説教全文

2021年2月21日(日) 四旬節第一主日

書箇所 説教全文

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「悔い改めて福音を信じなさい」

マルコの福音書1章9-15節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 さて、政府は2月19日に、現在開催中の国会で「少年法改正案」の成立を目指すことを閣議決定しました。「来年4月から施行される改正民法の成人年齢の引き下げにより、18歳と19歳は、引き続き保護の対象とする一方、『特定少年』と位置づけ、家庭裁判所から検察官に逆送致する事件の対象を拡大し、起訴された場合には実名報道を可能としています。」と報道されていました。18歳といえば、高校3年生です。まだまだ子供の気持ちを引きずっており、ほとんどの人が社会慣れしていません。深く考えずに感情の赴くままに犯してしまった、殺人、強盗、強制性交などの犯罪は、起訴されれば実名や顔写真の報道が可能になります。確かに大変重大な罪を犯す結果とは言え、更生した後に、その子の将来に心身ともに、暗い影を落とすことは容易に考えられます。このような若い人たちだけでなく、働き盛りの大人であっても、また歳を取った老人であっても、人間である以上、あんなことをしなければよかったという後悔の念に陥りがちです。ここ1ヶ月間の国会議員たちの言動を見ても、若いから過ちを犯すものでもなく、大人だから慎重にやれる、と言うものでもないことが良く分かります。
 なぜキリスト教では「悔い改めなさい」と言うのか、皆様ご存知でしょうか。それは、人間の最初の両親であるアダムとエバが罪を犯し、その罪が原罪となって、新しく生まれてくる全ての人の心に刻まれ、全ての人が原罪を持って生まれて来る罪人であるからなのです。天地創造以来、紀元2021年の今日に至るまで、全ての人の心には原罪が刻み込まれているのです。一般の罪は罪を犯した人だけの責任で、罪を犯した本人が自分が犯した罪の償いをしなければなりません。それなのに、どうして6000年前の人であるアダムとエバの罪を、現代の私たちまでが償わなければならないのでしょうか。理不尽なお話です。この様な理不尽なことを決めることがおできになるのは、人間を造られた神様だけです。使徒パウロがローマ人への手紙、11章32節でこのように述べている通りです。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」ですから全ての人間は悔い改めなければ、神様に憐れんでいただけず、罪を赦(ゆる)していただけないことが分かります。つまり神様は一方的に人間を罪ある状態で生まれさせ、悔い改めてさせて、その罪の赦しを御自分に願うようにさせられたのです。そしてなんと、神様は、御自分に罪の赦しを願う人には、憐れんで、その人の罪を二つ返事で赦すことにされたのです。しかし、逆もまた真なりで、強情を張って、何時までも罪の赦しを願ってこない人には、災害に遭わせ、疫病に罹らせ、病気で弱らせ、貧乏にさせ、不幸にさせ、助けを求めてご自分を求めるようになさいました。しかし多くの人が、この神様のお気持ちと御計画を知らず、神様を求めないまま亡くなっていきました。
 父なる神様は人間が強情なことを良く御存知であったので、天地創造の前から、人間を罪から救う、救い主イエス・キリストと、人間を神様に導く聖霊なる神を用意されて、それから人間を創造されました。そして人間が目で見ることのできるようにと与えてくださった「子なる神キリスト」を、悔い改めて信じる人の罪を赦すことにされました。それだけでなく、その人を天の御国に導くことにされたのです。ですから旧約聖書を同じく信じるイスラム教徒やユダヤ教徒から見ると、キリスト教はイエスという人間を拝む偶像礼拝宗教に見えています。確かにイエス・キリストは真の人間ですが、同時に真の神様でもあるのです。全知全能の神様であるからできることであって、人間の理解を超えているのは当然のことです。創世記1章26節には、神様が人間を造られる時の基本設計図が記されています。このようにかいてあります。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』」この聖書の言葉から、人間は神様のコピーであることが分かります。
 余談になりますが、私の長男が生後数カ月になった頃のことですが、顔が私にとても似てきたので、教会の人や友達から、「この子は學のコピーだね。」と、良く言われたものです。遺伝子を引き継ぐ子供はその親に似るように、人間は人間を造られた神様の姿に似せて造られているのです。
 話を元に戻しまして、ですから、クリスチャンが人間となられた神様イエス・キリストを拝んでも、偶像礼拝でもなんでもなく、父なる神様が望んでおられる真に正しい礼拝を行っているのです。神の子であるイエス・キリストが人間の姿をして来られたのは、人類全ての人の罪の身代わりとして、十字架に掛かり、人間として死ぬためでした。イエス・キリストが十字架に掛かって死んでくださったので、私達人間一人一人の罪の身代金は全て支払われ、私達の罪は実質無いのです。それなのに全ての人が肉体の死を免れないのは、神様が人間の寿命を最長120年と定められているからなのです。ですから問題は死後どうなるのかなのです。死後に行く先は二つに分かれます。一つはイエス・キリストが迎えに来られて、天におられる父なる神様の許に連れて行ってくださる道です。もう一つは誰の迎えも無く、寂しく冷酷に地獄に落とされる道です。このようにイエス・キリストは人間と父なる神様の架け橋であって、このイエス・キリストを信じているなら、生きている時は、神様に守られ、導かれ、祝福され、この世を去る時にはイエス様の迎えを受け、天の御国に連れて行っていただけるのです。キリスト教は、聖書を通して、全ての事が理路整然と解き明かされている宗教なのです。

 さて、前置きが長くなりました。本日の聖書箇所に入りたいと思います。マルコの福音書1章9節を見ますと、イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために、ガリラヤのナザレから出て来られ、ヨルダン川で洗礼を受けられました。そしてイエス様が水から上がられると、三つの奇跡が起こりました。
 第一番目の奇跡は、10節にあるように、「天が裂け」たことです。原文のギリシャ語では「天が引き裂かれている」と受動態の現在分詞で書かれています。天が自動扉の様に開いたのではなく、父なる神様御自身か、あるいは神様の指示によって、天使達が天をビリビリと引き裂いているような感じです。天が裂かれるということは、父なる神様からの援助が絶えずイエス様に注がれることを表し、またイエス様の祈りが父なる神様に届くという、父なる神様と御子イエス様との協力による人間の救いというミッションが開始されることを表しています。
 第二番目の奇跡は、その天の裂け目から、聖霊が鳩のような姿をしてイエス様の上に降って来たことです。聖霊は三位一体の神様の第三位のお方です。このお方が鳩のような姿をして、天の引き裂かれたところから、イエス様の上に下って来られた姿を見た洗礼者ヨハネは、ヨハネの福音書1章33節と34節でこのように証言しています。「私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降(くだ)って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」イエス様は聖霊によって洗礼を授ける神の子である、ということが分かります。
 そしてイエス様が聖霊を受けられたことを、マルチン・ルター博士は次のように書いています。「ここで、イエスはキリスト、すなわち油注がれた者であることを正しく開始し、このようにして、私たちの預言者、大祭司、王として、メシアの全役職に就くことになったのです。」イスラエルの国には、油注がれて就任する役職が三つありました。第一に預言者、第二に大祭司、第三に王です。イエス様は聖霊の油注ぎを受けて、預言者、大祭司、王として、救い主の全役職に就任されたことが分かります。ですから、地上生活を送られていた時のイエス様は、預言者としてシナゴーグや山や海辺で、民衆に神の国について教えられ、大祭司として罪を悔い改める者の罪を赦され、王様として人々を導いて行かれました。

 第三番目の奇跡は、天の引き裂かれている所から、父なる神様の祝福の声が聞こえてきたことです。マルコの福音書1章11節です。「すると天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」父なる神様は御子イエス様が、聖霊の油注ぎを受けて、救い主となられ、十字架への道を歩み始められたことをとても喜ばれました。ですから洗礼者ヨハネはヨハネの福音書1章29節でこのように言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」イエス様は神の子羊として、全人類の罪を取り除くためのいけにえとして現れてくださいました。
 イエス様は、大祭司として、十字架に掛かり、ご自分の血をもって、全人類の罪の贖いをされました。「ヘブル人への手紙」の著者もその9章26b節でこのように書いています。「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」

 再び本日の聖書箇所に戻りますと、イエス様は洗礼を受けられた直後、直ちに聖霊によって荒野に追いやられ、40日間荒野に居て、サタンの試みを受けられました。ここで注目すべき言葉は、12節の「御霊はイエスを荒野に追いやられた。」と13節の「サタンの試みを受けられた。」です。神様が、神様を追いやるなんておかしな話ですし、また被造物であるサタンが、創造者であるイエス様を試みるなんてさらにおかしな話です。
 イエス様は神様で、サタンはイエス様によって創造された被造物の蛇です。創世記3章1節にこのように書いてあります。「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」サタンは神様のような力を持っており、被造物でありながら神様のように永遠に生きており、神様の邪魔をしているように見えますが、邪魔することによって、逆に人間を神様に近づける役割をしているのです。先程お話ししたように、私たち人間は神様の似姿に作られていますから、神様の持っておられる性質も受け継ぎ、自己中心に作られています。ですから、自分からは神様を求めようと思わず、自分中心に生きていきたいのです。しかし、人間が自分から進んで御自分を愛し、御自分に助けを求めて欲しいと願っている神様は、人間から神様に助けを求めるようにさせるために、サタンにエバを誘惑させたと言えるでしょう。ですから、もしサタンがエバを誘惑しなかったならば、エバは神様の言いつけを守って禁断の木の実を食べず、人間に原罪が植え付けられることはありませんでした。また、もしサタンがイスカリオテのユダに取りつかなかったならば、イエス様が十字架に掛かられる事は実現しなかったのです。
 そういうわけで、御霊がイエス様を荒野に追いやられたのは、イエス様がサタンを怖くてぐずぐずしておられたからではなく、御霊がイエス様を荒野に運んでいく様子があたかも追いやっているように見えたのかもしれません。
 イエス様はサタンの誘惑を受けられたのは、ご自分を信じる信仰者たちに、サタンの手の内を教え、信仰者たちがご自分から切り離されてサタンの餌食にならないように、予め信仰者たちに模範となる対処の仕方を教えるためでした。その対処の方法はマタイの福音書4章とルカの福音書4章に詳しく書いてあります。
 「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
 「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
 「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
 このように、基本的な対処方法は、聖書に書いてある神様の言葉を用いることです。ですからクリスチャンは聖書の言葉に精通することが求められています。

 マルコの福音書1章14節に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えていた。」と書いてあります。洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパス王の不倫を攻め立てたので、洗礼者ヨハネは捕らえられ、死海近くのマケルスという町にあるヘロデ・アンティパス王の城に幽閉されてしまいました。この洗礼者ヨハネの投獄により、ヨルダン川での洗礼の時期は終了したとイエス様は判断され、イエス様もヨルダン川での洗礼を止めて、ガリラヤ伝道を始められました。イエス様が洗礼を受けられてから約1年半後の事でした。
 イエス様のガリラヤ伝道の第一声は「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)です。「時が満ち」とはアダムとエバが禁断の木の実を食べて罪を犯して、神様がエバとサタンを裁かれた時から数えて4000年のことです。イエス様は創世記3章15節の御言葉、「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」が成就したことを宣言されました。ここでいう女の子孫がイエス・キリストなのです。そして神の国とは、神様であるイエス様がおられる所、そこが神の国です。そして、その神の国に入る方法が、「悔い改めて福音を信じる」ことです。「悔い改める」とは、自分が罪人であることを認めることです。」また、「福音」とは「イエス・キリストを信じれば罪赦されるという喜ばしい知らせ」です。

 このように、父なる神様は、御子イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられた時、聖霊の油注ぎを行われ、救い主に就任させました。イエス様は預言者として人々を教え導き、大祭司として十字架に掛かり、ご自分の血を携えて天の聖所に入り、一度で全人類の罪の贖いを成し遂げられました。後はご自分を信じる人たちの罪を赦し、ご自分を信じる人々の王として、信じる人々と共に天の御国で永遠に過ごすことにされたのです。ですから、どなたも悔い改めて、イエス・キリストを信じ、永遠の命を頂き、天の御国に導かれましょう。また既にイエス・キリストを信じて、この世にあっても天の御国の平安に満ちた生活を経験しておられるクリスチャンの方々は、まだイエス様を知らない方々にイエス様のことをお知らせして、共に天の御国の平安な生活を味わっていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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