説教全文

2022年1月23日(日) 顕現後第三主日

書箇所 説教全文

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「しかしイエスは去って行かれた」

ルカの福音書4章16-30節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日のお話は、イエス様が幼少時から30歳になられるまで住まわれた、ガリラヤの町ナザレでの出来事です。本日のお話も含めまして、イエス様はその御生涯で二度、ご自分の民から拒絶されています。一度目は本日の聖書箇所に記されています。宣教の初期に行われた故郷ナザレの町での説教の後、イエス様は共に育ったナザレの住民たちから拒絶されました。二度目は今回のナザレ訪問から三年後に、エルサレムを訪れた時、律法学者達や、民の長老達や、大祭司達からなるユダヤ人の指導者達から拒絶されました。この二回とも、ユダヤ人達はイエス様に対して激しい憎しみにかられ、イエス様を殺そうとしています。しかしイエス様は神様です。人間を罪から救うという明確な理由があって、人間としてこの世に誕生された神様ですから、人間側の意志でイエス様を殺害することはできません。ですから本日のお話では、最後にイエス様は神様としての力を行使されて、ナザレの人々の真ん中を通り抜けて去って行かれたのです。なぜユダヤ人はイエス様を殺そうとしたのか、その理由を本日の聖書箇所に耳を傾けて、聞いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所は、先週聖書箇所として取り上げられた、ヨハネの福音書2章に記されている、カナの結婚式から約半年経った頃のお話です。カナでの結婚式の後イエス様は、住まいを内陸のナザレ村からガリラヤ湖畔の町、カペナウムに移され、宣教の本拠地とされました(ヨハネ2:12)。イエス様はガリラヤにある町や村を巡回して、宣教しておられましたので、その宣教地の一つとして、今回ご自分が両親のもとで幼い頃から育ったナザレの町を訪れたのです。
 そして本日の聖書個所のルカの福音書4章16節に記されておりますように、「いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれ」ました。この16節の言葉「いつもしているとおり」から、既にイエス様はナザレを訪れる前に、多くの町や村の会堂で安息日ごとに礼拝に出席して、聖書朗読をされていたことが分かります。
 私が愛用している註解書(R.C.H.Lenski著)には、シナゴーグと呼ばれるユダヤの会堂での礼拝の様子が記されておりまして、それによりますと、シナゴーグには公式の朗読者はおらず、有能な男性会員ならば誰でも、朗読することができたそうです。朗読する箇所は、第一日課として、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記からなる「モーセ五書」の中から一箇所と、第二日課として「預言者の書」の中から一箇所の、合計2箇所でした。モーセ五書は一定の朗読箇所が定められており、安息日毎に必ず朗読されました。続いて預言者の書から決まった順序で第二日課が朗読されました。この第二日課を朗読する人は、望めば、自分が朗読したものと多少なりとも関係のある演説を加えることもできたそうです。朗読する人は、立つことによって、「朗読」の意思表示をしたそうです。

 イエス様が読まれた朗読箇所は、第二日課の「預言者の書」でした。書記の人が当日の第二日課の巻物をイエス様に渡しました。イエス様はその巻物を開いて、イザヤ書61章1節の御言葉を見出し、朗読されました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」(ルカ 4:18)この御言葉を預言した預言者イザヤは紀元前740年から681年までの59年間に渡って、南ユダで活躍した人です。イエス様が誕生される約700年前に、イエス様が荷われる任務を預言していました。この言葉の中の「貧しい人」とは、自分が罪人であることを自覚している人のことです。「良い知らせ」とは、「イエス・キリストを信じる人はその罪が赦(ゆる)されます」という嬉しい知らせのことです。「主はわたしに油を注ぎ」とは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、聖霊が鳩の姿をしてイエス様の上に降り、イエス様は聖霊の油注ぎを受けて、キリストとなられたことです。(マタイ3:16)すなわち、この聖霊の油注ぎによってイエス様は、救い主に就任されたのです。ですから、この救い主イエス・キリストを信じることにより、悪霊に「捕われた人」は、悪霊を追い出していただけ、「目の見えない人」は、肉的な目が見得るようになるだけでなく、霊的な目も見えるようになり、悪魔に「虐げられている人」は、イエス様を信じることによって、自由の身とされますよ、という意味です。「あなたがた人間は、天地創造の初めにアダムとエバが犯した罪の結果として、『原罪』を持って生まれて来る存在ですが、救い主であるわたしが来たのですから、わたしを信じれば、あなた方はこの『原罪』が原因で起る『永遠の死』から解放されます。こうして主の恵みの年が成就したのです。」とイエス様は宣言されたのです。
 イエス様は読み終わると巻物を巻いて書記の人に返し、着座されました。そうしたら会堂にいた人々の目はイエス様に注がれました。「何か話せ。」という催促ですね。それでイエス様は人々に向かって話されました。21節です。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
そうしたらなんと、人々は皆イエス様を褒めましたが、ある人々は、その口から出てくる恵みの言葉に驚いて、「この人はヨセフの子ではないか。」と言ったのです。この「ヨセフの子」とは「このイエスという若造は、ヨセフの子として生まれた、ただの人間ではないか。このただの人間に過ぎないヨセフの子に、いったい何ができるというのか。」という意味です。
 イエス様は「この人はヨセフの子ではないか。」と言った人々に向かって言われました。23節です。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』、と言うでしょう。」このナザレの人々は、イエス様が自分の育った町を第一とせず、自分とゆかりもない町で、多くの「力ある業」を行ったことを非難しているのです。つまり、「あなたの育ってもいない他の町で、力ある業を行う前に、どうしてこのナザレで、力ある業を行わなかったのですか。」と苦言を呈しているのです。もっとはっきり言うなら、「どうしてあなたは、まず自分が育った町で力ある業を行って、このナザレの町をガリラヤ地方で一番名高い町にしてくれなかったのか。」と文句を言っているのです。これがイエス様の言われる「医者よ、自分を直せ。」という意味です。つまりナザレの人々は、イエス様に向かって、「医者よ、あなたはまず自分自身を治す必要があるのではないですか。自分自身を治せたら、私たちはあなたが本物の医者であると信じてあげよう。」と言ったということです。それでイエス様は24節で言われました。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」

 次の25節と26節には昔の大預言者たちが出会った、「まことの信仰者」とはどういう人なのか、という実例が記されています。まず25節です。「まことに、あなたがたに言います。(預言者)エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。」このお話は列王記第一17章の8節から16節に渡って記されています。シドンは「ユダヤの国の北側に位置するフェニキアの港町です。ですからユダヤ人から見たら、シドンは外国の町です。このシドンに属する小さな村ツァレファテに居た、一人の外国人の女やもめだけに、預言者エリヤが遣わされ、エリヤはこのツァレファテの女やもめによって養われるようになります。エリヤがこの女やもめに「一口のパンを持って来てください。」と頼むと、女やもめは答えました。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。」この女やもめの言葉「あなたの神、主は生きておられます。」から、この女やもめは外国人でありながら、イスラエルの神様を信じている信仰深い女性であったことが分かります。その信仰深い女やもめに対して、預言者エリヤはこのように言います。「しかしまず、私のために小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神がこう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」この言葉の通り、飢饉の3年半の間、預言者エリヤは外国人である女やもめと彼女の子供との3人で、一緒に飢饉を乗り切りました。
 そして、ルカの福音書4章27節には「まことの信仰者」の二つ目の実例が書かれています。「また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」このお話は列王記第二5章1節から14節に記されています。不治の皮膚病であったツァラアトを患っていたシリア人ナアマンは、外国人で、アラムの国の将軍でしたが、彼の妻のもとに、かつてイスラエルに略奪に出た時捕らえた一人の若い娘がいて、彼の妻に言ったのです。「もし、御主人様が、サマリアにいる預言者の所に行かれたら、きっとその方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」まずこの若い娘が信仰深いのです。この若い娘の言葉にすがり、ナアマンは銀十タラントと金五千シェケルと晴れ着十着の贈り物をもって、イスラエルの預言者エリシャの所に出かけます。ところがエリシャは使者を遣わして言わせました。「ヨルダン川へ行って、七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば清くなります。」この本人が出て来ずに使いの者に伝言させただけという門前払いの様なエリシャの扱いに、ナアマンは激怒して帰ろうとしますが、彼のしもべたちはナアマンに近づいてきて言いました。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗って清くなりなさい。』と言っただけではありませんか。」この預言者の言葉を信じたしもべの言葉にほだされて、ナアマンは素直にエリシャの言葉に従い、ヨルダン川で七回身を洗ったところ、彼の体は元通りになって、幼児の体の様にきれいになったのでした。彼のしもべたちの信仰が素晴らしかったですね。そしてこの奇跡を通してナアマンもイスラエルの神を唯一の神だと固く信じるようになったのです。
 このように神様はイスラエルで最も偉大な二人の預言者エリヤとエリシャを、イスラエル人ではない、二人の異教徒に出会わさせましたが、この二人の異教徒に共通したことは、「信仰深い人」だったことです。イエス様は、この二人の異教徒の信仰深い様子を、ナザレの人々の目の前に置かれて、ナザレの人々に、自分達自身の信仰を問われました。即ち、「あなた方の信仰は、この外国人の信仰よりも劣るのではないですか。」と暗に問われたのです。ヨセフの小せがれにそう指摘されて、ナザレの人々は頭に血が上り、イエス様を崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとしました。即ち、殺そうとしたのです。しかしイエス様は、ナザレの人々のただ中を通り抜けて、去って行かれました。ナザレの人々は、イエス様が発する、目に見えない力に押されて、船が水を左右に分けるように、左右に振り分けられ、手も足も出すことができなかったのです。イエス様はこの奇跡的な力を働かせることによって、ナザレの人々の心に、無力感を与え、もし頑なであり続けるならば、裁かれるという恐怖を与えました。そしてそれは、「この方は神様が与えた奇跡的な力を持つお方だ」と知って、イエス様を信じて悔い改める人が起こされるためでもありました。このようにしてイエス様は永遠にナザレを去って行かれました。

 本日の聖書個所は、イエス様がガリラヤ湖畔のカペナウムの町で、多くの病人を癒し、多くの悪霊を追い出して、有名になられた後、ご自分が幼少の頃から30歳になるまで過ごされたナザレの町に、久しぶりに帰って来られ、安息日に会堂で、イザヤ書61章1節を朗読し、「今日この聖書の御言葉が実現しました。」と、宣言されたことから始まりました。しかしイエス様のカペナウムでの働きを、見聞きしていたナザレの人々は、イエス様の口が語る恵みの言葉にも拘わらず、「この人はヨセフの子ではないか。」とつぶやき、イエス様が神様であることを見抜くことに失敗しました。そしてイエス様から、外国人であるツァレファテの女やもめと、シリア人ナアマンの信仰を示されて、自分たちの不信仰を指摘され、頭に血が上り、イエス様を崖の上から突き落とそうとしましたが、イエス様はナザレの人々の真ん中を通って、永遠に去って行かれました。しかしイエス様は去って行かれる時、神様としての力をナザレの人々に実感させ、何時の日か悔い改めるようになるための道を残しておかれました。私たち人間は失敗する生き物ですが、悔い改めるならいつでも救われるのです。ですから、イエス様は全ての人に対して悔い改めるチャンスを与えるために、今私たちの前から去って行かれました。そして私たちが悔い改めるならば、イエス様は私たちの罪を赦してくださり、私たちがこの世を去る時には、私たちを迎えに来てくださり、天の御国に導いて下さいます。ですから既に悔い改めた人は、まだイエス様を知らない人に、「イエス様を信じて悔い改めれば、滅びから救われますよ。」とお知らせして、一人でも多くの人に共に救いにあずかっていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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