説教全文

2022年1月30日(日) 顕現後第四主日

書箇所 説教全文

説教全文

「神の国の福音を宣べ伝える」

ルカの福音書4章31-44節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝は、この「神の国の福音を宣べ伝える」という御言葉を通して、神様は何を私達に語り掛けておられるのか、耳を傾けてまいりましょう。
 先週私たちは、ルカの福音書4章16節から30節迄の御言葉から、イエス様が故郷のナザレの会堂で説教された時、イエス様は故郷の人々から受け入れてもらえず、イエス様はナザレから永久に去って行かれたことを知りました。ところが本日の聖書箇所である、ルカの福音書4章31節から44節には、カペナウムの会堂でイエス様が説教された時、カペナウムの人々はイエス様を神様として受け入れた事が記されており、ナザレとは真逆のことが起こっていることを、私達は知るわけです。なぜ福音記者のルカは、イエス様の説教に対するナザレの人々の反応とカペナウムの人々の反応とを並べて記したのでしょうか。ナザレの人々とカペナウムの人々の何が違ったのでしょうか。まずその違いを見てまいりましょう。

 ナザレの人々とカペナウムの人々の違いの第一番目は、安息日にそれぞれの会堂でイエス様の説教を聞いて、人々が下したイエス様に対する評価です。ナザレの人々は、ルカ 4章22節に「人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、『この人はヨセフの子ではないか』と言った。」と記されておりますように、ナザレの人々は皆、イエス様をほめ、イエス様の口から出てくる「恵みの言葉」に驚きました。しかし、同時に「この人はヨセフの子ではないか」と言って、最初は、これは「恵みの言葉」だと受け取ったイエス様の言葉を、「ヨセフの子の言葉」即ち人間の言葉のレベルにまで引き下げてしまったのです。つまりナザレの人々がイエス様に対して下した評価は、イエス様は人間であるという評価だったのです。
 他方、カペナウムの人々の反応は、36節に記されています。「人々はみな驚いて、互いに言った。『このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。』」カペナウムの人々は、イエス様が汚れた霊に対して命じた言葉を聞いて、「このことばは何なのだろうか。」と圧倒されて、「権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」と、感銘を受け、その言葉の偉大な力に感動しているのです。即ち、カペナウムの人々は、イエス様が権威と力をもって悪霊に命じる姿に、神様の姿を見たのです。
 このカペナウムの人々の感動がどれほど大きかったのかということを示す言葉が37節の言葉です。「こうしてイエスのうわさは、周辺の地域のいたるところに広まっていった。」多分カペナウムの人々は、イエス様が悪霊に向かって「黙れ、この人から出て行け。」と命じられた時、悪霊が取り憑いていた人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害を与えることもできずにその人から出て行った様子を見て、イエス様が言葉で悪霊をも従えさせることのできるお方、即ち神様であるという評価をしたのです。

 その後、イエス様が弟子達と会堂から出て来られて、弟子のシモン・ペテロの家に行かれると、シモン・ペテロの姑(しゅうとめ)、即ち義理の母親は、高熱を出して苦しんで寝ておりました。そこでペテロと弟子たちはイエス様にペテロの姑の癒しをお願いしました。イエス様が姑の枕元に立って、熱をしかりつけられると、姑の熱が直ちに引きました。イエス様のなさる奇跡は、人間の医者が行う癒しとは異なり、瞬間的です。直ちに治ってしまうのです。それも完ぺきになおってしまうのです。生まれつき目の見えない人は、直ちに見えるようになり、耳の聞こえない人は直ちに聞けるようになり、話すことのできない人は、直ちに話すことができるようになるのです。しかし一口に「目が見える」と言っても、ただ単に目の機能が回復し、映像が目を通して脳に届くようになっただけではだめなのです。その映像が何を意味するのかを理解できなければ、真の意味で「目が見える」とは言えません。例えば、犬を見ても、泣き声によってではなく、目からの情報で犬だと認識できなければならないのです。つまり、私達が生まれた時から成長するまでに得た全ての情報が頭の中に入っていてこそ、目で見たものが何なのかを識別できるのです。ですから、イエス様は単に医学的に目を開けただけでなく、その人が成長する間に得たであろう全データをも頭の中に入力してくださるのです。これは全ての事をご存じの全能の神様でなければできないことです。このペテロの姑場合も、イエス様はペテロの姑のひどい熱を下げただけでなく、すぐに立ち上がって、イエス様御一行を、もてなし始めるほどの体力を与えて下さったのです。この奇跡により、ここでもイエス様は、ご自分が天地を創造された神様であることを人々に強く印象付けられました。

 ナザレの人々とカペナウムの人々の違いの第二点目は、信仰の有無です。先週の説教の中でも述べた通り、ナザレの人々の信仰は、26節に記されている、外国であるシドンのツァレファテに住んでいた女やもめの信仰や、27節に記されている、アラムの将軍シリア人ナアマンの信仰にも及ばなかったということです。即ちナザレの人々には、イエス様に対する信仰が全く無かった、ということになります。
 他方、カペナウムの人々がどのような信仰を持っていたのかは、40節に、「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人達が皆、病人達を御許に連れて来た。」と書いてあることから分かります。カペナウムの人々が様々な病気で苦しむ人たちをイエス様の所に連れて来たのは、イエス様がどのような病気でも癒すことのできるお方である、と信じていたことを表しています。つまりイエス様は神様である、と信じていたのです。それでイエス様は、このカペナウムの人々の信仰をご覧になって、「一人ひとりに手を置いて癒やされた。」のです。

 ナザレの人々とカペナウムの人々の違いの第三点目は、それぞれの行動の違いです。ナザレの人々は、外国人であるツァレファテの女やもめや、アラムのナアマン将軍の信仰にも及ばなかった、と指摘されると、28節と29節に記されている通り、「憤りに満たされ、立ち上がって、イエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした」のです。つまりイエス様を殺そうとしました。しかしイエス様はナザレの人々のただ中を通り抜けて去って行かれました。この時イエス様は、力づくでナザレの人をかき分けて、通って行かれたのではありません。ナザレの人々は、自分達に向かってくるイエス様に恐れを感じ、後ずさりをして通る道を開けざるを得なかったのです。この時点でナザレの人々はイエス様の内に神様を見たことでしょう。こうしてイエス様は神様としての力をナザレの人々に実感させ、何時の日か悔い改めるようになるための道を残しておかれました。

 他方カペナウムの人々の行動は、42節に書いてある通りです。「朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた。群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした。」つまり、イエス様を生ける神様と信じ、イエス様と共に生きて行きたい、と願ったのです。
 しかしこのカペナウムの人々の願いは、かないませんでした。その理由をイエス様は43節で述べられました。「しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。私は、そのために遣わされたのですから。』」イエス様は生ける神様ですから、自分の足で歩くことのできない、金や銀や石や木でできた偶像の神々とは違います。イエス様は父なる神様から遣わされて、「神の国の福音を宣べ伝えるために」この世に生まれて来られたからです。
 ルカの福音書やマルコの福音書で用いられている「神の国」は、マタイの福音書で用いられている「天の御国」と同じものです。神の国とは、神様に属する国という意味で、つまり神様がご支配なさる国であり、信仰者は一人一人、王様として皆、王冠をかぶらせていただけるのです。
 この神の国に入れていただく方法が「神の国の福音」です。「福音」とは読んで字のごとく、福々しい知らせ、良い知らせという意味です。入国税もいらないし、パスポートも、良い行いも必要ではありません。その神の国に入る方法とはただ一つ、救い主イエス・キリストを信じることだけです。信じることは誰にでもできます。寝たきりの病人でもできます。幼児でもできます。イエス・キリストを信じると、生まれつき持つ原罪はもちろんの事、私達の全ての罪が赦されます。なぜならイエス様は、私達を神の国に入れるために、私達の罪の身代金となって、十字架の上で死んでくださったからです。ですからイエス様を信じると、イエス様の十字架のゆえに、私たちの罪が全て赦され、私達は清い者、罪なき者とみなされます。神の国には、死んでからでは、誰も入ることができません。なぜなら死んでしまってからでは、イエス様を信じる事ができないからです。ですから、生きている今、イエス様を自分の救い主と信じて、神の国へ入れていただきましょう。

 この様に福音記者ルカは、イエス様のナザレ伝道とカペルナウム伝道を並べて書くことによって、イエス様を人間であると見て拒絶すると、罪赦されず、永遠に神の国から締め出されてしまうようになると警告しています。しかし、イエス様を神様と信じて受け入れるならば、確実に天の神の国に入れていただけると、保証しています。そういうわけですから、私達はイエス様を神様と信じて受け入れましょう。そうすれば私達の罪は全て赦され、生きている今、神の国に受け入れていただけます。
 既にイエス様を信じて、神の国に入っておられる方々は、自分達が守られていることに満足してイエス様を独り占めするのではなく、同胞である多くの日本人の方々が、様々な危険にさらされている現状を憂いて、安心安全な人生を与えてくださる、イエス・キリストを信じるように、人々にお知らせしましょう。そして幸いな人生を送っていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

©2022 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.

書箇所 説教全文