説教全文

2021年4月18日(日) 復活節第三主日

聖書箇所 説教全文

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「罪の赦しを得させる悔い改め」

ルカの福音書24章36-49節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖ルカの福音書24章36節から49節より、説教題は「罪の赦しを得させる悔い改め」です。

 先週、私たちはヨハネの福音書を通して、疑い深い弟子のトマスが復活されたイエス様の体にべたべたと触ったのかどうか、とくにイエス様の両手のひらに空けられた釘の跡に指を差し入れたのか、それとも差し入れなかったのか、また脇腹の槍の傷跡に触ったのか、それとも触らなかったのかを考えました(ヨハネ20:19-31)。
 使徒ヨハネは彼の「ヨハネの手紙 第一」1章1節で「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」と語っているので、私は、イエス様が復活された日の夕方、弟子たち一同が集まっている家の中にイエス様が現れた時、弟子たちはイエス様に皆自分の手でべたべたと触り、イエス様が復活されたことをしっかりと確かめた、とお話ししました。そしてその1週間後、トマスも含め弟子たち全員が集まっている所にイエス様が再び現れた時、トマスもイエス様の両手の釘の跡に指を差し入れ、脇腹に手を差し入れて、槍の傷跡に触った、とお話しました。
 ところが本日の聖書箇所には、もっとびっくりするような過激なことが書いてありました。イエス様は訪問の挨拶として「平安があなたがたにあるように。」(36節)と言われましたが、弟子たちはそれを聞いて、「おびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。」と書いてあります。弟子たちの真中に、突然現れたイエス様から、「平安があなたがたにあるように。」と言われても、一体、誰が冷静でいることができるのでしょうか。死んだはずのイエス様が現れたのです。幽霊が現れたと思っても不思議ではありません。でもこの弟子たちの中には、この日の朝に、お墓で、復活されたイエス様に出会った女性たちもおり、イエス様と共にエマオの村まで歩き、夕食を共にした二人の男性もいました。でもほかの弟子たちはこの時初めて復活されたイエス様に出会ったのです。この時、初めて復活されたイエス様にお会いした弟子たちがイエス様を中心として、ざざざーっと後ずさりをして、壁に背を押し付けたと思われます。38節でイエス様が「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。」と問われても、怖いものは怖いのです。イエス様が復活された話を聞いてはいても、実際にその復活された当のイエス様とじかに接するのとでは大きな開きがあります。

 恐れて壁に背を押し付けて、イエス様から距離を保とうとしている弟子たちに向かって、イエス様は言われました。39節です。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」このイエス様の言葉で大切なのは「わたしにさわって」の「触って」と、「よく見なさい。」の「見なさい。」という言葉です。この二つの動詞はギリシャ語文法では「アオリスト」という動詞の過去形の一種が使われており、「触って」と「見なさい。」はアオリストの命令形で書かれています。「アオリスト」と言われてもチンプンカンプンですね。一般に動詞には現在形、現在進行形、過去形、過去完了形などの時制があります。例えば、触る。触っている。触った。触ってしまった。という風に時間の流れがあります。しかし、ギリシャ語のアオリストは、ある事実が過去において一応片付いてしまったものとして言い表す時制です。瞬間的な動作を示します。時間の要素が無く、どういう種類の行為をしたのかだけを表します。ですから「触る」のアオリストは「触る」という動作の種類のみを表しており、「触る」のアオリスト命令形は「必ず触りなさい」という意味になります。同じように「見る」のアオリスト命令形も「必ず見なさい」という意味になります。このように、新約聖書がギリシャ語で書かれた理由の一つは、ギリシャ語が伝えたい内容を正確に表現できる言語だからなのかも知れませんね。
 ですからイエス様は弟子たちに、「あなたがたは皆一人残らず私に必ず触りなさい。私の皮膚だけでなく、肉もあるか、骨もあるか、手や足をしっかり握って確認しなさい。私の手や足を必ず見なさい。私の手に空いた釘の穴、足に空いた釘の跡をよく見て確認しなさい。更に私の脇腹にも手を差し入れて、槍の傷跡に触りなさい。皆、自分の手で触り、自分の目で確認しなさい。」と命じられたのです。
 このイエス様の命令に弟子たちは従ったでしょうか。師であるイエス様が命じられた訳ですから、従がないわけにはいきません。弟子たちは触りました。ですから41節に書いてあるように、弟子たちは喜んだのです。そうしてこの様に結論しました。「本当に肉も骨もあり、釘の跡、槍の傷跡もある。この人は間違いなくあの十字架に掛けられたイエス様だ。」
 しかし、まだ一つ疑問がありました。それは鍵がかかっているこの部屋に、肉も骨もあるイエス様はどうやって入って来られたのだろうかという疑問でした。そこでイエス様はこの弟子たちの疑問に答えるために、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われました。弟子たちが焼いた魚を一切れ差し出すと、イエス様はそれを取って、弟子たちの目の前で、召しあがりました。イエス様は魚を食べることによって、皆が触った体の外側だけでなく、触ることのできなかった体の内側もこの世の体と同じ体であることを示されました。こうしてイエス様は、復活した体が、この世の体が持っていない能力、即ち、壁も岩も通り抜けることのできる能力、人間の目に見えないようにできる能力をも持っているだけでなく、この世の体の機能を全て備えていることを示されたのです。このイエス様が魚を食べられた様子を見て、弟子たちは創世記18章6節から8節に記されているアブラハムが天から訪れた主なる神様と二人の天使たちに給仕した場面を思い出しました。アブラハムはこの三人の天からの訪問者にパン菓子と子牛の料理と、チーズと牛乳を出しました。そうしたら三人の天からの訪問者たちはそれらを平らげたのです。私たちはこの様な話を聞くと嬉しくなります。天の御国でも食事ができるからです。こうなると、天の御国に入ることが楽しみになって来ますね。イエス様を囲んで食事ができるなんて、幸せですよね。本当に天の御国に入るのが楽しみとなります。

 さて、ご自分の復活を受け入れた弟子たちに、イエス様は言われました。44節です。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」それからイエス様は、聖書を悟らせるために弟子たちの心を開いて言われました。46節と47節です「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』」イエス様は、この46節と47節に示された言葉は、預言として旧約聖書に書いてあると言われたのです。つまり旧約聖書の隅から隅まで調べると、結論として46節と47節の言葉にまとまるとイエス様は言われたのです。確かにイエス様が十字架に付けられ、死んでくださることによって、わたしたち人間に永遠のいのちがあたえられるようになることは、創世記3章15節の「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」と、それから民数記21章9節の「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」で、すでに預言されています。三日後によみがえることは、イエス様御自身がマタイの福音書12章40節で「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」と指摘しておられます。そして特に詩篇22編では、イエス様の十字架刑がさらに詳しく預言されおり、その18節には「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。」と書いてあり、兵士たちがイエス様の衣をくじ引きする様子が描かれています。そして詩篇22編最後の30節と31節では、「子孫たちは主に仕え 主のことが 世代を超えて語り告げられます。彼らは来て 生まれてくる民に 主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」と言って、イエス様の十字架の贖(あがな)いの死は、未来永劫語り告げられると預言しています。
 そして本日の説教題である「罪の赦しを得させる悔い改め」は旧約聖書のヨエル書2章12節と13節に書いてあります。「しかし、今でも──主のことば── 心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」「心を引き裂いて主のもとに『立ち帰る』こと」が新約聖書で言うところの「悔い改め」なのです。
 なぜ「悔い改めなければならない」のかと言いますと、神様が悪魔を用いて最初の人間であるアダムとエバに、食べてはならないと命じておいた木の実を食べさせて罪を犯させ、エデンの園から追い出されて、ご自分から遠ざけられたように、アダムとエバの子孫全てを、即ち私たちをご自分から遠ざけられて神を知らない状態に置かれ、自発的に自分から「心を引き裂いて、即ち悔い改めて、ご自分のもとに立ち帰って来る人」だけを受け入れることにされたからです。ですから、端的に言うなら、「真の神様がどなたなのかを知らない」ことが原罪であって、その原罪を持ったままで死ぬことは、永遠の滅びを意味します。しかし、悔い改めて主なる神様、即ちイエス・キリストに立ち帰るなら、主は原罪を赦して下さり、永遠の命を与えてくださいます。このことは、旧約の昔も新約の今も変わり在りません。
 ところで、「悔い改め」という言葉を、私たちはどこで最初に聞いたでしょうか。そうです、マタイの福音書3章2節です。洗礼者ヨハネが荒野で教えを宣べ伝えた時、人々に呼び掛けた言葉でした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この洗礼者ヨハネは、ヘロデの息子であるヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、後に首をはねられました。イエス様はヨハネが捕らえられた後、宣教を開始されましたが、その宣教開始の第一声が同じく「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でした。この洗礼者ヨハネとイエス様がそれぞれの活動の最初に宣べ伝え、そして今回イエス様がその公生涯の最後で「罪の赦しを得させる悔い改め」を口にされたということは、この「悔い改め」が、キリスト教の根本的な教えであるということを示しています。即ち、キリスト教とは、「悔い改め」に始まって、「悔い改め」で終わる宗教であることが分かります。ですからマルチン・ルター博士も宗教改革の発端となった95箇条の提題の第一条でこのように述べました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』(マタイ4:17)と言われた時、彼は信ずる者の生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」マルチン・ルター博士は、クリスチャンという存在自体が「悔い改め」であるというのです。それ程にも人間は罪を犯し易い存在なので、日々悔い改めをし、神様との絆を保たなければならないと教えています。そういう訳で当教会も、その礼拝の最初に罪の告白を行い、この様に言います。「わたしは、これらの罪を心から悲しみ、心から悔い改めます。」そして、この罪の告白に対して、牧師はイエス・キリストの代わりに、次のように罪の赦しを宣言します。「わたしは、あなたがた全てに神の恵みを告げ、わたしの主イエス・キリストの命令によって、イエス・キリストに代わりに、御父と御子と聖霊との御名によって、あなたがたの全ての罪を赦します。」こうして私たちの罪は赦され、私たちは晴れて神様との交わる礼拝に参加できるのです。

 イエス様は最後の49節で弟子たちに言われました。「あなたがたは、これらのことの証人となります。」証人とは、自分の見聞きしたことをそのまま素直に述べる人のことを言います。しかし、イエス様は言われました。49節です。「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」イエス様はこの言葉で、ご自分と3年に渡って寝食を共にし、宣教訓練まで経験した弟子たちでさえ、現状のままでは証人として活動することはできないと言われたのです。キリストの証人となることは、誰でもできることではないと言われるのです。人間はたとえ弟子たちであっても聖霊に満たされなければ、外圧に耐えて真実を証しする正しい証人になることはできないと言われるのです。弟子たちを聖霊で満たした、この聖霊降臨はイエス様の復活後50日目に起こりました。そしてキリスト教会が誕生したのです

 そういう訳で、イエス様は本日の聖書箇所の47節で、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と言われました。「悔い改め」は、自分の罪を認め、その罪を悲しみ、イエス様に向かって、「私の罪を赦して下さい。」と懇願することです。イエス様に心から罪の赦しを乞い求める時、イエス様は快く、「私もあなたに罪を認めない。」と宣言してくださいます。そうすれば私たちの罪は直ちに無くなり、神様と和解したので、神様の子供となり、この世に生きていながら、同時に天の御国に入れていただけるのです。神の国に入れていただければ、神様から守られ、喜びと楽しみがいつも付いて来ます。なぜなら神様が次のように宣言しておられるからです。「わざわいは あなたに降りかからず 疫病も あなたの天幕に近づかない。主が あなたのために御使いたちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ。」(詩篇91篇10-11節)これがキリスト教です。是非「悔い改め」ましょう。それも毎日「悔い改め」て神様との絆を確認しましょう。そうすればあなたは祝福に満ちた人生を送ることができます。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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