説教全文

2021年5月9日(日) 復活節第六主日

聖書箇所 説教全文

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「私の愛の内に留まりなさい」

ヨハネの福音書15章9-17節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖ヨハネの福音書15章9節から17節より、説教題は「わたしの愛の内にとどまりなさい」です。ここでお断りしておくことが一つあります。それは先週も申し上げたことですが、本日の説教題が私共が用いている聖書 新改訳2017の翻訳文と、微妙に異なっていることです。聖書 新改訳2017の御言葉は「わたしの愛にとどまりなさい」と翻訳しています。しかし本日の説教題は「わたしの愛の内にとどまりなさい」です。両者の違いは、「わたしの愛に」とするか「わたしの愛の内に」とするかのわずかな違いです。新改訳2017で「に」と翻訳されているギリシャ語の前置詞は「~中に、~内に、~に」と3通りに翻訳できる言葉です。ですから両者とも翻訳は間違いないのですが、原典であるギリシャ語聖書の意味を明確にするために、敢えて「内に」と翻訳させていただきました。
 さて、先週の説教はヨハネの福音書15章1節~8節から、説教題は「わたしの内にとどまりなさい」とさせていただきました。本日の説教の聖書箇所は先週の続きなので、先週の説教題とは異なるものを選びたいと思い、説教箇所の内で二度繰り返されている御言葉を捜しました。そうしたら12節と17節に言われている御言葉「互いに愛し合うこと」が見つかりました。おまけに、12節では、「これがわたしの戒めです。」と書いてあり、17節では「わたしはこれを、あなたがたに命じます。」と記されているで、この御言葉は説教題として間違いないと確信したのですが、良く良く読んでみましたら、もっと本質的な御言葉が見つかりました。それが9節から取られた本日の説教題「わたしの愛の内にとどまりなさい」です。
 何故「わたしの愛の内にとどまりなさい」という御言葉が本質的なのかと言いますと、先ほども言いましたように、本日の聖書箇所は先週の続きであるからです。先週は、ぶどうの枝で例えられているクリスチャンたちが、ぶどうの木と例えられているイエス様から離れないで、イエス様に繋がっていることが、甘いぶどうの実を多く結ぶ根本的な教えであることを学びました。そして甘いぶどうの実とはガラテヤ書5章22節と23節で言う「御霊の実」であることも学びました。ガラテヤ5章22節と23節を見ますと御霊の実とは具体的に何を指すのかが書かれています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」御霊の実は全部で九つあります。この使徒パウロが掲げた九つの御霊の実の一番初めの実は、「愛」です。この「愛」という実を私たちはどのようにしたら結ぶことができるのでしょうか。そのことが本日のテーマとなります。

 結論から先に申し上げるなら、ぶどうの枝がぶどうの木に留まっているならば、ぶどうの実を結ぶことができるように、私たちもぶどうの木で例えられるイエス様の愛の内に留まっているならば、イエス様の愛という実を実らすことができる、ということになります。ですからイエス様はヨハネの福音書15章9節でこのように言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」このイエス様の愛の内に留まるということが、私たち全てクリスチャンが歩むべき道となります。
 逆に言うと、クリスチャンなのにイエス様の愛の内に留まらない場合はどうなるのでしょうか。「愛」だけでなく、「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実は何一つ実りません。イエス様と霊的につながっていないということは、枯れ枝と言うことになり、農夫である父なる神様によって取り除かれ、天使によって地獄の燃える釜の内に投げ込まれてしまいます。
 それではどうしたらイエス様の愛の内に留まることになるのでしょうか。それは自分の頭で考えて良い行いをする事でもなく、この世の人が書いた哲学書や教養書を読み漁ることでもありません。それは、私たちが毎日ご飯をいただくようにして、神様の言葉である聖書を、自分の魂の糧として毎日読むことです。私たちが大金を払って購入したこの聖書は、神様の言葉であり、神様御自身であるからです。ヨハネの福音書1章1節にこのように記されています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」この最後の「ことばは神であった。」と言う文章から、「ことばは神であり、神はことばである。」とも言えます。ですから私たちがこの紙でできた聖書を本棚に飾っておくのではなく、神様の言葉として、毎日少しづつ読み進める時、私たちは徐々に徐々に、御霊の実を結ぶように変えられて行きます。創世記には天地創造という信じられな事柄が書いてあり、人々の系図があり、レビ記には様々な祭儀に関する規定が記されており、どうしてこれが信仰に関する事柄なのか理解に苦しむ記事が多々あります。でも理解に苦しむ記事も、我慢して読み進め、聖書を繰り返して読む回数が積み重なると、どうしてそのことが記されているのか分かってくるから不思議です。そして知らず知らずのうちに、自分の心の内に御霊の実が実って来るのです。神様が実らせてくださるのです。
 聖書を繰り返して読むようになると、まず実ってくる御霊の実は、本日の聖書箇所のヨハネの福音書15章11節に書いてある「喜び」でしょう。聖書が何を語っているのか分かるということが喜びなのです。今までわからなかったことが分かる、今までできなかったことができる、今まで知らなかった世界が見えて来る時、私たちは内側から湧いてくる喜びに包まれます。なぜこの世に苦しみがあるのか、なぜ人間は殺し合いをするのか、なぜ人間は良い行いでは浮かばれないのか、なぜ人間は死んで行くのか、等々が分かり、そしてイエス・キリストがどなたなのか分かり、イエス・キリストを求めるようになり、イエス・キリストに出会って救われ、喜びに溢れるのです。11節に書いてある通りです。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」ですから聖書を読んでいて私たちが喜びに満ち溢れるようになる時、それはイエス様が私たちに分るように話しかけてくださっておられるからと言えます。

 この「喜び」の次に実っている御霊の実は何でしょうか。それは本日の聖書箇所の12節と13節に書いてある「愛」ですね。イエス様は12節で言われた通りです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」使徒ヨハネは、ヨハネの福音書の他に3通の手紙も書きました。その3通の内の一つ、ヨハネの第一の手紙4章8節にこのように書いてあります。「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」ここに書かれているように、神の言葉である聖書を読まない人は、当然のことながらどなたがまことの神様なのか分かりません。日本には八百万の神様がおられます。そのうちのどの神様が本当の神様なのか、聖書を読まない人にはわからないのです。ですからその人には残念ながら聖書で言うまことの「愛」が無いということになります。
 神様を知る方法は、神様が御自分の言葉を人間に書かせて、人間に御自分を知るようにされた、聖書を読むしか他に方法はありません。ですから、聖書を読まない人は、神様を知らないし、神様を知らない人には愛が無いのです。なぜなら神様は愛だからです。このことを反対に言いますと、神様を知っている人には愛があるということになります。
 旧約聖書の最初の5冊である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は律法の書と呼ばれており、その律法の書の教えを細部にわたって落ち度なく守ることは大変な事でした。マタイの福音書22章36節から40節を見ますと、律法の専門家がイエス様を試そうとして尋ねる場面が書いてあります。「『先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。』
 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」このようにイエス様は、律法の専門家に対して、「あなたの神を愛すること」と「あなたの隣人を愛すること」の二つが律法の一番重要な教えですよと答えられました。それは神様を愛し、隣人を愛することが、神様を知っていることを表しているからです。
 そしてイエス様は本日の聖書箇所であるヨハネの福音書15章の13節と14節で最高の愛、即ち愛の極みを示されました。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」この最高の愛とは、人が自分の友のために死ぬことです。そしてイエス様は弟子たちを「わたしの友」と呼びました。ですからイエス様は弟子たちのために命を捨てると言われました。具体的には、イエス様がご自分についてきた弟子たちの罪の身代わりとなって十字架に掛かることを表しています。ここで注意しなければならないことは、イエス様が言われる「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われる言葉を、「わたしの戒め」とはおっしゃっておられないことです。イエス様が「わたしの戒め」と言われたのは、9節の「わたしの愛にとどまりなさい。」と12節で言われた「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと。」の二つです。この二つの戒めを行うなら、わたしの友ですとイエス様は14節で言われたのです。ですから、間違っても、自分の友のために命を捨ててはなりません。なぜなら私たち人間は、イエス様のように自分でよみがえる力を持ち合わせていないからです。イエス様は愛する友である人間を死の滅びから救うために身代わりとなって死なれ、ご自分を信じる人間が永遠に生きるようになるためによみがえられました。

 次にイエス様は15節で弟子たちに言われました。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」弟子たちはイエス様によって「しもべ」から「友」に昇格しました。主人としもべの関係は主従関係です。その主従関係にある「しもべ」には常に主人からの命令があり、その命令に従わない場合は罰が伴います。ですから主従関係にあるしもべには、主人に対する恐れが何時も付きまとっています。しかし、弟子たちがイエス様の「友」となると、名目上ではありますが、上下関係から「同等の関係」となり、主従関係時代の恐れが無くなり、代わりに御霊の第3番目の実である「平安」という「落ち着いた心」が実り、4番目の実である「寛容」という「相手の言動や失敗を受け入れる気持ち」が実り、5番目の実である「親切」という「相手の身になって尽くす思い」が実り、そして6番目の実である「善意」という「全ての事を相手のために心から行なう姿勢」が実ります。

 さらにイエス様は、本日の聖書箇所の16節で弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」この御言葉でイエス様は、あなた方を選んで弟子と任命したのはわたしである、と言われました。人は任命された時、どのような実が実るでしょうか。それは任務を全うするために、7番目の実である「誠実」という「真摯に遂行する人格」が生まれ、8番目の実である「柔和」という「柔軟に対応する見方」が実り、9番目の実である「自制」という「慎み深い態度」が実ります。
 そして最期にイエス様は17節でまとめの言葉を宣べられました。「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」イエス様はなぜ最後にもう一度「互いに愛し合いなさい」と念を押されたのでしょうか。それは「愛」が全ての欠点を覆うからです。使徒たちの代表格であったペテロはその第一の手紙4章8節でこのように言っています。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」私たち人間は、この地球上で生存する生物の頂点に立つ者として、神様に似せて、神様によって造られました。しかし、神様は人間に高ぶらないようにと一つのとげを与えられました。それが原罪という名前の罪です。この原罪の故に人間は死ぬ者となっています。そして人間はこの地上で生きている間、自分の内に住む原罪によって、悪に傾きがちです。ですから人間が悪に傾かないように、熱心に愛し合いなさいと使徒ペテロは教えているのです。使徒ペテロが「熱心に愛し合いなさい」と言うのは、原罪を持つ人間は放っておけば誰も愛し合わないからです。愛するには、前向きな気持ちが必要です。それでイエス様は「命じます。」と言われ、使徒ペテロも「熱心に」と付け加えました。
 こう言う訳でイエス様は本日「わたしの愛の内にとどまりなさい」と言われ、私たちクリスチャンがこの地上で生活している間は、イエス様の愛の内に留まっていることを求められました。それは私たちが「愛」という実を結ぶためです。愛という実を結ぶことができれば、それに続いて「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という残り八つの御霊の実も自ずと結ぶようになります。なぜなら「御霊の実」を私たちの内に実らせるのは人間である私たちではなく、神様であられるイエス様であるからです。イエス様から離れて私たちが実らすことのできる実は、罪だけです。その行方は永遠の滅びです。ですからそうならない様に、クリスチャンは常にイエス様の愛の内にとどまり、イエス様の愛の力によって、熱心になって人を愛しましょう。イエス様の愛の力によって私たちが人を愛する時、私たちに愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実が実ります。この御霊の実が、この世の人を引き付ける力になります。どうしてクリスチャンはこんなにも優しくて暖かいのかと、この世の人が感じるようになった時、世の人々はクリスチャンの上におられるイエス様を求めるようになるかもしれません。そうなることを願って、私たちはイエス様の愛の内にとどまり、神様と隣人を熱心になって愛し合いましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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