説教全文

2021年5月16日(日) 私たちの主の昇天主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「主イエスは天に上げられた」

ルカの福音書24章44-53節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖ルカの福音書24章44節から53節より、説教題は「主イエスは天に上げられた」です。
 もう3~4年も前の事になりますが、種子島宇宙センターへ行った私どもの親戚から、ロケット発射の様子と34個のロケットの写真が印刷されたペーパーホルダーがお土産の一つとして送られてきました。ロケット発射の様子を見たいということで、子供たちと一緒に種子島まで見学に行ったそうです。発射予定日は天候が悪く発射延期となり、三日後に無事発射の様子を見ることができたとのことで、ロケットが地上からゆっくりと宇宙に向かって上昇していく姿は神々しく、とても感動したそうです。
 さて私たちの主イエス様は今から二千年前の先週の木曜日、弟子たちが見守る中、オリーブ山から天に昇って行かれました。本日の聖書箇所であるルカの福音書24章52節53節を見ますと、天に昇って行かれるイエス様を見た弟子たちは、その後三つの驚くべきことをしております。まず、思わず知らず「イエス様を礼拝し」、次に心の底から湧いてくる抑えきれない「大きな喜び」に包まれ、そして気が付くと「いつも宮に居て神をほめたたえていた」のです。このことは、弟子たちが、これまでには自発的に行ったことの無い行動をせざるをえない心境に変えられたということを示しています。言ってみれば、弟子たちは恍惚の境地に移されたと言えるでしょう。
 このようにイエス・キリストの昇天には感動を通り越して、人を根本的に変えてしまう力が有ることが分かります。この、人を根本的に変えてしまう力を持つ、イエス様の昇天が起こったのには三つの理由があります。それを本日の聖書箇所に聞いて参りましょう。

 イエス様が天に昇って行かなければならなかった第一の理由は、44節に書いてある御言葉です。「そしてイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。』」イエス様はこの御言葉によって、ご自分の昇天は、既に旧約聖書の中に預言されていたことであると言われました。聖書新改訳2017の脚注には、関連する聖書の箇所が書いてあります。この44節の「詩篇」という言葉についている脚注の③を見て見ますと、「③詩2、16、22、69、72、110,118篇」と書いてあります。つまり、「③詩篇第2篇、詩篇第16篇、詩篇第22篇、詩篇第69篇、詩篇第72篇、詩篇第110篇,詩篇第118篇」ですね。44節の御言葉と関連している詩篇の数が7つあるいうことが分かります。ではその5番目に詩篇第110篇を見てみましょう。詩篇110篇1節にはこのように書いてあります。「主は 私の主に言われた。『あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。』」この詩篇110篇に書いてある「主」は二人おられます。最初の「主」と次に「私の主」です。この二人の主は一体どなたでしょうか。最初に書いてある「主」は聖書には太字で書いてあります。聖書新改訳2017の「あとがき」の2頁目を見ますと、この太字の「主」は「ヤーウェ」という父なる神様のお名前が記されている箇所だと書いてあります。次に「私の主」はどなたでしょうか。この詩篇110篇の作者は表題に「ダビデによる。賛歌。」と書いてありますので、「私」とは「ダビデ王」のことです。そうすると、ダビデ王が呼ぶ「私の主」とは、父なる神様が与えてくださると約束されている救い主、つまり後に来られた「イエス・キリスト」ということになります。以上の事から、この詩篇110篇からは、父なる神様がイエス様に向かって「あなたは、私の右の座に着いていなさい。私があなたの敵をあなたの足台とするまで。」と命じられたのだということが分かります。ですからイエス様が天に昇って行かなければならなかった第一番目の理由は、詩篇110篇に記されている父なる神様の命令、即ち「父なる神様の右の座に着く」という預言の言葉を成就させるためであった、ということになります。
 それでは、イエス様は父なる神様の右の座に着いてから何を為さるのでしょうか。この詩篇110篇4節にその役割が記されています。「主(太字)は誓われた。思い直されることはない。『あなたはメルキゼデクの例に倣(なら)い とこしえに祭司である。』」イエス様は「とこしえの祭司」として父なる神様の右の座に就かれるのです。その祭司職の役割がヘブル人への手紙7章25節に記されています。「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」このヘブル人への手紙の言葉から、イエス様の任務は、ご自分を信じる人を完全に救うために、父なる神様にとりなしをすることである、ということが分かります。「とりなす」とは国語辞典を見ますと「対立する者の間に立って仲直りさせること」と書いてあります。つまり地上でイエス様を信じる人が出て来ると、天では大法廷が開かれ、イエス様はその人を父なる神様の前に立たせ、そしてご自分の両手の釘の穴を父なる神様に示して、執り成しを始められます。「父よ、この人は私を救い主と信じました。私はこの人のためにも十字架に掛かりました。ですからこの人にはもう罪が有りません。」すると父なる神様が判決を下されます。「判決:無罪。判決理由:あなたは我が子イエスを救い主として信じた。」ですから、イエス様は「とこしえの祭司」として、御自分を信じる全ての人をとりなすために、天に昇って行かれたということがわかります。

 イエス様が天に昇っていかなければならなかった第二の理由は、本日の聖書箇所ルカ24章47節の御言葉です。「その名によって、罪の赦(ゆる)しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、」どうしてこの御言葉がイエス様の天に昇って行かれた理由となるのかと言いますと、この47節の「モーセと律法と預言者たちの書」に付けられている脚注の②を見てください。そこにイザヤ書49章6節が引照としてあげられています。イザヤ書49章6節はこのように書いてあります。「主は言われる。『あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」このイザヤ書49章6節の言葉を語っておられる「主」は父なる神様で、「あなた」と呼ばれているのはイエス様です。イエス様がユダヤ民族の神様に留まるだけならば、現状のままで良く、何も天に昇って行かれる必要はありません。しかし父なる神様のご計画は、イエス様を国々の光とし、地の果てまで父なる神様の救いをもたらす者とすることです。救いをもたらすとは、具体的には、悔い改めを促し、罪の赦しを願うように導くことです。罪の赦しを願うようになれば、直ちに罪の赦しが宣告され、滅びから救われます。天地創造からこの世の最後の日までに、この世に生を受けた全世界の人を滅びから救う「全世界の人々の救い主となる」ためにイエス様は天されたのです。
 イエス様が天に昇っていかなければならなかった第三番目の理由は、本日の聖書箇所であるルカの福音書24章48節で言われた御言葉です。「あなたがたは、これらのことの証人となります。」弟子たちは約3年にわたってイエス様と寝食を共にしました。その間、弟子たちはイエス様に一番近い所でイエス様のお話を聞き、特別に例え話の意味や旧約聖書の預言の言葉がイエス様の上に成就していることを教えていただき、多くの病人の癒しの奇跡や死んでしまったラザロの復活の奇跡を目撃し、五つのパンと二匹の魚から、女性と子供たちを除いて男性だけで5000人もの人たちへの給食の奇跡を手伝い、嵐の海の上を歩くイエス様の姿を見て恐れ、宣教活動の訓練を受け、そして十字架の死から復活されたイエス様の体にべたべたと触り、イエス様が神様であることを悟ったのです。ですからイエス様は弟子たちに向かって、「あなたがたは、これらのことの証人となります。」と言われたのです。 
 証人とは、目撃者のことです。自分の目で見、耳で聞いたことをそのまま語る人のことです。解説したり自分の意見を言う必要は全くありません。証人の役目はただただ素直に自分の見たこと聞いたことを素直に述べるだけです。忠実に宣べ伝えることが証人の資質として求められています。ところが、いくらイエス様の弟子だからと言って、そのままでは完全な証人になることはできません。人間というものは好い加減なものです。弟子たちの代表格であったペテロでさえも、イエス様が兵士たちに捕らえられると、自分の身を案じ始め、召使の女性や周りにいた男性から「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」と尋ねられると「何を言っているのか、私にはわからない。」「そんな人は知らない。」と三度も否定して逃げ出してしまったのです。(マタイ26:69、70、72,74)ですからイエス様は本日の聖書箇所ルカの福音書24章49節で言われました。「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」このイエス様が言われる「わたしの父が約束されたもの」とは聖霊のことです。聖霊は父なる神様とイエス様のお二人から送られてくるお方です。父なる神様だけから送られてくるのでも、御子なるイエス様だけから送られてくるのでもありません。父なる神様と御子なるイエス様の両方から送られて来るものです。ですからイエス様は父なる神様と一緒になって聖霊を私たちに送り出すために、天に昇って行かれたのです。ここがニケヤ信条で聖霊について私たちが信仰告白する時の言葉「聖霊は父と子とより出られ」の根拠となっている箇所です。
 この聖霊についてイエス様はヨハネの福音書16章で詳しく述べています。イエス様はヨハネの福音書16章7節で聖霊を「助け主」と呼んでいます。どうして「助け主」と言われているのかと言いますと、人に「罪と義と裁き」について正しく教えて、その人を救い主イエス様に導いて下さる御方であるからです。罪とは何でしょうか。ユダヤ人はモーセの律法を守らないことを罪としていました。日本でも同じですね。法治国家の日本で法律を犯す事は罪として裁かれます。しかしイエス様は、ヨハネの福音書16章9節で言われました。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」即ちご自分を信じないことが罪であると言われました。それは三位一体の神様が人間を創造された時、悪魔を用いて人間の最初の夫婦アダムとエバに原罪を植え付け、その子孫である全ての人間も原罪という遺伝子を持つ者とされ、この原罪が赦される条件を、神様は、「神の御子イエス・キリストを信じる」こととされたからです。即ちイエス・キリストを従順になって信じる人の原罪を赦すことにされたのです。これが使徒パウロがローマ人への手紙全体を通して教えている信仰の従順です。そして従順になってイエス・キリストを信じた人を「義」と認められました。
 またイエス様はヨハネの福音書16章13節で聖霊を「真理の御霊」と呼んでいます。真理の御霊は、イエス様の言葉を私たち人間一人一人に分るように伝え、私たちをすべての真理に導き(16章13節)、イエス様の栄光を現します(16章14節)。
 このように弟子たちが、イエス様とはどなたなのか、その教えはどのようなものなのか、等を正確に語るために、イエス様は聖霊を送ると約束されました。この聖霊を弟子たちに送ってくださるためにイエス様は天に昇って行かれたのです。

 イエス様は弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて弟子たちを祝福されました。ところがその祝福の声が少しづつ上の方に動いていくので、目を開けてみると、なんとイエス様がゆっくりと天に向かって上がっていくではありませんか。それと同時に突然、喜びの叫び声と賑やかな角笛の音と、そして讃美の歌声が聞こえてきたのです(詩篇47:5)。弟子たちは、大勢の天使達が自分たちの周りを取り囲んで、楽器を奏で、天に昇って行かれるイエス様を賛美している様子を見たことでしょう。私たちは本日の入祭唱の2番と3番で、詩篇47篇1、2、5、8節を歌いました。週報4頁の入祭唱の下に書いてある歌詞をご覧ください。そこにはこのように書いてあります。2番「すべての国々の民よ。手を叩きなさい。/喜びの声を上げて神に叫びなさい。/ まことに、いと高き主は、畏れ多い方であり、/ 全地を治める偉大な王であられるからです。」3番「 神は喜びの叫びの只中を、/ 主は角笛の音の中を昇って行かれました。/ 神は全ての国々を治めておられます。/ 神はその聖なる玉座に就いておられます。(若林學訳)」この様に、詩篇47篇にはイエス様が昇天され、父なる神様の右の座に着いておられることが預言されております。弟子たちは、この詩篇47編の言葉を思い出し、ゆっくりと天に向かって昇って行かれるイエス様を仰いで、その神々しさに、イエス様は神様であると大いに得心して、ひれ伏して拝みました。
 イエス様は天に戻って行かれました。地上にはもうおられないのです。けれども弟子たちは大きな喜びに包まれてエルサレムに帰り、いつも神殿に居て、神を誉め称えていました。イエス様が昇天される姿があまりにも神々しかったので、その天に昇って行かれる姿が目に焼き付いて、神様を賛美せずにはおれなかったのです。それだけでなく、天に昇られたイエス様が目に見えない姿でいつも自分たちの真ん中におられることを感じて、喜びに満たされていたからです。

 この様に「主イエス様が天に昇っていかなければならなかった」理由が三つあります。第一番目は、天の法廷で御自分を信じる全ての人をとりなす永遠の祭司となるためです。二番目は、天地創造からこの世の終わりに至るまで、この地上に生きた全ての人に悔い改めを促し、罪の赦し求めさせ、救いをもたらす救い主となるためです。そして三番目は、信仰者である私たちが正しく証しできるようになるために、イエス様が父なる神様と一緒になって聖霊をこの世に送り出すためです。
 このイエス様が天に昇って行かれた三つの理由から、イエス・キリストとは、人間に罪を示して悔い改めに導き、父なる神様にとりなしをして罪を赦し、聖霊を与えて確かな証人とするお方であることが分かります。このように人間を滅びから救い、救われた人に聖霊を送って証人として正しい証しをさせ、共に人々の救いのために働くようにと、イエス様は天に昇って行かれました。キリスト教は人を滅びから救う宗教です。キリストを知らずに滅んでいく人が大勢おります。一人でも多くの人に昇天されたイエス様をお知らせしましょう。そしてイエス様に守られた安全安心の喜びの人生を歩んでいただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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