説教全文

2021年1月17日(日) 顕現後第二主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「私に従ってきなさい」

ヨハネの福音書1章43-51節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の説教題は本日の聖書箇所の最初の節43節から取らせていただきました。初対面のイエス様から「わたしに従ってきなさい。」と言われても、「はい」と言って直ちに従える人は多くありません。否ほとんどいないでしょう。そこで、本日はイエス様に従うとはどの様なことを意味するのかを共に考えていきたいと思います。

 イエス様に従うと言っても、その従うことに至るまでには、知らなければならない大切なことがあります。当然なことですが、それはイエス様とはどのようなお方であるかを知ることです。その知る方法が、今私たちが開いているヨハネの福音書第1章1節と14節に書いてあります。第1節には「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」、そして第14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と書いてあります。この第1節と第14節から、イエス様とは「人間となられた神のことばである」ということが分かります。「神のことば」とは、神様が預言者を通して語られた言葉で、具体的にはこの聖書全体を言います。ですから、この聖書がイエス様なのです。この聖書の1頁目から最後の頁まで通読すれば、イエス様がどのような神様なのかが分かるという訳です。隅から隅まできちんと読むといっても、薄い教科書を読むようにはいきません。何しろ旧約聖書は全部で929章あって1635頁です。新約聖書は261章あって、519頁です。頁数は合計2154頁で、章数は合計1190章です。半端ない頁数です。でも1日3章読むならば、1年と1か月で読み終わります。
 まずは分かっても分からなくとも、通読することです。通読する利点はいろいろあります。まず、どこに何が書いてあるか、聖書全体が分かってきます。次に大事なことは、聖書は聖書が解釈するという原理です。聖書は神の言葉ですから、人間の知恵や知識を用いて解釈すると、とんだ間違いを犯します。ですから繰り返して読んでいくうちに、この言葉はあそこにも書いてあったと思い出し、同じ言葉が異なる場面で使われていることによって、言葉の意味が解釈されるのです。例えば先ほどのヨハネ1章14節の「この方は恵みとまことに満ちておられた。」の「恵み」とはどういう意味なのかです。ローマ人への手紙5章21節にこのように書いてあります。「それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」この御言葉から、恵みとは、人を義という罪の無い状態に導くもの、即ち「罪の赦(ゆる)し」ということなります。「罪の赦し」は、イエス・キリストを信じることによって無償で与えられるので、「恵み」と呼ばれているのです。

 さて、本日の聖書箇所に至るまでに、既にイエス様は4人の弟子を見つけています。37節には洗礼者ヨハネの弟子であったヨハネとアンデレがイエス様について行った、と書いてあります。この二人の弟子が、洗礼者ヨハネから離れてイエス様について行ったのは、洗礼者ヨハネが、イエス様の歩いて行かれるのを見て、ヨハネ1章29節で「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」もう一回、36節で「見よ、神の子羊。」と2回言ったからでした。この「神の子羊」と言う2回の同じ言葉で、洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに、暗にイエス様の弟子になるように勧めたのです。というのは、「神の子羊」と言う言葉はイザヤ書53章7節に書いてあるこの世の罪を背負わされる「羊」を弟子たちに思い出させたからです。そこにはこのように書いてありました。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
 ヨハネとアンデレは洗礼者ヨハネに押し出されて、イエス様について行き、その晩はイエス様の宿舎に泊まり、一晩中イエス様からお話を聞いたことでしょう。そしてイエス様がどなたなのか分かったのです。即ち、イエス様は「救い主」であると確信したのです。このことはアンデレとヨハネが旧約聖書を良く知っていたことを表します。それでヨハネとアンデレはそれぞれ自分の兄弟を捜し、イエス様の所に連れて来ました。アンデレは兄弟シモンを捜してイエス様の所に連れて来てきました。シモンは、イエス様からペテロと名付けられています。聖書に書いてはありませんが、ヨハネは兄のヤコブを捜してイエス様の所に連れて来たと思われます。

 ヨハネの福音書1章43節にあるように、その翌日イエス様はガリラヤに行こうとされました。ヨハネの福音書2章1~2節を見ますと、3日後にガリラヤのカナで結婚式が予定されており、その結婚式に招かれていたことが分かります。イエス様はピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と命じられています。なぜイエス様は他の弟子たちには命じていないのに、ピリポだけに「わたしに従って来なさい。」と命じたのでしょうか。その理由を示す鍵となる言葉が44節に書いてあります。「彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。」この「同じ町の出身であった。」という言葉は、ピリポがアンデレやペテロやヨハネと同じように旧約聖書を良く学び、旧約聖書に詳しい人であることを意味します。彼らは多分定期的に集まって、旧約聖書を学んでいたのでしょう。ですから何気ない「同じ町の出身であった。」というサラッとした一言によって福音記者のヨハネは暗に、イエス様に関する情報は、その日の内に仲間のピリポに伝わった、と暗に表現しているのです。ピリポは多分、前の日にヨハネやアンデレやペテロに囲まれ、この三人からイエス様に関する情報を熱く聞かされて、イエス様が「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」であると悟ったのです。多分ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ペテロの中で、ピリポが一番聖書に精通し、それだけでなく、2000年前に書かれたモーセ五書を、神話とはみなさず、神の言葉として現代に生かすことのできる、生き生きとした信仰を持っていたからだと思われます。
 そのピリポの性格を福音記者のヨハネは46節でこのように表現しています。「ナタナエルは彼に言った。『ナザレから何か良いものが出るだろうか。』ピリポは言った。『来て、見なさい。』」このナタナエルのにべもない言葉に、ピリポはひるまず、「来て、見なさい。」と、直接イエス様本人に会い、自分の目で確かめることを熱心に勧めています。イエス様は、ピリポのこの人を見る力を買われ、上手に相手を誘導して伝道する才能を認められたのです。
 そしてピリポはナタナエルをイエス様の所に連れてきました。イエス様はナタナエルを見て言われました47節です。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」イエス様は、ナタナエルの心の内を見られました。その心にはイスラエルの救われる事を、誠実に願う姿が見えました。
 「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」と言うイエス様の言葉に、ナタナエルはイエス様が、自分を良く知っているという恐れを抱き、びっくりして聞きました。48節です。「どうして私をご存じなのですか。」そうしたらイエス様が答えたのです。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」このイエス様の言葉にナタナエルは、ドキッとしました。「自分が見られている」という驚きがナタナエルの心をあたふたとさせました。イエス様のいる場所から自分のいる場所まで見通せないはずなのに、自分が見られている、という事を知り、イエス様は神の子に違いない、イエス様は来るべきイスラエルの王様だと直感したのです。そしてこのように告白しました。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
 こうしてイエス様は二日間で6人の弟子を得ました。ヨハネ、アンデレ、ペテロ、ヤコブ、ピリポそしてナタナエルです。アンデレ、ペテロ、ピリポはベツサイダの町の人で、ナタナエルはカナの人でした。ヤコブとヨハネはゼベダイの息子たちで漁師でしたので、ガリラヤ湖周辺に住んでいたと思われます。ある注解者は、彼らもベツサイダの町の人であるとしています。この弟子たちはみな旧約聖書に通じており、他のイスラエル人のように、モーセ五書を暗記しており、イスラエルの救われることを熱心に祈り求めていた、心の熱い青年たちだったのでしょう。彼らはお互いに親しいので、定期的に集まって聖書を学んでいたと考えられます。この青年たちが洗礼者ヨハネの洗礼を受けるためにヨルダン川に赴いた時、イエス様も洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川に出てこられたのです。イエス様はこのガリラヤから来た6人の若者に偶然ヨルダン川で出会ったのではありません。全知全能のイエス様は、この信仰篤い6人の若者たちを弟子とすべく、若者たちに合わせてヨルダン川に赴いたのです。

 この信仰篤い若者たちに、イエス様は預言されました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」このイエス様の預言の言葉を聞いた時、若者たちはすぐさま創世記28章12節に記されているヤコブの夢のお話を思い浮かべたことでしょう。ヤコブは夢の中で、一つの梯子が地に立てられ、その端は天に届き、その梯子を神の御使いたちが上り下りしていたのです。このヤコブの夢はヤコブの生涯が神様によって祝福されていることを表しています。
 イエス様の場合は梯子が有りません。そしてイエス様の上の天は開きっぱなしになっています。そのイエス様と天の間を、神のみ使いたちが、人の子の上を上り下りしているのです。これは天上の父なる神様と、地上の御子イエス様とが、御使いたちを通して直接つながれており、父なる神様の力によって、イエス様が奇跡を行うことを表しています。この最初の奇跡が、三日後に開かれるガリラヤのカナ結婚式で行われるのです。そして弟子たちはその奇蹟を見るのです。その奇蹟とは只の水が最上等のワインに変わるという奇跡です。イエス様は、平均100ℓ入りの水がめ6個に、縁迄水を満たすように指示され、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言われました。宴会の世話役は新しく出て来たぶどう酒を味見して、この様に言いました。「あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」結婚式の披露宴の途中でぶどう酒が無くなって、新婚のカップルが恥を見ないようにと、イエス様は最上等のぶどう酒を約600ℓプレゼントし、新婚カップルを祝福されました。

 この様に、イエス様に従うとは、弟子たちが聖書に通じていたように、まず聖書に詳しくならなければなりません。その為に大切なことは聖書を繰り返し読むことです。聖書を繰り返して読むと、だんだん聖書に詳しくなり、聖書に書かれているイエス様とはどのようなお方なのか自ずと分かって来ます。分かってくれば、自ずと人に伝えたくなるのです。そして自ずとイエス様が私たちを用いてくださいます。繰り返して通読しましょう。目標としてまずは1年に一回通読することです。通読が重なって10回になると、大分わかってきて、さらに通読したくなります。どうか高みを目指してください。初めにも言いましたが、聖書は神様の言葉です。この神様の言葉である聖書をわかるということは、神様から大いなる祝福が来ることを意味しています。神様の祝福を楽しみにしつつ、聖書に親しみましょう。そのようなあなたを神様は豊かに祝福され、大いに用いてくださいます。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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