚の活動が弱まるこの真昼に網を下ろせと言われます。それはあまりにも漁業の常識を外れてはいませんか。」と言う意味ではないでしょうか。でもシモン・ペテロの偉かったことは、イエス様を「先生」と呼んだことです。即ちシモン・ペテロは自分をイエス様の弟子と謙虚に受け止め、「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と言って、自分の意見を言うのではなく、イエス様の指示通り行うことにしたことです。

 ですから多分シモン・ペテロは今までの経験上、一度も魚が獲れたことのなかった深みの場所、魚が絶対にいないと確信できる場所に船を漕ぎ出して、網を下ろしたことでしょう。これはイエス様のお言葉が間違っていることを証明するためでした。しかし結果は予想とは全く反対でした。「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。(6-7節)」網が破れそうになり、また二艘の舟が沈みそうになる位、膨大な量の魚が捕れたことで、漁業のプロであるシモン・ペテロは、漁業に関しては度素人と思われるイエス様の前に、脱帽せざるを得ませんでした。そして気付いたのです。人間の経験や知識や知恵に頼るのではなく、イエス様の言葉に頼らなければならないことを教えて下さっているのだと。シモン・ペテロはこの出来事を深く胸に刻み込みました。

 自分の予想と期待を全く裏切る結果に、シモン・ペテロはイエス様の足元にひれ伏して言いました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」シモン・ペテロは、自分の姑が高熱で苦しんでいた時、イエス様がその枕元に立って、熱をしかりつけると、熱が直ちに直ちに引いたのを見て、「イエス様って、どんな病気でも癒すことのできるお方だ。」と感心はしましたが、それ以上でも、それ以下でもありませんでした。自分の身に起こった奇跡ではなかったからです。しかし今回は違いました。今回は確実に自分の身に起こった奇跡でした。魚が全く捕れそうも無い場所で、全く捕れそうもない時間に、それも二艘の舟が沈みかけるほど大量の魚が捕れたことで、シモン・ペテロは漁業のプロであるというプライドが完全に打ち砕かれ、イエス様の前にひれ伏さざるを得ませでした。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言うシモン・ペテロの言葉は、自分がイエス様を人間と見ていたことだけでなく、自分自身がその御前にひれ伏すことさえはばかれる、罪深い存在であることを認める告白であり、「イエス様は神様である」と認める信仰告白の言葉でもありました。この奇跡を通して、いかに自分が傲慢な人間であるかを示され、シモン・ペテロは深く悔い改めました。こうしてシモン・ペテロは他の全てのものを捨て、主の言葉だけに身を委ねなければならないと悟りました。自分の経験や知識、人間的な知恵や理性、その他、人が言うことを拠り所とするのではなく、ただ一つのこと、すなわち、主であるイエス様の言葉だけを拠り所とすべきことを学んだのです。ですから今回シモン・ペテロ自身の身の上に起こった奇跡は、シモン・ペテロのこれからの任務の全てにおいて、主の御言葉に絶対の信頼を置かなければならないという忘れがたい体験となりました。信仰が世に打ち勝つのは、このシモン・ペテロのように、イエス様の御言葉だけを拠り所とする時です。ですから私たちクリスチャンは、イエス様の御言葉だけを拠り所としなければなりません。その時クリスチャンは世に打ち勝つのです。逆に言うなら、私たちの信仰が弱いとすれば、それはシモン・ペテロのように、イエス様の御言葉をその御言葉通りに受け止めていないことに原因があるのです。
 9節を見ますと、二艘の舟が沈みそうになるという大量の魚の奇跡に驚いたのはシモン・ペテロだけではありませんでした。ゼベダイの息子たちであるヤコブやヨハネも驚きました。自分達の舟もが沈みそうになるという、今まで経験したことも無い位の大量の魚を目の前にして、ヤコブもヨハネも、イエス様の御言葉をその御言葉通りに受け止めることの大切さを学んだことと思われます。シモン・ペテロの兄弟アンデレについては何も語られていませんので、この時は陸上にいたのかもしれません。でも二艘の舟が陸地に戻ってくると、アンデレも今まで見たことも無い大量の魚を見て、洗礼者ヨハネがイエス様を指して「見よ、神の小羊。」(ヨハネ1:36)と呼んだことを思い出し、イエス様が神様であると悟ったことでしょう。
 イエス様はシモン・ペテロに言われました。10節です。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになる。」「恐れることはない。」という意味は、「私が何時もあなたと共に居る。」と言う意味です。神様であるイエス様が共におられるほど安心安全なことはありません。ですからイエス様は、「パリサイ人や、律法学者や、民の長老たちの様な権力を持つユダヤ人を怖れること無く、大胆に私イエスが世の救い主であることを多くの人々に宣べ伝えなさい。」と言われました。人を恐れなければ、シモン・ペテロは「人間を捕るようになる。」とイエス様は言われました。「人間を捕る。」とは、原文のギリシャ語を見ますと、「人間を生け捕りにする」と書いてあります。すなわち「人間を生きて捕らえる」のです。このように、漁業は魚を殺しますが、福音は決して人を殺しません。いや、それどころか人を死から救い、人を真に生かすものなのです。人を生かすとは、何と幸いな任務でしょうか。そして、「生け捕りにされる」ということは、なんと幸いなことでしょうか。その生け捕りにされた人は、現在生きているまま天の御国の住人とされるのです。これが福音宣教のまことの姿です。

 こうして漁師であるシモン・ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人のイエス様の弟子たちは、イエス様の御言葉に従うことによって、普通ではあり得ない漁業条件の中、膨大な数の魚を捕まえることができたという奇跡を自分達自身の上に経験して、イエス様がまことの神様であるという確信を得ることができました。次にイエス様は御自分を信じた弟子達に、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」と言われて、人間を生きたまま天の御国の住民とする福音宣教の訓練へと導かれました。弟子達は、人間を生きたまま天の御国の住民とする喜ばしい福音宣教の業に就きたくて、全てを捨ててイエス様に従って行ったのです。クリスチャンは全てイエス様の弟子達です。ですからクリスチャンである私たちもまた、イエス様の御言葉を信じて、イエス様に従って行きましょう。そして多くの人々に死ぬ前に、生きたまま、天の御国に入っていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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