説教全文

2021年6月27日(日) 聖霊降臨後第五主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「恐れないで、ただ信じていなさい」

マルコの福音書5章21-43節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖マルコの福音書5章21節から43節より、説教題は「恐れないで、ただ信じていなさい」です。
 本日の聖書箇所は、絵の中にもう一つの絵が描かれているような、あるいは劇の中で、もう一つの劇が行われているような、不思議な構成のお話です。ヤイロという名前の会堂司がイエス様に、死に瀕している娘を救って欲しいと懇願する話から始まったかと思うと、突然12年間、長血、つまり不正出血という婦人病に苦しんでいた女性のお話に変わります。そして、その女性のお話が終わると、最初の会堂司のお話に戻ります。なぜイエス様は、この様な複雑な対応をされたのでしょうか。

 さて、二つのお話が混ざっている本日の聖書箇所で、双方のお話に共通する言葉が一つあります。それは「信仰」です。34節でイエス様は、癒された長血の女性に言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」それに対して36節でイエス様は会堂司ヤイロに言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい。」この二人に言われたイエス様のお言葉から、女性の方はイエス様に対するしっかりした信仰を持っていることが分かります。しかし会堂司の方は、信仰を持っているのか持っていないのかまだはっきりとしていないということが分かります。ですから、イエス様はその信仰がまだはっきりとしない会堂司に、信仰とはどのようなものであるかということを教えるために、長血の女性の信仰を生きた手本として示されたのではないかと見ることができます。
 イエス様と弟子たちが対岸のデカポリス地方から、舟でカペナウムの町に帰って来られると、待ちわびていたように、大勢の人々がイエス様の御許に集まって来ました。すると会堂司の一人で、ヤイロという人がイエス様の足元にひれ伏して懇願しました。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。(23節)」会堂司は、娘が死なない内に、何とか早くイエス様に家まで来ていただけるように、丁重にお願いしました。そこでイエス様はヤイロさんと一緒に行くことにしたのです。しかし何が起こるのかと興味津々の大群衆は二人を取り囲み、誰も彼もがイエス様の近くに寄ろうと押し迫ったので、ヤイロさんはイエス様をスムーズに自分の家に案内することができませんでした。そして思ったでしょうね。どうしてこんなに大勢の人がイエス様の周りに集まって来てしまったのだろうか、一刻も早くイエス様を家へお連れしなければならないというのに。

 その大群衆の中に一人、12年間長血を患っている女の人がいました。この女の人の病気の問題は子宮からの不正出血が続いていたことです。しかし、ただ単に出血していただけでなく、血が流れ出ていく時に、体の内側で、鞭打ちが行われているようなひどい痛みにさいなまされていたことでした。29節で「病気」と翻訳されている言葉と34節で「苦しむ」と翻訳されている言葉には、同じギリシャ語の「鞭打ち」という意味の言葉が使われています。この言葉に入れ替えて29節と34節を翻訳するとこの様になります。29節「すると、すぐに血の源が乾いて、鞭打ちが癒やされたことをからだに感じた。」次に34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。鞭打たれることなく、健やかでいなさい。」このように、彼女の苦しみの原因は、不正出血があることだけでなく、不正出血が起こると、体の内側で鞭打つようなひどい痛みが襲っていたことだったのです。ですから彼女は何とかこの鞭打つような痛みから逃れようと、多くの医者にかかりました。しかしどの医者も癒すことができなかったのに多額の治療代を請求したのです。それで彼女は一文無しになってしまいました。治療によって癒されるという人間的な望みが消えた時、彼女は、ガリラヤ湖の対岸のゲラサ人の地で、レギオンという汚れた霊を追い出したお方の噂を聞いたのです。レギオンとはローマ軍の軍団の単位を言い、一隊6000人の兵士からなる軍団を意味します。ですからレギオンの汚れた霊に取りつかれていたとは、六千もの汚れた霊に取りつかれていたということです。このうわさを聞いた彼女はこう確信しました。「普通の人間にはたった一つの汚れた霊でさえ追い出すことが出来ないというのに、この御方は、なんと六千もの汚れた霊を男の人から追い出したと噂されている。こんなにもすごい力を持っておられる御方なら、医者には治せなかった私の病気でもきっと治せる筈、あの御方の衣に少しでも触れることが出来れば、必ず癒していただける。」福音記者のマルコは5章27節で「彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。」と、簡潔に書いていますが、並行記事であるマタイの福音書9章20節には「すると見よ。12年の間、長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。」と、もう少し詳しく書いてあります。この女性が触れた房について、旧約聖書の民数記15章38節と39節を見ますとこの様に書いてあります。「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。」私たちがイスラエル巡礼の旅の六日目の日曜日に、ヤッフォの町にあるルーテル教会の礼拝に出席した時、一人の男性が礼拝中ずっと立っていて、お辞儀をするような動作を繰り返していたので、とても目立ちました。その方はズボンをはいており、そのズボンの腰の四隅から四本のひもが垂れていました。礼拝後に教会の人に聞いたら、「あの人は最近ユダヤ教からキリスト教に改宗したばかりで、ユダヤ教時代の習慣からまだ離れることができないので、私たちもそっとしてあげているのです。」という答えがありました。モーセの時代から3500年経った今でも戒めは守られているのでびっくりです。
 イエス様も民数記15章38節と39節の規定に従い、上着の四隅に房を付け、その房から青いひもをたらしておられました。そして長血の女性はその4つの内の後ろ側にある一つの房に触れたのです。しかし今しがた読んだ民数記15章39節の内容から見ると、この房と紐は「淫らな思いと行いを避けるためのものである」と書いてあるので、そこから癒しの力が出て来るようなものではないようです。ですから、この長血の女性が癒されたのは、マルコの福音書5章28節で記されている「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる。」と信じた信仰の故であることが分かります。女性がイエス様の房に触れると「すると、すぐに血の源が乾いて、病気(鞭打ち)が癒やされたことをからだに感じた。」のです。痛みも無くなり、全く健康な体にしていただいた喜びが体中が沸き起こっていました。

 大勢の人がイエス様に押し寄せてイエス様の衣に触っていた中で、この女性がイエス様の房に触った途端、イエス様も、自分の内から力が出て行くのに気が付きました。これが信仰の力ですね。信仰とは神様から贈り物を受け取る手であるとよく言われます。まさにこの箇所はそのことをよく表しています。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる。」と信じたことが、触れた瞬間に現実のものとなったのです。
 それにしてもなぜこの女性はイエス様の後ろから断りもなしにイエス様の衣に触れたのでしょうか。どうして正面からイエス様に自分の病気を癒してくださいとお願いしなかったのでしょうか。イエス様はこの問題をこのままにしてはおけないと思われたのでしょう。女性がご自分の房に触れ、ご自分から力が出て行ったのに気が付くと、群衆の中で振り向いて、「だれがわたしの衣にさわったのですか。(30節)」と言われました。イエス様は振り向かれた時、病気を癒された当の女性と向き合うことになりました。しかしこの女性を見ずに、なおも周りを見回して「だれがわたしの衣にさわったのですか。」と言われました。これを聞いた弟子たちが言いました。31節です。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」このいさめるような弟子たちの声にもかかわらず、イエス様は32節で、「周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた」のです。この32節のギリシャ語を正確に翻訳するとこの様になります。「そしてこのことをした女性を見て、見回しておられた。」この32節には、「このことをした」というイエス様に触った人の性別と数がわかる動詞と、「じっと見る」という動詞と、「見回す」という動詞の三つの動詞が使われています。イエス様は神様ですから、誰が触ったのかをご存知だったのです。それで今度は、当の女性と視線を合わせ、その女性をじっと見つめ、触ったのはあなたですね、と暗黙のうちにご自分がご存知であることを知らせています。どうしてイエス様はこんなにもしつこく「周囲を見回して、誰が触ったのか知ろうとされた」のでしょうか。それは当の女性が、のちのちイエス様の許可なくイエス様の力を盗んだという思いにさいなまれないようにするためでした。たとえ体が癒されても、今度は心が「イエス様の力を盗んだ」という思いに苦しむことになるからです。イエス様はこの女性がそうならないようにと導かれたのです。
 これに応えてこの女性は恐れおののきながら進み出て、イエス様の前にひれ伏して、真実を包み隠さず全てお話しました。この女性がイエス様の後ろから来てそっとイエス様の衣に触った理由は、この女性が包み隠さずに告白した「真実」のためであることが分かります。その「真実」とは彼女が長血に長いこと苦しんでいたことであり、そして自分がこのような病気であることを人々に知られてしまうことを恐れていたことでした。
 女性が人に知られる恐れを克服して真実を包み隠さず話したら、イエス様はおっしゃってくださったのです。34節です。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむ(鞭打たれる)ことなく、健やかでいなさい。」女性にとって、不正出血は結婚にも響き、恥ずかしく、なかなか公にできない病気です。イエス様の後ろからその衣に触ったのも、その理由です。ですからきっと、癒されたらすぐにその場を離れるつもりだったことでしょう。しかしイエス様はそうはさせませんでした。第一にこの女性の立派な信仰を会堂司のヤイロさんに見せて、信仰とはイエス様に対して揺るがない信頼を持つことであると教えるためでした。第二に癒された女性をこのまま帰してしまっては、彼女がイエス様の許可も得ずに癒しの力を盗んだという思いに今後さいなまれてしまうので、これを解決するためでした。第三に「安心して行きなさい。」と祝福を与え、御自分を信頼する人の人生を、全てに渡って祝福してくださる御方であることを示されるためでした。即ち、イエス様を信じる者は、平安な人生を送り、苦しむことなく健やかであることを教えられたのです。イエス様に癒された女性は、自分の信仰によって、これまでの痛みや苦しみから解放されただけでなく、黙って後ろから触ったことも許され、そしてその後の人生も健やかなものであることを保証していただき、安堵して家に帰ることが出来たのです。

 さて、イエス様によるこの長血の女性の癒しを見て、お金では得られない、健康と平安に満ちた人生の祝福を聞いた会堂司のヤイロさんは、どのような反応を示したでしょうか。きっと自分も良い結果を見ることが出来るだろうと期待したと思われます。しかしその期待は「お嬢さんは亡くなりました。」という家からの報告によって無残にも打ち砕かれてしまいました。人は死んだらおしまいです。よみがえることはありません。ヤイロさんは絶望で目の前が真っ暗になりました。きっとヤイロさんはイエス様に背を向けて、家から報告に来た使用人たちと家路についたことでしょう。そのがっくりと肩を落として無力感にさいなまれているヤイロさんに向かってイエス様は言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい。(36節)」
 このイエス様の言われる「恐れないで」とは、長血の女性が最初は真実を人に知られるのを恐れてイエス様の後ろから衣に触ったけれども、最後にはその恐れを乗り越えて公衆の前でイエス様に真実を告白したように、あなたも「娘の死を恐れてはいけない」、という意味です。つまり、「恐れなければ、その先があるけれど、恐れれば、その先は無い」ということです。イエス様は、「長血の女性が恐れずに真実を告白したので、わたしが彼女のその後の人生の平安を保証してあげたように、あなたも娘の死を恐れなければ、あなたの家族に平安を与えてあげますよ。」と言われたのです。
 そして「ただ信じていなさい。」とは、長血の女性が「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と信じていたように、「わたしイエスに委ねれば、娘は死から救われる」と信じることですよ、と言われたのです。死を決めるのは人間ではなくて神様です。この「恐れないで、ただ信じていなさい。」というイエス様の言葉に、ヤイロさんは「死」という闇の中を、先頭に立って歩んで行かれるイエス様の姿を見、「私の後に従ってきなさい」と、暗黙のうちに命じられるイエス様の声を聴きました。イエス様は証人としてペテロとヤコブとヨハネの3人を選び、後の弟子たちはガリラヤ湖のほとりに残しておいて、ヤイロさんの家に向かいました。
 ヤイロさんの家には既に死者を嘆き悲しむプロの泣き女がたくさん雇われて来ており、騒々しい状況でした。イエス様はその中に入って「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。(39節)」と言われました。このイエス様の言葉を聞いて、泣き女たちはイエス様をあざ笑いました。イエス様はその騒がしい人々や使用人など両親以外の人を全て家の外に出し、子供の両親と3人の弟子たちだけを連れて、子供が横たわっている部屋に入り、死んでいる少女の手を取って言われました。「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」そうしたらなんと「少女はすぐに起き上がり、歩き始めた」のです。「彼女は12歳であった」と書いてあります。この死人のよみがえりに両親や3人の弟子たちは口もきけないほど驚きました。イエス様はこのことを誰にも知らせてはいけないと厳しく命じられました。子供が死んだことは多くの人によって知られており、またその子が生きて現れることも多くの人に知られるようになるからです。それで十分であったからです。またイエス様は少女に食べ物を与えるように言われました。死に至る病気になっていた間、何も食べていなかったからです。元気になった今、食べ物が必要です。両親が少女の回復に驚いて、食事を与えることを忘れてしまうことをイエス様は知っておられました。

 本日イエス様は、12歳の娘が死んだことを告げられて、がっくりと肩を落とした会堂司のヤイロさんに対して、「恐れないで、ただ信じていなさい」と命じられました。イエス様はこの言葉をもって、この様に言われました。「長血の女性が恐れずに真実を私に告白したので、わたしが病気の完全な癒しと人生の平安を彼女に保証してあげたように、あなたも恐れなければ、あなたの家族には平安が訪れる」、そして「長血の女性が私の衣に触れさえすれば自分の病が癒されると信じて癒されたように、あなたも私を信じて私に委ねれば、娘さんは死から救われます」と。ですから私たちクリスチャンはこの世にあって、恐れてはなりません。恐れれば自滅の道を歩みます。しかし恐れず、救い主イエス・キリストを信じ続けるならば、あなたもあなたの家族も救われ、平安な人生を送ることができます。天地を創造された全能の神様が、全ての災いから守り、導き、祝福してくださるからです。ですから、この祝福の源である救い主イエス・キリストを多くの人々にお知らせし、共に祝福されたこの世の生活を送っていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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