説教全文

2020年11月22日(日) 聖霊降臨後最終主日

聖書箇所 説教全文

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「御国を受け継ぎなさい」

マタイの福音書25章31~46節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書25章31節から46節まで、説教題は「御国を受け継ぎなさい」でございます。本日の話題は「この世の最後の日の審判で、どのようにしたら天の御国を受け継ぐ者にしていただけるのか」です。反対に言うならば、「どのようにしたら地獄行きと宣告されないようにするか」です。
 皆様ご存知のように、教会暦は私たちの救い主イエス・キリストの誕生から昇天までを辿る半年と、聖霊降臨日からこの世の最後の日までを辿る半年からなっております。これは私たちが救い主キリストを毎年新たに経験して、信仰を深めるためであり、その信仰にしたがって、この世の人々にキリストを伝えて、一人でも多くの人に天の御国に凱旋する行列に加わっていただくためです。出来たら日本人全員に天の御国に凱旋していただきたいものですね。その為に力を合わせて、救いの戦いに参戦し、多くの人々に救い主イエス・キリストをお知らせしましょう。
 ちょっと余談になりますが、先週のニュースで、千葉県の九十九里浜の海岸に大量のハマグリが大量に波打ち際に、所狭しと並び、多くの人がバケツをいくつも持って拾い集めている様子が、テレビに映し出されていました。この光景を見て、私も拾いに行きたいと思った人は私だけではなかったと思います。しかしこの海岸には漁業権が設定されているので、ハマグリを持って帰ると密漁となり、20万円の罰金が科せられるかもしれないとのことでした。持って帰るととても高いものについてしまいますね。この波打ち際に大量の蛤が並んでいるという異常な光景を見て、これは大地震の前触れではないかという人が居ました。自然の生物は時として人間の感覚よりも鋭い物を持っているとも言われていますので、否定できません。近年の海水面の上昇や、異常気象による自然災害の多発を見ても、また全世界規模の新型コロナ・ウィルス感染症のパンデミックを見ても、人間の力では防ぎきれず、何か大きな力で揺り動かされているような感じが致します。そして何時の日か、本日のテーマである、イエス・キリストが再臨される最後の日が到来します。
 このキリストの再臨の時は何時でしょうか。イエス様はマタイの福音書24章14節でこのように言われています。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」このイエス様の言葉から、福音がすべての国へのあかしとして宣べ伝えられるまでは、キリストの再臨は来ないということが分かります。それは、全ての人が福音を聞いて、そして一人一人が受け入れるのか受け容れないのかを判断する機会が与えられて、誰にとっても不公平とならないためなのです。

 さて本日イエス様はマタイの福音書25章31節で再臨の場面を語られました。「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」そのイエス様の再臨される様子をもう少し詳しく書かれている箇所が有ります。同じくマタイの福音書24章27節から31節です。そこにはこのように書いてあります。「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」
 そして本日のマタイの福音書25章32節と33節に続きます。「そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」この全ての国の人々は、天地創造以来この世に生存した人々です。天地創造以来この地球上に存在した人々の総数を推計した人が居まして、その人によると、3000億人位のようです。キリストの再臨はまだ先の話だとすると、この数はもっと増えます。半端ない数ですね。その人たちを、人の子であるイエス様の前に右と左に分けるのは、御使いたちです。御使いたちはイエス様の指示に従って、この人は右、この人は左と分けていくので、間違いはありません。この時点で裁きが完了してしまいます。イエス様から見て右側には羊である人々が並び、左側には山羊である人々が並ばされます。ここで羊とは、イエス様が御自分になされたと認める信仰の業を行った者のことです。またヤギとは、信仰の業を行わなかった者のことで、その業が何であれ、イエス様が自分になされたと認めることができない者のことです。

 王であるイエス様はまず右側に並んだ羊の人々に言います。34節です。「さあ、私の父に祝福された人たち。世界の基が据えられた時から、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」このイエス様の言葉から、羊の人々は基本的に父なる神様に祝福されている人々であることが分かります。そしてこの人々のためにこの世の初めから御国が用意されているというのです。更にこの御国を受け継ぎなさいと、命じられています。神様は,私達が生まれる前から全ての人を見ておられ,恵みによって私達を造り上げてくださり、天の御国を受け継ぐようにしておられたということが分かります。
 私達が父なる神様の祝福を受ける者として選ばれた理由が35節と36節に書いてあります。「あなたがたは私が空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」天の裁判所の法廷だからと言って、イエス・キリストを信じたか信じなかったかだけで裁判が進むのではないことが分かります。誰の目にも明らかな証拠によって裁きが行われていることが分かります。イエス様言われたこれらの六つの行為は、どれも隣人愛から出た行為です。すなわち信仰だけが生み出すことのできる業が証拠として用いられます。
 イエス様を信じていない人の中でもこのような親切な行い、憐れみの行為をする人は居ることでしょう。その人はどうなるのでしょうか。使徒パウロはローマ人への手紙13章9節でこのように教えています。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人(となりびと)のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。」この隣人愛の模範としてイエス様はルカの福音書10章25節から37節の中で、強盗に襲われた人を助けたサマリヤ人が、強盗に襲われた人の隣人となったと教えられました。サマリヤ人の前に、神様に仕える祭司とレビ人がおりましたが、彼らは見て見ぬふりをして強盗に襲われた人の脇を通り過ぎて行きました。隣人となったのは彼らではなく、ユダヤ人から毛嫌いされていた異邦人であるサマリヤ人でした。
 しかし、裁判官のイエス様から選びの理由として「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」と述べられても、愛の行為をした人は、その行為があまりにも当然で、あまりにもつつましいものであったから覚えていないのです。それで王様に聞きました。「いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そうしたら、驚くべき答えが返ってきたのです。40節です。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」王様であるイエス様は、御自分を信じる人たちを兄弟と呼んでくださいます。そして兄弟の中で、最も小さい者たちの一人にしたことが、御自分にしたことだと明言されました。この「最も小さい者たち」と言う表現は、小さい者たちの行いは往々にして無視されがちであるので、小さい者たちが含まれれば、普通の人たちは当然のことながら含まれることになり、結局全ての兄弟たちが含まれることを意味しています。イエス様を信じる人に行われた親切な行為は、全てイエス様に対して行われているのです。
 イエス様に、「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」と言われると、恐れ入ると同時に、とても安心感が湧いてきます。イエス様の兄弟とは知らずに、その人が困っている時に助けてあげた人は、たとえ助けてあげたその当時にはイエス様を信じていなくとも、隣人への愛の故に行ったのであったならば、イエス様はその人を導いてくださるお方なので、その人はイエス様の救いに漏れていないことが分かります。

 さて次に王様は左にいる山羊の人達に判決を述べられます。41節です。「のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。」「呪われた者」とは34節で言われている「父に祝福された人たち」以外の人達を表しています。即ち救い主イエス・キリストを信じなかった人たちです。この人たちへの裁きは、王様であり神様であるイエス様から離され、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入ることです。この永遠の火は、最初から悪魔とその使いたちのために用意されていたものでした。人間がこの悪魔とその使いたちのために用意された火の中に置かれることは、その人間が神様に背を向けて悪魔の方に向き、悪魔と同類となったことを表しています。
 救い主イエス・キリストを信じないということは、永遠に燃え続ける日の中で、もだえ苦しまなければならないのです。火に燃やされても、煙となってその存在が消えてしまうわけではありません。霊と体の両方を苦しめる火に焼かれ、さいなまれ、永遠に苦しみ続けるのです。ですから、人間は死ねば無となるのではないことが分かります。確かに体は、この世の火で焼かれたり朽ちたりして灰となってしまいますが、あの世に於いてはいくら火で焼かれても、朽ちることが出来ないことが恐ろしいところです。
 その地獄行きが宣告された面々に対して裁判官である王様が判決理由を宣べられます。42節と43節です。「おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。」
 この判決理由に対して山羊である人々は猛反発します。44節です。「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」この言葉の意味は,「私達は,困っているような状態にあるあなたを見たことがありませんでした」と言っているのです。彼等は先ほど述べた良きサマリヤ人のたとえの中で出て来た祭司やレビ人のような人たちです。強盗に遭って半死の状態になっている人を見ていながら、道の反対を通って行った人たちです。即ち何事においても自分中心に見る人たちです。困っている人を助けてあげようと言う気持ちがそもそも無いのです。だから「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」と言い続けて、自分の行為は正しかったと主張しているのです。
 このあくまでも自分たちの潔白を主張する人たちに王様は言われました。45節です。「まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。」このイエス様の兄弟の中の最も小さい者たちとは、最もみじめで、最も貧しく、最も体の弱い人たちのことでしょう。例えていえば、ルカの福音書16章20節に出て来るラザロでしょう。ラザロはできものだらけの貧しい人で、金持ちの門前に寝ており、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた人でした。金持ちは自分の門前に寝ているラザロを知っていましたが、お腹を満たしてあげようともせず、放っておいたのです。ラザロは死んで、天使達によってアブラハムの懐に連れて行かれ、また金持ちも死んで葬られましたが、気が付いてみると地獄に居ました。もし金持ちに神様を大切に思う心があって、律法に書かれている「あなたの隣人を愛せよ」という神様の命令を守って、生前、門前にいたラザロに恵んであげていれば、地獄に行くことは無かったのです。でも金持ちはしなかった。即ちイエス様に対してしなかったのです。

 最後にイエス様は言われます。46節です。「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」新改訳聖書は第三版も2017も「正しい人」と言って、正月の「正」という字を当てています。しかし原文のギリシャ語聖書では「デカイオイ」と書いてあり、「義なる人たち」という言葉が充てられています。即ち、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされた人たちのことです。なぜならイエス・キリストを信じて義とされた人は、全ての罪が赦(ゆる)されていますから、感謝に溢れており、非常に謙遜な人たちであるからです。この様な腰の低い人たちだから、飢えている人や、渇いている人や、病気の人や、牢に入っている人や、弱っている人や、困っている人に、心揺すぶられて、いてもたってもいられずに手を差しだすのです。ですからイエス様の求めておられる行いとは、罪赦された感謝に溢れた心から自然と湧いて来る謙遜な行いです。イエス様は大きなことを求めておられるのではありません。困っている人に手を差し伸ばすことを求めておられるのです。あなたがたとえ寝たきりの状態であっても、また将来そうなっても、他の人のために祈ることはできるのです。

 この終末の時代、私達に求められていることは、日々悔い改めて、日々イエス・キリストを信じることです。自分は洗礼を受けてクリスチャンとなったのだからといっても、必ずしも天の御国に入れていただけるわけではありません。私達に求められているのは真摯な悔い改めです。そして謙遜にならせていただきましょう。本来なら滅びに値する罪をイエス様は許してくださいました。私達を死から生へと転換してくださったイエス様に感謝しましょう。そして謙遜になって困っている人々に手を差し伸ばすのです。この謙遜なクリスチャンにイエス様は御国を受け継ぎなさいと命じてくださいます。イエス様の力によって行い、御国を受け継ぐ人々を生み出す事業に参画させていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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