説教全文

2021年3月7日(日) 四旬節第三主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「わたしは、三日でそれをよみがえらせる」

ヨハネの福音書2章13-22節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の話題は、イエス様が救い主として公生涯を始められたときに、エルサレムで開かれる過越(すぎこし)の祭りに参加され、エルサレム神殿の宮清めをされた時のお話です。どうしてイエス様は公生涯の初めに宮清めをされたのでしょうか。本日はこの謎を探ってまいりましょう。
 私たち夫婦は2013年の5月から6月にかけてイスラエル巡礼の旅に出掛け、エルサレムに八日間滞在し、そのうちの六日間は、エルサレム旧市街やオリーブ山等、イエス様ゆかりの地を歩き回りました。エルサレムは紀元前1000年に即位したダビデ王の時代からユダヤ教の中心地となっており、この地にはユダヤ教の神殿が建てられていました。しかし、かつてユダヤ教のエルサレム神殿が建てられていた「神殿の丘」には、現在、金色の丸屋根を持つ、イスラム教第三の聖地「岩のドーム」や、礼拝堂である「モスク」が建てられており、敷地はイスラム教徒によって管理されています。ですから、半袖、短パンの観光客に対してイスラム教の風習を守らせるために、彼らに肌を隠すためのスカーフを買わせていました。
 赤ちゃんのイエス様を殺そうとしたヘロデ大王が建てた豪華なエルサレム神殿は、ローマ軍によって西暦70年にエルサレムの町と共に、ことごとく破壊し尽くされたので、エルサレム陥落後に残されたものは、神殿を囲む西側の壁の一部だけで、この壁は今も「嘆きの壁」として有名です。私たちも大勢のユダヤ人に混じって、この「嘆きの壁」に向ってお祈りしましたが、特に何の感慨もわきませんでした。この地には、イエス様がルカの福音書19章43節と44節で預言されていた通りのことが起こったことが分かります。「やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」このイエス様の預言の通り、46年かけて建設されたエルサレム神殿は、跡形もなくきれいに拭い去ったように無くなっています。まことの神様を恐れて礼拝する心を失った時、何が起こるのか、まさにエルサレム神殿が如実に語っていたように感じました。私たちはユダヤ人ではなく、日本人ですが、結果は変わりません。まことの神様を信じなければ、ユダヤ人から神様が去って行かれたのと同じように、私たち日本人からも神様が去って行かれることは確かです。

 イエス様はその救い主としての公生涯の初めと終わりに宮清めをなさっておられます。本日の聖書箇所に記されている、最初の宮清めは西暦27年の過越の祭りの時に行なわれ、2回目に行なわれたのはそれから3年後の西暦30年の過越の祭りの時でした。
 12歳以上のユダヤ人は誰でもエルサレムの過越の祭りに参加することになっていました。それでルカの福音書2章41節を見ますと、「イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。」と書いてありますので、両親のヨセフさんとマリアさんは、当然のことながらイエス様を始め、子供たち全員連れて過越の祭に参加していたことでしょう。ルカの福音書には、特にイエス様が12歳になられた時のハプニングが記載されています。祭りは終わったのに、イエス様が両親に無断で、エルサレム神殿に残り、教師たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしていたという話です。(ルカ2:46)
 このようにイエス様の両親のヨセフさんとマリアさんは、毎年エルサレム神殿に詣でて、過越の祭りを祝うことを習慣としていたので、お父さんのヨセフさんが亡くなった後も、その習慣は続いていたことでしょう。きっと、今回の過越の祭りにも、イエス様のお母さんであるマリアさんも、兄弟姉妹たちも、弟子たちも皆参加していたことと思われます。年に一回でありますが、また行く先も同じエルサレムですが、旅は楽しいものです。日常生活から解放され、祭りに出席するように神様から促されているわけですから、誰にも遠慮することなく、大手を振って祭りに参加できるのは誰にとっても嬉しいことに違いありません。コロナ・ウィルス感染症で自粛が求められている私たちにとっては、なんとも羨ましいお話です。
 さて過越の祭りに参加するために、神殿に詣でたイエス様とその家族及び弟子たちが宮の中で見たものは、牛や羊や鳩を売っている動物商人たちと、テーブルの上に小銭を積み上げた両替商人たちでした。そこは「異邦人の庭」と呼ばれている場所で、正面に神殿の南側の壁が見え、庭の周囲にはコリント式の柱で支えられた柱廊という回廊で囲まれていました。その回廊の中にいけにえの動物たちがつながれ、両替商人たちが座っていたと思われます。ですから「異邦人の庭」は、参拝する人々の話し声や、動物たちの鳴き声や、両替するお金の音で結構うるさかったと想像されます。
 この様な光景をイエス様はこの時初めて見られた訳ではありませんでした。それはお父さんとお母さんに連れて来られた時から、毎年見ていた光景でした。しかし今回、そのような光景を見られたイエス様は、動物たちを連れて来るために使った細縄が落ちているのを見つけ、それらを束ねて鞭(むち)を作り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替商のテーブルをひっくり返してお金を散らし、鳩を売っている者たちに言われました。「それをここから持って行け、わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(ヨハネ2:16)イエス様が造った鞭の材料を示すギリシャ語は、辞書を見ますと「イグサ」と書いてあります。今どきイグサと言ってもピーンと来ない方もおられると思いますが、畳表の材料となる草です。細くて丈夫で切れにくい草です。こんなのでぶった叩かれたら、さぞかし痛いことでしょうね。羊も牛もびっくりして逃げ出す様子が目に浮かぶようです。でもイエス様は手にした鞭で、動物を含め、誰をも打っていないと思われます。唯一の実力行使は、両替人のテーブルを倒したことです。多分家畜や家畜商人、それに両替商人たちが逃げ出したのは、彼らの心に、恐れの気持ちを与えられたからだと思われます。というのは、誰もイエス様に抵抗も文句も言っていないからです。みんな突然の恐怖に襲われ、あわてて異邦人の庭から逃げ出したように見えます。
 この家畜商人たちや両替商たちが雲の子を散らすように神殿から出て行った様子を見た「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす。』と書いてあるのを思い起こした。」と17節にあります。この言葉は私たちが今朝、入祭唱の1番の3段目で歌った詩篇69篇9節の歌詞「それはあなたの宮を思う熱心が私を食い尽くし、」です。この「あなた」とは、主なる神様の事で「イエス」様を表し、「私」とはダビデ王のことです。ダビデが主のために熱心であったために苦しまなければならなかったことを表現しています。「私を食い尽くす」という表現の意味は、入祭唱1番の4段目の言葉「あなたを嘲(あざけ)る者たちの嘲りが、私の上に降りかかったからです。」に表されています。主をあざけるものたちのあざけりがダビデの上に降りかかって来て、ダビデもあざけられたことを言っているのです。人間とは、人からあざけられると、心が食い尽くされていくような気持になることを歌っています。
 そして家畜商人たちと両替商人たちが追い出された様子に驚いたのは、神殿を管理していたユダヤ人たちでした。神殿の管理をするユダヤ人たちは、過越しの祭りに参加するためにユダヤ国内からはもちろんのこと、世界中から帰ってくるユダヤ人からも神殿税を徴収しなければなりませんでした。この神殿税は出エジプト記30章13節に規定されており、一人当たり聖所のシェケルで半シェケル納めることが定められていました。ですから聖所のシェケルで納税するためには、両替商が必要でした。また律法には様々ないけにえのささげものが規定されているので、病気や穢(けが)れの清め、罪のきよめ、全焼、交わり等のささげ物としての動物たちを売る家畜商人たちが必要でした。これ等は全て父なる神様がお決めになったことです。神殿の外で家畜商と両替商が店を構えていたのならば、何も問題は無かったのですが、神殿の中の異邦人の庭に家畜商人と両替商人たちを招き入れたものですから問題が発生していたのです。イエス様の目から見たら、御自分の父の家である神殿が、まるで市場のように見えたのです。ですからイエス様は家畜商人たちや両替商人たちに当たるのではなく、彼らを招き入れている神殿管理のユダヤ人たちに当たるべきでした。でもそうされなかったのには訳が有ります。イエス様は、管理者のユダヤ人たちがこの騒ぎに驚いて出て来るようにしむけられました。そして彼らに御自分の行為を問いたださせ、その答えとして「三年後にはこのエルサレム神殿の機能が終了する」ことを通告するために、このような宮清めをされたのです。
 このイエス様が家畜商人たちや両替商人たちを追い出す様子を見ていたユダヤ人たちは、人も家畜も抵抗せずに逃げ出していく様子に異様な雰囲気を感じ、昔の預言者が現れたのではないかという印象を持ちました。それで彼らはこのようにこのような質問をしました。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」(ヨハネ2:18)「しるし」とは奇跡のことです。そこでイエス様は言われました。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(ヨハネ2:19)このイエス様の言葉にびっくりしてユダヤ人たちが言いました。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」このユダヤ人の言葉から、ユダヤ人がいかにイエス様の言葉にビビったかが分かります。エルサレム神殿はユダヤ人の心のよりどころだったのです。その神殿が壊されることは、自分たちの心のよりどころを失うことでした。ユダヤ人が今でも嘆きの壁に行って祈りを捧げている姿を見ると、いかにユダヤ人がエルサレム神殿に信仰的な愛着を感じていたかが分かります。ですから、イエス様の言葉「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」はユダヤ人の心に深く深く突き刺さりました。そして三年後、イエス様が十字架に付けられた時、ユダヤ人たちは異口同音に、十字架上のイエス様に向かってあざけったのです。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」(マルコの福音書15章29~30節)

 しかし21節を見ますとユダヤ人の理解は間違っていたことが分かります。イエス様が「この神殿を壊してみなさい。」と言われた時、それはエルサレム神殿の事ではなくて、御自分の体の事だったのです。つまりイエス様は、公生涯の最初の年の過越の祭りを利用して、御自分が三年後にユダヤ人によって十字架に掛けられ、即ち、ユダヤ人によって壊され、死んで葬られるけれど、三日目によみがえることを、預言しておられたのです。
 そしてイエス様は、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」という言葉によって、御自分こそが本当の生ける神殿であると言われました。それで、聖書の中でイエス様が神殿として機能される言葉を捜してみました。大きく分けて7つあります。

(1)イエス様が父なる神様です。
ヨハネ10:30「わたしと父とは一つです。」
ヨハネ 14:9 「イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」
(2)イエス様の御名によって祈る時、その祈りは父なる神様に届きます。
ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたが私の名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」
(3)イエス様は父なる神様に到達する唯一の道です。
ヨハネ 14:6 「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』
(4)イエス様に罪の赦しを願う時、その罪は赦されます。
ヨハネ 8:36 「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」
(5)イエス様は永遠の命を下さいます。
ヨハネ 11:25 「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
(6)イエス様は聖霊を下さいます。
ヨハネ 14:16 「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
(7)イエス様の御名によって求めるならば与えられます。
ヨハネ 16:24 「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」

 これらの言葉はイエス様が与えてくださる、私たちへの約束の言葉です。
ですから私たちはまずイエス様を信じましょう。そうしてイエス様のお名前を通して祈るのです。そうすればどのような祈りでも父なる神様に届き、その祈りはかなえていただけます。ですからイエス様は、父なる神様の手で用意されたまことの神殿であるということができます。この様に、私たちがイエス様の御名によって祈る時、そこに私たちの祈りに耳を傾けてくださる生ける神殿が存在するようになりました。もう父なる神様に祈りを捧げる時、エルサレムに行って祈る必要はありません。世界中でイエス様の名前を通して捧げられる祈りは、父なる神様に届くようになったのです。

 このように、イエス様が公生涯の最初の過越の祭りで、神殿管理のユダヤ人たちに向かって「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」と言われた時、それは「私があなたがたによって十字架に掛けられ、三日後によみがえった時、もうこのエルサレム神殿の役目は終了し、私が生ける神殿となります。」、と宣言されたのと同じなのです。つまりこれからはイエス・キリストのお名前を通して父なる神様に祈りを捧げるキリスト教の時代になると宣言されました。 ですから世界中どこででもイエス様のお名前を通して祈りが捧げられる場所には、目には見えないけれど、イエス・キリストという生ける神殿が建っているのです。ですから私たちはまずイエス様を信じましょう。そしてイエス様のお名前を通して祈るのです。その時、私たちはイエス・キリストという生ける神殿で祈っており、私たちの祈りは確実に父なる神様に届いているのです。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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