説教全文

2021年2月28日(日) 四旬節第二主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「私と福音のために命を失う」

マルコの福音書8章27-38節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 四旬節も第3週目となりました。「四旬節」は悔い改めの期間であり、信仰者にとってはその信仰を新たにし、神様との正しい関係を見直す期間です。四旬節の始まりの日である「灰の水曜日」(今年は2月17日)の夕礼拝では、牧師が出席者の額に、昨年の「棕櫚(しゅろ)の主日」礼拝で使用した棕櫚の葉を焼いて作った墨で十字架を描きながら「人よ。あなたは塵から造られたから、塵に返ることを忘れずにいなさい。」と告げました。私も含め出席者は全員、十字架を額に付けて、灰の水曜日の礼拝を行いました。今週もまた、私たちは塵から造られたことを覚え、毎晩悔い改めて、一日を終えさせていただきましょう。
 本日は御言葉を通して、この四旬節の期間に、どのような毎日が私たちに求められているのかが教えられておりますので、共に聞いて参りましょう

 さてイエス様は、弟子たちをピリポ・カエザリアの村々に連れて行かれる途中、ヘロデ大王が建てたローマの初代皇帝アウグストスの像が祭られている神殿に立ち寄り、その神殿の前で弟子たちに次のように問われました。本日の聖書箇所の27節です。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」すると弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」この民衆の言葉からわかることは、人々はイエス様を預言者の一人、それもとても優れた預言者の一人と見ていたことが分かります。でも洗礼者ヨハネも、偉大な預言者エリヤも、昔の預言者たちも、皆人間です。ですから人々は、イエス様も人間であると信じていたことが分かります。
 この様にイエス様が人々の評価を問われたので、弟子たちは、今度は自分たちの評価を問われるに違いないと身構えたことでしょう。というのは、この時既にイエス様の弟子になってから約2年間が過ぎていたからです。確かに弟子たちは、この2年の間、イエス様と共に過ごし、イエス様の説教を聞き、イエス様の奇跡の業を見、イエス様から福音伝道等の訓練を受け、段々とイエス様に対する認識が深まって来ていたからです。
 特に、イエス様の弟子であるアンデレとヨハネは、最初は洗礼者ヨハネの弟子でした。二人は洗礼者ヨハネの仕事の手伝いをしていました。ですから二人は、イエス様がヨハネから洗礼を受けられる様子を一部始終見ていました。イエス様が洗礼を受けられてヨルダン川から上がると、天が開け、聖霊が鳩の姿を取ってイエス様の上に留まられたのを見ました。そして天から響いた父なる神様の声も聞きました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)さらに洗礼者ヨハネがこの様に証ししている声も聞きました。ヨハネの福音書1章33節と34節です。「私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降(くだ)って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」
 その翌日ヨハネとアンデレが洗礼者ヨハネと共に立っていると、イエス様が歩いて行かれるのが見えました。すると洗礼者ヨハネが言いました。「見よ、神の子羊」(ヨハネ1:36)弟子の二人はその洗礼者の声を聞いて、師と仰ぐ洗礼者ヨハネの弟子を辞して、イエス様について行きました。そしてイエス様の泊まっておられる所に一晩泊まって、イエス様から直接いろいろとお話を聞いたのです。(ヨハネ1:39)二人は、イエス様がどなたなのか、自分の目と耳で確認したのです。それで二人は間違いなく、イエス様が洗礼者ヨハネの示す通り、神の子、救い主、メシア即ちキリストであると心から確信することができました。「メシア」はへブル語で、「キリスト」はギリシャ語で、両方とも、「油注がれた者」という意味です。
 人と言うものは、自分の探し求めていたものが見つかると、喜びに溢れて、もういてもたってもいられなくなるものです。二人はこの喜びを仲間と分かち合いたいと走り出しました。アンデレは早速自分の兄シモンを探し出し、イエス様の所に連れて来ました。ヨハネも当然自分の兄ヤコブを捜してイエス様の所に連れて来たことでしょう。でもその話は書いてありません。ヨハネは自分が書いた福音書の中に、自分の名前さえ記していません。ヨハネは謙遜な人だったのですね。そしてこの後、二人はイエス様がメシアであることを仲間のピリポやナタナエルにも伝えたのです。
 それから2年が経ち、イエス様がメシアであるという思いは更に確かなものとなりました。イエス様が「人々はわたしをだれだと言っていますか。」(マルコ1:27)と人々の評価を問われた後に、案の定、イエス様は弟子たちに御自分に対する信仰告白を求められました。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」そこでペテロが弟子たちを代表して答えました。「あなたはキリストです。」
 イエス様は神様ですから、私たち人間の心の内を御存知です。ですから私たち人間に信仰告白を求める必要はないのですが、それでもなお信仰告白を求められるのは、私たち自身のためです。「心変わりする」というように、私たち人間の心は時と場合によって変化しやすいものです。状況が悪くなると、心変わりして、状況に合わせたことを言うようになりやすいのです。しかし、一度口にした信仰告白は、変更できません。そうでないと嘘つきとなるからです。ですから、そうならないように信仰告白するのです。一度口にした信仰告白が今度は私たちの信仰を支えるからです。

 ペテロが弟子たちを代表して答えた信仰告白は、形式上イエス様に受け入れられました。イエス様は誰が裏切り、誰が御自分を否認するのかを御存知でした。けれども人間の弱さを御存じのイエス様は、これ以上信仰告白について問われず、ただ御自分がキリストであることを誰にも話さないようにと命じられました。人々が勘違いして御自分を政治的に利用しないように用心されたのです。それはイエス様にはイエス様の御計画があったからなのです。ですからその御計画を弟子たちに明かされました。マルコの福音書の8章31節です。「それからイエスは、人の子が多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
 しかし、この言葉を聞いたペテロを始め弟子たちはうろたえました。どうしてイエス様がイスラエルの政治と宗教の指導者たちである長老たちや祭司長たちや律法学者たちに殺されなければならないのか、まったく合点がいかなかったからです。ペテロを始め、ほとんどの弟子たちが、イエス様は間もなくイスラエルの王様になるに違いないと期待していたからです。それでペテロはイエス様を脇にお連れして、その様な弱気になってはいけませんといさめ始めました。ペテロにとって、イエス様が死ぬことは、夢が夢で終わってしまうことを意味していました。
 このペテロの行動に他の弟子たち全員が同じ気持ちだったことは、イエス様がペテロを叱る前に、弟子たち全員を御覧になられたことから伺えます。イエス様は弟子たちの代表であるペテロを叱って、言われました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」「神のこと」とは、神の子であるイエス様が十字架に掛かり、全ての人の罪の代価を支払うという、神様が決められた遠大な御計画です。「人のこと」とは、イエス様というイスラエルの王様を失うことです。ペテロを始め弟子たちは、イエス様が何のために人の子としてこの世に来られたのかを全く理解していませんでした。「メシア」の霊的な意味を完全に理解していなかったのです。洗礼者ヨハネがイエス様を指して呼んだ「見よ、神の子羊」の意味を理解していなかったのです。「神の子羊」とは、イエス様の任務の事で、全人類の罪のいけにえとして身代わりの死を遂げることだったのです。

 御自分の弟子たちですら、御自分のことを理解していませんから、ましてや群衆に至ってはなお更です。それでイエス様は、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて言われました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(34節)「自分を捨てる」とは、この世の栄華に執着する自分自身に愛想をつかすことです。そして「自分の十字架を負う」とは自分の罪を認め、自分自身を十字架に付けることです。つまり悔い改めて、イエス様に罪の赦(ゆる)しを願うことです。そうすればイエス様に従うことができます。イエス様は宣教の第一声で言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)ですからイエス様に従う人々は、悔い改めて、イエス様に罪を赦していただいた人々である、ということができます。この「悔い改める」ということがいかに大切な事であるのかを、弟子たちに教えるために、イエス様はその理由を四つ教えられました。
 第一番目の理由は、35節です。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」ここで言う「いのち」とは、この世の命、この世の生活です。金儲けを愛し、快楽を求め、安逸な生活に浸ることだけを求める生き方です。その末は年取って死ぬだけで、死んだら地獄に投げ込まれ、永遠に地獄の業火に焼き続けられます。しかし、イエス・キリストを信じ、福音を信じて、悔い改め、罪の赦しを願う生き方は、この世に生きていながら、同時に天の御国に入っている生活を経験する生き方です。その人は自分が経験している平安を他の人々にも分かちたいと思うようになるので、その人の生き方は、イエス様を愛し、御言葉を広め、多くの人々をイエス様に導くことに生きがいを見いだす生き方となるのです。この生き方をする人は、まことの命、永遠の命を与えられている人と言えましょう。その人は神様から守られ、神様の祝福の内に豊かな人生を送る人となるのです。
 第二番目の理由は36節です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」たとえ、この世でわき目もふらず一生懸命働いて、アメリカのGAFA、つまり巨大企業であるグーグル、アップル、フェイス・ブック、アマゾンの様に、世界中の富と影響力を手に入れたとしても、当然のことながら、その喜びはこの世で生きている限りのものです。生きている間にイエス・キリストを信じないならば、その人は死んだらどうなるのでしょうか。神様を信じず、悔い改めることもせずにこの世を去る人は、世界一の富を得たことに満足を覚え、喜びを持ってこの世に別れを告げることができるのでしょうか。現実は全く逆です。手に入れた世界一の富を手放さなければならない事態に直面して、気が狂ったようになって死んで行くのではないでしょうか。人間はこの世の富をあの世に持って行くことができないのです。地獄の沙汰も金次第とはこの世だけに通用する話です。
 第三番目の理由は37節です。「自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。」命とは一度失っても、買い戻すことができる物なのでしょうか。この世の命は、いったん失ったら買い戻すことができません。命より高価なものはこの世には無いからです。けれども神様がよみがえらせてくださるなら、話は別です。神様は人を生かすことも殺すこともお出来になるからです。古今東西死んでよみがえった人は、イエス様(マルコ16:6)の他に、イエス様によみがえらせていただいたベタニアのラザロ(ヨハネ11:44)と会堂司の娘(ルカ8:55)、預言者エリヤからよみがえらせていただいたシドンのツァレファテの母親の息子(第一列王17:22)、預言者エリシャの骨に触れて生き返った男の人(第二列王13:21)、パウロが抱きかかえると生き返ったユテコという名の青年(使徒20:10)などの数例が聖書に載っています。その他には、エゼキエル書37章10節に書かれている、非常に多くの干からびた骨に肉が付き、大集団としてよみがえった話もあります。
 第四番目の理由は、38節です。イエス様はこれから後の事について述べられました。「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」「姦淫と罪の時代」とは、モーセの律法に反していると知りながら悪いことを行っている時代という意味です。悔い改めない人は、イエス様とイエス様の言葉を受け入れません。そのような人々を、イエス様は裁き主として来られる時、受け入れてくださるでしょうか。受け入れていただけないことは確かです。その時自分はもう死んでいるから関係ないと思ってはなりません。私たちはみなよみがえさせられるのです。そして生前、私たちがイエス様とイエス様の言葉に対してとった態度に従って、私たちも裁かれるのです。

 ですから、私たちは、イエス様と福音のために命を失いましょう。すなわち、イエス様の言葉を恥じるのではなく、イエス様を信じ、イエス様の言葉である聖書の御言葉に親しみ、日々悔い改め、日々罪の赦しをイエス様にお願いするのです。そうすれば私たちは、罪赦され、この世に在って日々天の御国に入っており、事故やケガや疫病から守られる毎日となります。これがイエス様と福音のために命を失う生活です。この世の命は時が来れば過ぎ去ります。私たちの年齢は最長120年です。そこまでいかなくとも、いつかはこの世を去らなければなりません。この世は神様が私たちに与えられている試験会場です。生まれてから死ぬまでの決められた時間内に、イエス様を信じるか否かが問われています。この世が面白おかしく楽しい場所、興味尽きない場所、また苦しく辛い場所として造られているのは、私たちを試していることを表しています。そのことに気付き、イエス様と福音のためにこの世の命を失うのです。そして永遠の命を与えていただき、天の御国に迎え入れていただきましょう。そして、既にイエス様を信じている人は、永遠の命の与え主であるイエス・キリストをまだイエス様とお会いしていない人々にお伝えして行きましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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