説教全文

2021年1月10日(日) 私たちの主の洗礼

聖書箇所 説教全文

説教全文

「洗礼を受けられるイエス」

マルコの福音書1章4-11節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 月日の経つのは早いもので、先週1月6日の顕現日をもって、クリスマス・シーズンが終わり、私どもの会堂に飾られていたクリスマス・ツリーを始め、クリスマス関連の飾り付けも片付けられました。そして本日はイエス様が受洗される場面です。「イエス様が受洗される」なんて聞くと、「イエス様も人間だったのか」とか、「イエス様はクリスチャンでなかったのか」とかと言う印象を持ってしまう方もおられるかと思います。しかし、イエス様は人間ですが神様でもあります。一言で言えば、イエス様は人間となられた神様です。神様なのだから、洗礼なんて必要ないのではないかと思われます。そこで本日は、なぜイエス様が人間と同じように洗礼を受けられたのか、その理由を探って行きたいと思います。その理由は3つあります。

 一つ目は皆様ご存知のように、「イエス様は人間でもある」からです。人間は全員アダムとエバの子孫ですから、罪を持っています。ですから人間は生まれたままの心の状態では、死んだ時、昔、流行った歌のように風や星になることはあり得ず、天国に入れないばかりか、地獄に落とされてしまい、永遠の劫火にさいなまれて、永遠に苦しんで過ごさなければなりません。地獄に比べればこの世は、コロナ・ウィルスで悩まされていても、全く過ごしやすい所です。それに対して地獄は、おぞましい阿鼻叫喚の苦しみと泣き叫びで満ち溢れている所と聖書は教えています。この様な地獄に落ちることの無いようにと、神様から遣わされたバプテスマのヨハネが荒野に現れ、「罪の赦(ゆる)しを与えて天国に導く悔い改めの洗礼」を宣べ伝えていたのです。
 ある人は、「洗礼者ヨハネの授ける洗礼は、聖霊が与えられないから、イエス様の洗礼よりも劣っているし、不完全だ。」と言います。これはとんでもない誤解です。ヨハネの洗礼は、イエス様が弟子たちに命じられた洗礼と同じく、完全無欠の洗礼です。
 その理由は第一に、洗礼者ヨハネは預言者イザヤによって預言された人、神様が遣わされた人であるということです。それはすなわち、神様が「主の通られる道を真っすぐにして、主の道を用意する」ために、ヨハネに、「罪の赦しに導く、悔い改めの洗礼を授けるように」、と命じられたからです。人間は、その心の中に住む罪のゆえに、心が真っすぐではありません。しかし悔い改めるならば、心は真っすぐになります。「悔い改めなさい。」は、心を真っすぐにするために、神様がヨハネに命じた言葉です。そして洗礼を受けるということは、その罪を水で洗い流して、罪が赦される事を表しています。
 ヨハネの洗礼が完全である第二の理由は、神様であるイエス様もヨハネの洗礼を受けられたことです。人間となられた神様であるイエス様は、9節に書いてありますように、「ガリラヤのナザレからやって来て、ヨハネから洗礼を受けられた。」のです。イエス様は全ての人の模範となるために洗礼を受けられました。もしヨハネの洗礼が不完全であったなら、即ち、ヨハネと言う人間が考え出した洗礼であったら、イエス様がヨハネの洗礼を受けられなかったことでしょう。イエス様は、全ての人が洗礼を受けるようにと、その模範となられたのです。神様であるイエス様でさえ洗礼を受けられたのだから、ましてや罪ある人間は全て洗礼を受け、罪を赦していだたかなければならないのです。悔い改めて洗礼を受けなければ、地獄に投げ込まれてしまうからです。
 ヨハネの洗礼が完全である第三の理由は、イエス様もヨハネから洗礼を受けられた後、弟子たちと共に、洗礼者ヨハネと同じように、罪の赦しを与える悔い改めの洗礼を人々に授けていたことです。このことはヨハネの福音書3章22節に書いてあります。

 余談になりますが、皆さんはなぜ罪がこの世に存在しているのかご存知でしょうか。伝統的に、悪魔がこの世に罪をもたらしたのだと教えられてきました。悪魔である蛇がエバをだまして、禁断の木の実を食べさせて、「食べてはならない。」と言われた神様の戒めを破らせたので、罪がこの世に入ったと教えています。しかし私はこの考え方に違和感を覚えています。
 第一に、神様によって造られた悪魔が神様に逆らって、神様が美しく造られたこの世をめちゃくちゃにすることができるのかどうかです。悪魔は神様に逆らえないと、私は考えます。被造物は創造者に逆らうことはできません。逆らった天使共は永遠の鎖につながれて、暗闇の下に閉じ込められると、ユダの手紙6節に書かれているからです。また人間は一時的に神様に逆らうことができますが、逆らったまま死ぬと、地獄行きとなります。しかし死の間際でもいいから、悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、イエス様は、自ら迎えに来られ、天国に導いてくださると、ヨハネの福音書14章3節で約束しておられます。
 第二に、申命記24章16節で「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」と、定められています。すなわち、親の罪は子に伝わらないと教えているのに、どうして遠い、遠い先祖のアダムとエバの罪で、現代の私達が死ななければならないのでしょうか。
 第三に、なぜ天地創造の前から、即ち人間が造られる前から、罪からの救い主イエス・キリストが存在するのか、です。アダムとエバが罪を犯す前に、既に救い主キリストがおられるのです。あたかも、この世が始まる前から人間が罪を犯すのを待っておられたかのようです。
 ですから、私は、全ての人に罪が存在するのは、罪が遺伝するように神様が仕組まれたのではないか、と考えているのです。それは、使徒パウロがローマ人への手紙11章32節でこのように教えているからです。「神は全ての人を不従順の内に閉じ込めましたが、それは全ての人を憐れむためだったのです。」パウロの言う不従順とは、神様に対する不従順で、罪を表しています。ですから全ての人に神様を求めさせ、罪の赦しを与えて、天国へ導くという神様の壮大な御計画のためだと考えます。皆さんは誰がこの世に罪をもたらしたとお考えでしょうか。

 さて、今日の主題である、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた二つ目の理由は、「イエス様が救い主に就任するため」です。マルコ1章10節には、「イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。」と書いてあります。この様にイエス様はヨハネから洗礼を受けられると、天から聖霊がご自分の上に降られ、即ち父なる神様からの聖霊の油注ぎを受けて、救い主に就任されたのです。鳩の姿をした聖霊は、「平和、友好、親切」を表し、そこには、不和も、敵対心も、怒りもありません。ですから聖霊がイエス様の上に下られたのは、イエス様が恵み深い御方であることを示しています。即ち、イエス様に罪の赦しを求めて来る人には全ての罪が赦されるということを表しています。どんな大きな罪でも心から赦しを願ってイエス様の所に来る人は、その人の全ての罪が赦されて、神様に受け入れていただけるのです。イエス様は私たちの心の内を見られますから、私たちが口で告白する前に、イエス様は「私もあなたに罪を認めない。」と宣言して赦して下さいます。そしてマルコ1章8節に書いてあるように、聖霊によって洗礼を授けてくださり、私たちを神様の恵み深さを証しする者として用いてくださいます。

 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた三つ目の理由は、「イエス様が天の大祭司となられるため」です。生後40日目にエルサレム神殿に奉献された赤ちゃんのイエス様は、既に30歳となられました。ルカの福音書3章23節にはこのように書いてあります。「イエスは、働きを始めたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」30歳とはユダヤ人の一部族であるレビ人が祭司として、あるいは奉仕者として神殿の公務に就く年齢です。イエス様はレビ族の出身ではなく、ユダ族の出身で、ダビデの子孫ですが、地上の神殿の祭司としてではなく、天の御国の神殿の大祭司となるために、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。
 イエス様は洗礼を受けられて、救い主として働かれた後、十字架に掛かり、死んで葬られ、三日目によみがえり、40日後に天に昇り、全能なる神の右の座に着かれました。ヘブル人への手紙9章11節と12節にはこのように書いてあります。「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界(この世)の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖(あがな)いを成し遂げられました。」ルターはこのことをこの様に言っています。「キリストはご自分の両手の釘跡と胸の刺し傷を父なる神様に見せ、『私はこの人のためにも十字架に掛かりました。』と執り成しをしておられる。」ですから、私たちが悔い改めて洗礼を受ける時、私たちの罪は全てイエス様の十字架の血によって、帳消しにされ、私たちは永遠の滅びから救われるのです。
 この様にイエス様は、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授けられることによって、ご自分の血を携えてただ一度だけ聖所に入る、即ち、全人類の罪の永遠の贖いを成し遂げる、大祭司に就任されました。この救い主であり大祭司であるイエス様は、アダムとエバの罪に縛られた、全人類の永遠の贖いを成し遂げられ、誰しもが、父なる神様の御もとに、行くことができるようにされたので、天の父なる神様はとても喜ばれて、天からこの様に言われました。「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。」ですから、この救い主であり、大祭司であるイエス様を信じて、悔い改めて洗礼を受ける者は誰でも、父なる神様の御もとに行くことができるのです。

 この様にイエス様は、ガリラヤのナザレの村から、ヨルダン川で洗礼を授けているヨハネの許に来られ、まず全ての人の手本となるために、身を低くしてヨハネから洗礼を受けられ、救い主、そして大祭司に就任されました。イエス様は救い主として、地上生活を送られ、数多くの人の罪を赦し、病を癒し、神の国のお話をされ、人々を悔い改めに導きました。そして大祭司として地上生活の最後に十字架に掛かり、ご自分の血を携えて、ただ一度だけ聖所に入り、全人類の罪の永遠の贖いを成し遂げられました。そして地上でご自分を信じて悔い改め、洗礼を受けられる人が起こされると、父なる神様にご自分の両手の釘跡と胸の刺し傷を見せて、「父よ、私はこの人のためにも十字架に掛かりました。ですからこの人にはもう罪が有りません。」と執り成しておられます。ですから、まだ悔い改めをされていない方は、大胆に罪を告白して、罪を赦していただき、天の御国に導いていただきましょう。また、既に悔い改めて天の御国に導かれた人は喜びをもって、罪を赦して下さる優しいイエス様を多くの人々にお知らせしましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

©2021 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.

聖書箇所 説教全文