説教全文

2021年3月21日(日) 四旬節第五主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「人の子は自分の命を与えるために来た」

マルコの福音書10章32-45節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の説教は聖マルコの福音書10章32節から45節より、説教題は「人の子は自分の命を与えるために来た」です。本日の話題は、なぜ神の御子であるイエス様が十字架に掛かるためにこの世に来られたのかということです。
 キリスト教の印は十字架です。この小針福音ルーテル教会は、教会の前に駐車場があり、建物が道路から引っ込んでいるために、あまり目立たず、特に車に乗っていると目に入って来ません。私共はこの家の住人なのですが、この家に引っ越してきた当初は、私共でさえもこの家の前を素通りしてしまったことが何度かありました。また、教会創立当時、キリスト教会のシンボルである十字架は、屋根の上にも壁にも付いておらず、ただ看板に当小針福音ルーテル教会のロゴの三本線の十字架が印刷されているだけでした。そのためなのか、ここにキリスト教会が出来たことを教会の前を通る人々になかなか気づいていただけませんでした。以前、礼拝に出席されていた、クリスチャンで新潟大学大学院の留学生の方は、バスで何回か通り過ぎた後に、漸くここにキリスト教会があると分かったので来た、と言っておられました。それで一年半前にようやく屋根の上に十字架を立てたのですが、残念ながら十字架が小さすぎてあまり目立ちません。その十字架を、なんとか大勢の人に認識していただけるようにしなければ、と悩んでいる所です。

 さて、過越の祭りを間近に控えた本日、イエス様の一行はエルサレム目指して歩んでいました。イエス様の一行が現在どこにいるのかといいますと、エリコの町の近くまで来ており、これからエルサレムに向かうところでした。救い主イエス・キリストとしての公生涯の最後の過越の祭りを祝うためにエルサレムに上って行かれると言えば聞こえは良いのですが、そうではなく十字架に掛かるための、エルサレム行きでした。
 二週間ほど前の3月7日の礼拝説教で、「イエス様はその救い主としての公生涯の初めと終わりに宮清めをなさっておられます。最初の宮清めは西暦27年の過越の祭りの時に行なわれ、2回目に行なわれたのはそれから3年後の西暦30年の過越の祭りの時でした。」と申しました。
 その間に西暦28年度の過越の祭りと、西暦29年度の過越の祭りの2回の過越の祭りがありましたが、その2回とも過越の祭りには参加されておりません。今回、イエス様は、西暦30年の過越の祭りの始まるほぼ一週間前の日曜日に、2回目の宮清めを行われ、そしてその過越の祭りの二日前の金曜日の午前中に十字架に掛けられ、午後3時頃に息を引き取られました。ですから、イエス様が宣教活動を開始されてから過越の祭りに参加されたのは、西暦27年の1回だけであったことが分かります。なぜイエス様は、公生涯に入られてから只の1回しか過越の祭りに参加されなかったのでしょうか。その理由は、西暦27年の宮清めの時にイエス様に文句を言ったユダヤ人たちに対して、イエス様が言われた言葉の中にあると私は見ています。イエス様はこのように言われました。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(ヨハネ2:19)この言葉によって、イエス様は次のように言われたのです。「私が宣教活動を開始したからには、もうこのエルサレム神殿の役目は終わりました。生ける神殿として、私がこの神殿に取って代わりました。だからもう過越の祭りを行うことは無意味なのです。ですから、お祝いするなら、まず私を殺しなさい。そして三日後によみがえった私を祝う復活祭を行ないなさい。」この時既にイエス様は、三年後に十字架に掛かることを予定されたと思われます。それで、イエス様は三年に渡る宣教活動を通して、ご自分に従う大勢の弟子たちを集め、ユダヤ人の指導者たちを不安に陥れてご自分を殺すようにと誘導されたのです。
 そういう訳でイエス様は今回のエルサレム行きが、十字架に掛かるためのものであることを弟子たちに語られました。本日の聖書箇所であるマルコの福音書10章33節と34節の御言葉です。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」この御言葉の最後の「しかし、人の子は三日後によみがえります。」というイエス様の言葉は、何と明るく、力強いことでしょうか。悪魔さえも覆い隠すことができない「希望と喜びに満ちた光」として弟子たちは感じたようです。悪魔ができることは、「人の子をあざけり、唾をかけ、むちで打ち、殺す」ことだけです。しかしイエス様は神様ですから復活されるのです。

 イエス様がご自分の死と復活について預言されたのは、本日の聖書箇所で三回目でした。一回目はピリポ・カイザリヤで弟子たちの信仰告白を求められた時です。マルコの福音書8章27節から33節に書いてあります。ペテロが弟子たちを代表して、「あなたはキリストです。」と信仰告白した時、イエス様はその31節で次のように預言されました。「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」この時ペテロがイエス様を脇に引き寄せていさめています。イエス様はこのペテロを叱って言われました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ペテロはイエス様が言われた「捨てられ、殺される」という言葉におびえたのです。この後イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネの三人だけを高い山に連れて行かれ、モーセとエリヤと話しておられる、栄光輝くご自分の本当の姿をお見せになりました。
 二回目はガリラヤのカペナウムに近づいた頃でした。マルコの福音書9章31節に書いてあるように、イエス様は弟子たちに次のように教えられました。「人の子は人々の手に渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる。」ところが、続く32節に「しかし弟子たちはこの言葉が理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」と書いてあります。ここからこのイエス様の預言の言葉は、弟子たちにとって、イエス様の死がとても信じられず、それと同じくらい、いやそれ以上にイエス様のよみがえりも、ありえないこととして信じることができないものであったということが分かります。
 ところが三回目の今回は、弟子たちの反応が全く違いました。同じ言葉を二度だけでなく三度も言われると、心に響くものです。弟子たちはイエス様の「三日後によみがえります。(ヨハネ10:34)」に強く心を打たれたのです。このイエス様の言葉が、弟子たちの心に、希望の光を灯しました。このイエス様の言葉を聞いていた弟子たちは、「イエス様はユダヤ人たちによって殺されるかもしれないけれど、必ずよみがえる」という確信を持つようになったのです。
 この確信に従っていち早く動き出したのが、ゼベダイの息子たちのヤコブとヨハネでした。二人は早速イエス様の許に行き、イエス様にお願いしました。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」この日本語の翻訳は原文のギリシャ語の文章をかなり和らげています。原文のギリシャ語を直訳しますとこの様になります。「先生。私たちがあなたに望むことは何であれ、あなたは私たちのために行ってくださいます。」この言いかたは、相手を縛る言い方です。自分たちの要求の内容を明かさないで、まず相手に実現の約束をさせる言い方です。ちなみに口語訳聖書はこのように翻訳しています。「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。この言い方は、用件も告げずに、相手に実現の約束を迫る言い方です。これは公正なやり方とは言えません。ヤコブとヨハネがこの様な話の切り出し方をしたのは、用件をまずイエス様に話したら、他の弟子たちも、自分も自分もと言って、競争になることが目に見えていたからです。競争相手は多いのです。それでまずイエス様に確約させて、それから用件を明かそうとしました。
 けれどもイエス様は弟子たちを平等に扱うために、筋を通した受け答えをされました。「何をしてほしいのですか。」二人は答えました。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」イエス様は二人に答えました。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」イエス様が言われる「わたしが飲む杯」とはイエス様がこれから受けようとするむち打ち刑や、十字架刑のことです。ヨハネの福音書18章10節、11節には、ペテロが剣を抜いて、イエス様を捕らえに来た大祭司のしもべの右の耳を切り落とす場面があります。その時イエス様はペテロに言われました。「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」ですからイエス様が受ける杯とは、むち打ち刑や十字架刑という苦い杯です。またバプテスマも同じことです。バプテスマとは洗礼のことです。クリスチャンになる時に受ける儀式のことです。御父と御子と聖霊の御名によって三度頭に水をかけられて、罪を洗い流す儀式です。イエス様も3年前、ヨルダン川で洗礼を受けて救い主に就任されました。その洗礼を受けられた時、神の子として罪を持たずに生まれてこられたイエス様は、水を通して流れて来る全人類の罪をその身に帯びてくださいました。そして今回、その全人類の罪を十字架上でご自分の血をもって洗い流すという苦い洗礼を受けられるのです。またイエス様の言われる「杯」は聖餐式を表します。私たちが聖餐式で杯を飲む時、罪の赦(ゆる)しが与えられますが、イエス様が杯を飲まれる時、その杯を通して、私たちが日々犯してしまう罪がイエス様の体の中に流れ込んで行くのです。事実イエス様は十字架に付けられた時、「わたしは渇く」と言われ、兵士たちがスポンジである海綿に含ませて差し出した酸いぶどう酒を口に受けられ、飲まれました。そして「完了した」と言われ、頭を垂れて、霊をお渡しになられました(ヨハネ19:28~30)。ですから洗礼式も聖餐式も儀式ですが、それは罪の赦しと結びついている大切な儀式なのです。この二つの儀式を通してクリスチャンは罪の赦しを得て、日々天の御国に入り、神様に守られた生活を送ることができるのです。
 本日の聖書箇所のマルコの福音書10章38節でイエス様は、この苦い杯を飲み、この苦い洗礼を受けることができますか、とヤコブとヨハネに問われました。二人は言いました。「できます。」この二人の答えに対してイエス様が言われました。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」このイエス様の預言通り、使徒の働き12章1節と2節を見ますと、ヨハネの兄弟ヤコブはヘロデ・アグリッパ王によって剣で殺されています。そしてヨハネは、殺されはしませんでしたが、投獄され(使徒4:3、5:18)、鞭打たれ(使徒5:40)、死の危険にさらされ(使徒5:33)、パトモスという島に島流しの身となりました(黙示録1:9)。
 しかしイエス様は他の弟子たちの手前、ヤコブとヨハネに釘を刺されました。マルコの福音書10章40節です。「しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」この言葉でイエス様は、ご自分に許認可権は有りませんときっぱりと断りました。けれどもヤコブとヨハネがイエス様と話している様子を聞いていた他の10人の弟子たちは腹を立てました。
 そこでイエス様は言われました。苦い杯や苦しい洗礼を受けることだけがイエス様の右と左に座る方法ではないと言われました。つまり殉教だけが栄光の座に座る方法ではないと言われたのです。というのは、神の国、あるいは天の御国は、この世と大きな違いがあるからです。この世おいては、支配者たちが人々に対して横柄に振舞い、偉い人たちが人々の上に権力を振るうのは仕方のないことです。この世は罪に汚染されているため、人々の心はねじ曲がっており、自分中心なので、力ある人が統治しなければ平和を維持できないからです。ですから、民主主義であろうと、共産主義であろうと、王政であろうと、軍政であろうと、独裁であろうと、とにかく無政府状態でないことが求められているのです。
 しかし神の国、天の御国には、罪赦された人々しかいませんから、皆、謙遜なのです。自分から前に出ようなんて誰も思いません。ですから、イエス様はその謙遜な人々に対して、「偉くなりたいなら、皆に仕える者になりなさい。先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」と言われました。この皆に仕える者、皆のしもべになる方法をイエス様は45節で説明されました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」このイエス様の御言葉を使徒パウロがピリピ人への手紙2章6節から8節で、このように説明しています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」このパウロ言葉に従って言い換えるなら、「クリスチャンは、現在の自分自身の生き方を捨てられないとは考えず、己を空しくして、しもべの様になり、自らを低くして、死に至るまでしもべの姿を取り続けること。」となります。クリスチャンである私たちがしもべとして働く姿を見て、まだイエス様を信じていない人々が、信じるようになるためです。私たちがキリストの姿に倣わなければならないのは、一人でも多くの人が、イエス様を信じてこの世を去るようになるためです。そのために私たちに求められていることは、皆に仕える者、皆のしもべとなることです。しかしながら、私たちがいくら努力しても、謙遜なしもべとなるように努めても、自分の力に頼っている間はできません。自分の力に頼るのではなく、イエス様に祈って、謙遜な人とならせていただかなければ出来ないことです。

 この様にイエス様は、「自分のいのちを与えるために来た(マルコ10:45)」と言われ、天地創造からこの世の終わりまでにこの地球上に生を受けた人間全ての罪の身代わりとなられ、二千年前に自ら十字架に掛かられました。ですから全人類の罪はもうイエス様の十字架によって贖われております。後はこのイエス様の十字架の死を、自分のためにも死んでくださったと受け入れ、イエス様を自分の救い主と信じることが全ての人間に求められています。
 イエス様は神様であるにもかかわらず、しもべのような姿を取り、死に至るまで人間に仕えてくださいました。ですから、私たちも、現在の自分自身の生き方を捨てられないとは考えず、己を空しくして、しもべの様になり、自らを低くして、死に到るまでしもべの姿を取り続けましょう。このしもべの様になって仕える私たちの姿が、人々を変えるのです。四旬節も残すところ二週間となりました。この二週間、謙遜になって悔い改め、日々イエス様から罪を赦していただき、しもべの様に仕える者とならせていただきましょう。そしてまだイエス様を信じていない多くの人々が、謙遜に仕える私たちクリスチャンの姿を見て、イエス様を自分の救い主と信じるようになっていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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