説教全文

2021年9月12日(日) 聖霊降臨後第十六主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「祈りによって汚れた霊を追い出す」

マルコの福音書9章14-29節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖マルコの福音書6章30節から44節より、説教題は「パンを食べたのは、男が五千人」です。本日の説教題は本日の聖書箇所の最後の節であります6章44節から取らせていただきました。
 本日の聖書箇所は、イエス様が奇跡を起こされる神様であることを私たちに印象付ける箇所です。これまでイエス様は既に様々な奇跡を起こして来られました。これまで起こされた大きな奇跡を見てみましょう。
 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて救い主に就任された後、直ちに行われた最初の奇跡は、普通の飲み水を最上等のワインに変えられた奇跡です。イエス様と弟子たちは、ガリラヤのカナの町で行われた結婚式に招かれていましたが、大勢の招待客でワインが底を尽きかけていた時、手を洗ったり身を浄めたりする水を入れる容量約100 ℓの石瓶6個に満たされた水を最上等の本物のワインにするという奇跡を起こされました。この奇跡でイエス様は、新婚カップルの面目を保ち、この二人の行く末を祝福されました。(ヨハネ2:1~11)
 また、四人の人に担がれて来た中風の男性に向かってイエス様が「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」と命じられると、その人が立ち上がり、すぐに寝床を担いで出て行ったという奇跡です。この奇跡によりイエス様はご自分が病気を癒す神様であることを示されました。(マルコ2:1~12)
 また、イエス様が風をしかりつけ、湖に向かって「黙れ、静まれ。」と言われると、直ちに凪となり、鏡の様な水面を持つガリラヤ湖が出現しました。この奇跡によりイエス様はご自分が自然をも支配される神様であることを示されました。(マルコ4:35~41)
 また、レギオンという6000もの汚れた霊に憑かれていた人からその汚れた霊を追い出し、2000匹程の豚の中に入るのを許されました。この奇跡でイエス様は悪霊をも支配なさる神様であることを示されました。(マルコ5:1~20)
 また、カペナウムの会堂司の娘を死からよみがえらせました。この奇跡でイエス様はご自分が死をも支配なさる神様であることを示されました。(マルコ5:22~43)
 そして本日イエス様は、五つのパンと二匹の魚から、「パンを食べたのは、男が五千人」の給食に奇跡を行われ、ご自分が昔荒野をさまようイスラエル人たちを40年間に渡って天からのパンであるマナで養った神様であることを示されました。

 ここで突然私の証しになりますが、私もイエス様の癒しの奇跡を受けた一人です。これまでに何度かお話したことですが、私は子供の頃に溶連菌に感染し、その後遺症で心臓弁膜症を患い、小学生の頃から、心臓に逆流音が聞こえると診断されてきました。その結果激しい運動は控えるように指示され、水泳も、長距離走も、登山も、好きな運動はできなくなりました。中学生の頃、それを無視して、長距離走に挑戦したら、途中でぶっ倒れ、気が付いたら学校の医務室のベッドの上に寝ていました。30代の終わりごろ、心臓肥大が進み、「心房細動」という、心臓が血液を送り出せなくなる症状を、繰り返して起こすようになり、40歳の時には、かかりつけの医師から、「若林さん。このままでは天寿を全うできません。弁置換手術をお勧めします。」と告げられ、目の前が真っ暗になりました。手術の失敗は死ににつながります。仮に、手術が成功しても、その後死ぬまで、ワーファリンという抗凝固剤を飲み続けなければなりません。それで恐ろしくなって悔い改め、「今まで犯してきた罪を赦(ゆる)してください。」と、イエス様にお願いしました。そうしたら「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)という御言葉をいただきました。私はこのイエス様の御言葉に大いに慰められ、手術の日を待つようになりました。6年後にその日がやって来ました。私は、「イエス様が執刀してくださる。」という平安な気持ちに満たされて、僧帽弁置換手術を受けました。その手術は成功しました。私は、イエス様が医者を通して私の心臓を癒してくださるという奇跡を体験したのです。私は手術成功を感謝して、与えてくださった残りの人生を牧師になってイエス様のために働こうと決意しました。私が退院する時、私の心臓手術を担当した医師は私に言いました。「私が20年前に手術した患者がまだ生きています。今は20年前よりも技術は進歩しています。ですから若林さん。あなたはあと40年生きることが出来るでしょう。」と言われました。主治医が「40年」と言われるのだから、間違いないと受け取り、40年という時間を与えてくださった神様に感謝しました。

 さて、本日イエス様が起こされた奇跡「パンを食べたのは、男が五千人」を見て行きましょう。ここで気を付けたいのは、本日の聖書箇所マルコの福音書6章44節で「パンを食べたのは、男が五千人であった。」と書いてあったとしても、当然のことながら、イエス様の後を追っかけてきた人々が男性だけであったという意味ではないことは確かです。この奇跡は今から2000年も前の事ですから、はっきりとした人数は分かりませんが、当時は20歳以上の成人男性の数を以て、集団全体の数を表していました。イエス様の時代からさかのぼった紀元前1500年頃にモーセによって書かれた民数記の1章18節には、戦に出ることができる者として「二十歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認」をするように書かれています。昔は敵から国民を守るために戦力となる成人男性の数を確認しておくことが政治を行う上で一番大切であったからと言えましょう。ですからイエス様の後を追っかけたのは、男5千人、女5千人、それに少なくとも子供が5千人として合計1万5千人はいたと思われます。またなぜイエス様は福音宣教の旅から帰って来たばかりの弟子たちに、「パンを食べたのは、男が五千人」の奇跡を体験させたのでしょうか。そのイエス様の意図を探ってまいりましょう。
 マルコの福音書6章12節に書いてありますように、12人の弟子たちは、福音宣教の訓練に出て行き、そして多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒し、カペナウムにある宣教本拠地イエス様の家に帰って来ました。そしてイエス様に「自分たちがしたこと、教えたことを、残らず報告した」のです(マルコ6:30)。ところがイエス様の家は、イエス様に相談に来る人や、イエス様に癒しを求めに来る人や、イエス様のお話を聞こうと集まってくる人々でごった返し、ゆっくり食事をとる時間さえありませんでした。イエス様は神様ですから、弟子たちが厳しい宣教旅行で疲れていることもご存知でした。そこでイエス様と弟子たちは人々から離れるために、自分たちだけで、舟に乗って、「寂しいところ」即ち人が住んでいない場所、具体的には、ガリラヤ湖北岸にある、ベツサイダの町の近くに広がる、草原に出て行きました。
 ベツサイダの町は弟子のアンデレや、ペテロや、ピリポが生まれた町です。(ヨハネ1:43~44)ですから、この3人はこの広い草原を子供のころから良く知っていたことでしょう。それだけでなく、33節を見ますと多くの人々がその場所を良く知っていたことが分かります。「ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。」イエス様とその弟子たちが、舟に乗って湖の上をその草原に向かっている様子は、遮る物のない陸地から良く見えました。それで誰もがイエス様の乗っておられる舟を見て、彼等はベツサイダの近くの草原に行くに違いないと判断できたのです。そしてなんと、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、イエス様御一行よりも先に着いたのです。

 群集がイエス様よりも先に草原に到着したことから、群衆がイエス様を慕っていたことが良く分かります。多分この群衆は、自分の病気や家族の病気を癒されて、イエス様への信仰を持った人たちだったのでしょう。病気を癒され、イエス様を信じた彼らは、イエス様から神の国のことをもっと教えていただきたいと願ったと考えられます。人々は毎週ヘブル語でシナゴーグという会堂でパリサイ人や律法学者たちのお話を聞くけれども、律法の細かい規則の解釈を聞くだけで、少しも心に響かず、喜びが沸き起こって来ない経験をいつもしていたのです。それに引き換えイエス様が語られる神の国のお話は、乾いた心を潤し、神様を信じて生きる喜びを与えてくれました。ですからイエス様のお話を待ち望んでいたのです。それでイエス様は船から上がって大勢の群衆をご覧になった時、彼等が羊飼いのいない羊の群れの様に見えたので、何とかしてあげなくてはならないと心が大きく揺すぶられました。羊たちにとって必要なことは「緑の牧場に伏せて草を食むことであり、憩いのみぎわ(水際)に伴われること」(詩篇23:2)です。同じように人間にとっても、身体のために日々の食事が必要であるのと同様に、心のためには神の国のお話を聞くことも大切です。それでイエス様は神の国のお話に飢えている群衆に、多くの事を教え始められたのです。

 イエス様のお話を聞き洩らすまいと、群集は熱心に耳を傾けて聞いていました。しかし既に時間がかなり経っていたので、弟子たちは、群衆がお腹を空かして家に帰る途中で倒れてしまいはしないかと心配しました。それでイエス様の所に行っておせっかいな忠告をしたのです。35節と36節です。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」
 するとイエス様が答えられました。37節です。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」このイエス様の言葉に弟子たちは戸惑いました。そしてイエス様に聞きました。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」1デナリは1日分の賃金ですから、日本円にして約1万円です。すると2百デナリは200万円です。一個100円のパンを買うとすると、2万個買うことができます。群集の数は1万5千人ですから、一人当たり1個と1/3切れのパンを受け取ることになります。これではお腹一杯になりません。また2万個のパンをどこで買って、どうやって運んでくるか、問題山積みです。ですから弟子たちの戸惑いの言葉は、イエス様の意図を全く理解していないことを表しています。というのは、ヨハネの福音書2章2節を見ますと、弟子たちは既にカナの結婚式に招かれており、そこで起こった出来事を体験していたからです。彼らは、イエス様が、600ℓもの水を最上等のワインに変えられて、披露宴が滞りなく進むようにされ、新婚カップルの面目を保ち、この二人の門出を祝福されたイエス様の結婚祝いの粋な計らいをその目で見ていたのです。つまり、イエス様御自身が、全ての源であることを認識すべきだったのです。
 ですから弟子たちはイエス様から「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」と言われた時、「はい」と答えて、「ついてはどのようにしたら良いでしょうか」とイエス様に尋ねるべきだったのです。するとイエス様は言われた事でしょう。38節です。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」このイエス様の確信に満ちた指示の言葉から、イエス様は、群衆の中の誰が何を持っているかご存知であったことが分かります。このイエス様の指示に従って弟子たちが群衆の中をかき分けてパンを持っている人を捜しました。弟子たちは「どなたかパンを持っている人は居ませんか。」と呼びかけながら群集の中をかき分けて進んだことでしょう。その中に一人の少年が五つのパンと二匹の魚を持っていたのです。それは多分朝にお母さんが持たしてくれたお弁当だったのかもしれません。ある注解者は、少年がお弁当として売っていたものの残りだったのではないかと書いています。いずれにしても少年は自分の持っている五つのパンと二匹の魚をイエス様が求めておられると知ると、喜んでそのパンと魚を弟子たちに渡しました。

 するとイエス様は弟子たちに命じて、皆を百人づつと五十人づつの組みに分けて、青草の上に座るようにさせました。そうすると、各組の間に通路ができ、パンと魚を配り易くなります。
 群集の食事をする準備が整うと、イエス様は五つのパンと二匹の魚を手に取り、天を見上げて神様を誉め称え、パンを裂き、そして人々に配るようにと、弟子たちに渡されました。イエス様がパンを裂かれると、イエス様の手から、裂かれたパンが洪水のように湧き出て来たのです。弟子たちは自分たちが日用品を入れてリュックのように担いでいる籠にパンを受け取り、そのパンを各組の端にいる人々に受け取ってもらい、隣の人へと手渡ししてもらいました。現代の私たちから見ると衛生的ではないように見えますが、そのことは神様であるイエス様が行っておられるのですから全く心配いりません。また魚もイエス様の手から次から次への二匹の魚が湧き出て来たので、弟子たちはその魚も各組の端にいる人に隣へと手渡しするようにお願いして渡しました。このパンと魚の配膳は、人々がこれ以上食べることができないとなる時まで続きました。イエス様が裂かれたパンと分けられた魚は、とてもおいしく、群衆にとってはきっと天国の香りと味がしたことでしょう。本当に群集は皆、心もお腹も満たされ、喜びに満ち溢れたのです。
 弟子たちは落ちているパンと魚を集め12の籠を一杯にしました。そしてイエス様が弟子たちに命じられた言葉を思い起こしたことでしょう。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」そして気付いたのです。弟子たちは顔を見合わせて異口同音に言ったことでしょう。「あ、今日、私たちはあの群衆に食べ物を与えていた。イエス様が言われる通りのことを私たちはやっていた。」しかし残念ながら、イエス様に対する弟子たちの理解はここまででした。弟子たちはイエス様が水をワインに変えられるお方であり、五つパンと二匹の魚から1万5千人の人々を満腹させるお方であるという事実は認めましたが、「イエス様は人間である」という観念から抜け出すことができませんでした。

 本日イエス様は、男だけでも五千人の群衆の心を神の国のお話で満たされました。その後、五つのパンと二匹の魚を祝福して、今まで食べたことも無い程おいしいパンと魚を心行くまでたっぷりと味わわせ、群衆のお腹をも満たされました。一方、宣教旅行から戻った弟子たちには、「あなた方が、あの人たちに食べる者を上げなさい。」と命じられ、「パンを食べたのは、男が五千人」の食事の給仕につかせましたが、残念なことに弟子たちは、イエス様が五つパンと二匹の魚から1万5千人の人々を満腹させるお方であるという奇跡を見ても、「イエス様は人間である」という認識から抜け出すことができませんでした。なぜならイエス様がルカの福音書5章31節でこのように言われているからです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。」弟子たちは、自分たちは罪を犯さず、心も体も健康であると思っていた人たちでした。ですから罪を赦す天の裁判官であり、どんな病も癒す名医のイエス様を必要としていませんでしたから、イエス様の真の姿が神様であることを見抜けなかったのです。つまり弟子たちは、長年苦しんだ罪を赦し、病を直ちに癒されるイエス様の奇跡を経験していなかったのです。
 ですから、私たちはまず悔い改めて、自分が神様のことを分からない傲慢で罪深い人間であることを認め、イエス・キリストに罪の赦しをお願いしましょう。心の底からお願いするならば、私たちの罪は赦され、永遠の滅びから救われた喜びに満たされます。またイエス・キリストを信じた方は、イエス・キリストをまだ知らない世の人々に伝え、共に永遠の滅びから救われた者とならせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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