説教全文

2021年6月20日(日) 聖霊降臨後第四主日

聖書箇所 説教全文

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「風や湖までが言うことを聞くとは」

マルコの福音書4章35-41節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖マルコの福音書4章35節から41節より、説教題は「風や湖までが言うことを聞くとは」でございます。
 本日の説教題は、本日の聖書箇所の最後の節である41節から取らせていただきました。この41節の言葉「彼らは非常に恐れて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。』」から、風や湖までをも従わせるイエス様を前にして、弟子たちが唖然としている様子が良く表されています。ところがイエス様は40節で「どうして怖がるのですか、まだ信仰がないのですか。」と弟子たちに問うておられます。この両者の言葉から、イエス様の弟子たちに対する期待と、弟子たちのイエス様に対する認識との間には、大きな落差があることが分かります。このイエス様に対する弟子たちの信仰が低いことは一体どこから来ているのでしょうか。そのことを見てまいりましょう。
 昨日のニュース番組で、ニュースキャスターであった辛坊治郎氏が、一人でヨットを操って太平洋を横断し、70日間かかって先週水曜日の6月16日にカリフォルニアのサンディエゴに無事到着したとの報道があり、辛坊氏の元気な姿を見ることが出来ました。今年の3月、様々な方々が卒業されるという時期に、辛坊ニュースキャスターも「番組を卒業して、ヨットで太平洋を横断したいという長年の計画を実行することにした」、と話しておられましたので、その後どうなったのかと気にはなっておりました。そのテレビニュースの中で辛坊氏は、太平洋横断で一番怖かったことは、大嵐に遭い、大波にもまれて上下左右に揺すられることが長い間続いたことだったと言っていました。嵐が去った後、甲板に出てみると、普通は切れるはずのないメインマストを支えている直径15ミリのワイヤーが、なんと切れていたそうです。また一番感動したことは、月も無く風も無い夜の美しさだったそうです。その夜は満天の星空で、海は鏡の様に静まり返り、満天の星空が、鏡の様な海に映り込み、空も海も星で輝き、360度、自分が無数の星に囲まれて宇宙空間に浮かんでいるように感じて、その美しさは言葉にならなかったそうです。

 さて本日の聖書箇所でイエス様は弟子たちに、太平洋ならぬ、ガリラヤ湖を横断して向こう岸に渡ろうと言われました。福音記者のマルコはその理由について何も告げていません。それで、推測するしかないのですが、理由として二つ考えられます。順当な理由としては、次の5章2節に書いてある汚れた霊に憑かれた人に会うためであったということでしょう。もう一つの理由は、本日の聖書箇所の文脈から、4章40節に「まだ信仰が無いのですか。」と書いてあるように、弟子たちに御自分に対する信仰の程度を認識させて、弟子たちの内に望ましい信仰を確立するためであったと思われます。
 第一の理由が成立するのは当然のこととして、私は第二のの理由も成立すると考えます。第二の理由が成立すると考えるのは次の理由によります。ヨハネの福音書1章41節を見ますと、弟子たちがイエス様の弟子になったきっかけは、洗礼者ヨハネから、イエス様が「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であり、「神の子」(ヨハネ1:34)であり、その結果「メシア」(ヨハネ1:41)すなわち、キリスト、油注がれた方であると教えられたからです。それなのに、その後イエス様が多くの病人を癒すのを見、(マルコ1:34)、汚れた霊どもがイエス様を見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です。」(マルコ3:11)と叫ぶのを聞いていたにもかかわらず、イエス様に対する弟子たちの評価は洗礼者ヨハネから聞いた「メシア」止まりであって、それ以上の進展はありませんでした。つまり弟子たちはイエス様が、油注がれたお方として、王、祭司、預言者のいずれかであると見ていたのです。ユダヤの国では、王、祭司、預言者の3人だけが油注がれた人々であったからです。王、祭司、預言者は、いずれも人間です。確かにイエス様は人間の姿をしており、大工の息子であり、ご飯を食べ、眠ります。今も舟の船尾で枕をして寝ておられるのです。ですから激しい嵐に遭遇して怖がっていた弟子たちは、グー、スーと安心して眠っておられたイエス様を起こして、「先生、私たちが死んでも、かまわないのですか」とイエス様に助けを求めたのです。この様にイエス様に対する弟子たちの評価はせいぜい人間の預言者であったことが分かります。というのは、旧約聖書に登場する預言者は人間でありましたが、普通の人間には不可能な多くの奇跡を行うことができたからです。例えばモーセはイスラエル人をエジプトから連れ出すために、神様の命令に従って、ナイル川を血の川と変えたり(出エジプト7:20)、エジプトの家畜を全て疫病で殺したり(出エジプト9:6)、イナゴの大群にエジプトの全ての木の葉や野の草を食べさせたり(出エジプト10:15)しました。このように預言者には絶大な力が与えられていたことが分かります。しかしイエス様は預言者以上のお方です。弟子たちの御自分に対する認識を考えさせるきっかけとするために、今回「向こう岸に渡ろう。」と弟子たちに指示を出されたのだ、と考えられます。

 36節を見ますと、「ほかの舟も一緒に行った。」と書いてあります。この「ほかの船」は原文のギリシャ語を見ますと、複数形で書いてありますので、弟子たち以外の人たちが乗っている舟のことと思われます。ですからイエス様と12人の弟子たちは一つの舟に乗っていたと思われます。この13人の大人を乗せた舟はどんな大きさの舟だったのでしょうか。ガリラヤ湖は湖ですので、漁をする舟は大型船ではなかっただろうと思われます。ですからイエス様と弟子たちの合計13人が乗り込んだ舟は、かなり水の中に沈み込んでいたことと思われます。ですから、「激しい突風が起こって、波が舟の中まで入り、舟は水で一杯になった」のは当然です。舟の中が水で一杯になったら、もうその船には13人の大人を浮かせる力がありません。沈んでいくだけです。着ていた服は水で濡れて体にへばり付き、気持ちのいいものではありません。大嵐の中で、舟は波の上に上げられ、次には波の谷間に落とされ、為す術もなく、だんだんと水の中に沈んでいく自分たちを眺め、弟子たちは死の恐怖に襲われ始めていました。
 ところが弟子たちが死の恐怖に襲われているというのに、船尾の方で枕をして一人すやすやと眠っている方がおられたのです。イエス様です。イエス様の体も半分水の中だったことでしょう。このままでは、頼みのイエス様も眠ったまま死んでしまう!弟子たちはイエス様を起こして言いました。「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか。」この弟子たちの言葉をギリシャ語から直訳するとこの様になります。「先生。私たちが滅ぼされても、気に掛けないのですか。」または「先生。私たちが滅ぼされても、関心が無いのですか。」何かイエス様を非難しているような響きが感じられます。特に、この弟子たちの「先生」という呼びかけの言葉が、イエス様に対する弟子たちの認識を表しています。この呼びかけの言葉から、弟子たちは、イエス様が人間の預言者であると信じて疑わなかったことが分かります。

 弟子たちの慌てふためく必死の呼びかけに、イエスは起き上がって風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、すっかり凪になりました。ここで気になるのは、イエス様が湖にも、「黙れ、静まれ」と命じたことです。湖に大波を立てさせているのは突風であって、湖自体ではありません。もしイエス様が風だけをしかりつけたならば、風は直ちに収まりますが、波は慣性の法則で、「ざぶーん、ざぶーん」、から「ざぶ、ざぶ」そしてしばらくして「ピチャ、ピチャ」と音を立てるようになり、やがて湖が「シーン」となるまでには時間がかかります。しかしイエス様は、自然の全てをご自分が支配しておられることを弟子たちが直ちに理解するために、風を叱りつけるだけでなく、湖に対しても「黙れ、静まれ」と命じられ、強制的にブレーキをかけさせたのです。イエス様の声がかかった瞬間に全ての物が、突然「シーン」と静まるようにされました。そうしたら、なんとさざ波一つ立たない鏡の様な真っ平らな湖が出現したのです。多分弟子たちが舟を揺らして波を立てようとしても、波は立たなかったことでしょう。イエス様が湖に波を立てないように命じられたからです。

 今まであんなに荒れ狂っていた風と湖が、イエス様の鶴の一声で突然凪になった光景を見た弟子たちは、この自然の突然の変わりように度肝を抜かれ、しばらくの間、開いた口がふさがらなかったことでしょう。そのあまりの驚きに、カチーンと固まっている弟子たちに向かって、イエス様は言われました。40節です。「どうして怖がるのですか。まだ信仰が無いのですか。」このイエス様の言葉をギリシャ後から直訳しますとこの様な意味になります。「なんとあなた方は臆病なのでしょうか。まだ信仰を持っていないのですか。」イエス様は、弟子たちが怖がったり、しりごみしたりする様子を指摘しておられます。この臆病風に吹かれている様子は、天地を創造されたお方を信じる信仰の欠如を示しています。もし弟子たちが天地を創造されたお方を信じているならば、臆病風に吹かれることはありませんでした。ですからイエス様は弟子たちに「まだ天地を創造されたお方に対する信仰を持っていないのですか。」と聞かれたのです。このイエス様のお言葉から、もし私たちも臆病であるならば、天地を創造されたお方に対する信仰を持っていないことが原因であることが分かります。逆に言うならば、もし私たちが天地を創造されたお方を信じているならば、私たちは臆病風に吹かれず、何が起こっても怖がることはないということになります。天地を創造されたお方が私たちを守ってくださるからです。この天地を創造されたお方とは、今弟子たちの目の前におられるイエス様です。ヨハネの福音書1章3節にこのように書いてあります。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」
 本日の聖書箇所であるマルコ4章41節を見ますと、弟子たちは非常に恐れて、互いに言いました。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」弟子たちは、人間の姿をして自分たちの目の前におられるイエス様を見て、「判断に困りました。弟子たちはイエス様を神様と信じたかったのですが、今まで受けて来たユダヤ教の教育が許しませんでした。ユダヤ人にとって、人間を神様と崇めることは厳しく禁じられてきました。モーセを通してユダヤ人に与えられた「十戒」の第一戒で「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」(出エジプト記20章3~4節)と戒められているからです。人間を神とすることはユダヤ人にとって偶像を造ることを意味しました。しかしイエス様の言葉で「風や湖までが言うことを聞く」様子を目の当たりに見て、今自分たちが目の前に見ていることは、天地を創造されたお方でなければできないことである、というジレンマに陥ったのです。しかしイエス様は、弟子たちがジレンマに陥っていても、上から目線で信じさせようとはなさらず、あくまでも弟子たちが自分たち自身でイエス様を天地を創造された神であると気付いて信じることができるように導かれました。
 この弟子たちのジレンマは、その半年後に解決されます。マタイの福音書14章22節から33節には、ガリラヤ湖の水の上を歩いて舟に近づいて来られたイエス様を弟子たちが見て、弟子の一人であるペテロがイエス様にお願いして水の上を歩かせてもらう場面があります。この二人が水の上を歩く場面を目にした弟子たちは、漸くイエス様が万物を創造し、今でも万物を支えておられるお方であることを悟ったのです。ですから二人が舟に上がると、「弟子たちは『まことに、あなたは神の子です』と言って、イエスを礼拝した。」とマタイの福音書14章33節に記されています。

 イエス様は本日の聖書箇所で、弟子たちに御自分を神と認める信仰を持ってもらうために「向こう岸に渡ろう」と言われました。イエス様は突風を起こされてガリラヤ湖に高波を起こされ、ご自分と弟子たちの乗った舟を難破の危機に陥らせ、弟子たちがご自分に救いを求めるようにされました。弟子たちの求めに応じてイエス様は風を叱りつけ、湖に黙れ、静まれ、と命じ、ガリラヤ湖を一瞬にして鏡のように凪いだ状態にされました。弟子たちは、イエス様の鶴の一声に、風や湖までが言うことを聞く様子を見て、一体この方はどなたなのだろうか、と考え始めるようになりました。半年後に、イエス様が水の上を歩かれ、ペテロにも水の上を歩かせるという奇跡を通して、弟子たちは漸くイエス様を神様と認めることができ、イエス様を礼拝するようになりました。ですからこの弟子たちの体験を読んだ現代の私たちも、「風や湖までが言うことを聞く」ようにされるイエス様を、神様であると信仰を新たにし、礼拝いたしましょう。また周りの方々に、「風や湖までが言うことを聞く」ようにされるイエス様を紹介し、共に礼拝する人となっていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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