説教全文

2020年10月18日(日) 聖霊降臨後第二十主日

聖書箇所 説教全文

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「神のものは神に返しなさい」

マタイの福音書 22章15-22節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書22章15節から22節まで。説教題は「神のものは神に返しなさい」です。本日の話題は税金でございます。
 私たち日本国民が納めている税金は多岐にわたっています。皆様ご存知のように、日本国の税金としては直接税と間接税が有ります。直接税としては、国に納める所得税、法人税、相続税、贈与税。そして地方自治体に納める都道府県民税、事業税、自動車税、市町村民税、固定資産税、等々。間接税としては、消費税、酒税、たばこ税、関税、ゴルフ場利用税、入湯税、等々があります。これ等の税金が全部一度にかかってくるわけではありませんが、少なくとも、消費税を免れることは出来ません。このほか税金ではありませんが、健康保険料や介護保険料があります。先週10月11日の新聞に、2018年度に介護保険料を滞納して、預貯金や不動産の差し押さえ処分を受けた、65歳以上の高齢者が、約19,000人にのぼった、との記事がありました。低所得者にとって、現実は厳しいものが有ります。
 それでは、イエス様の時代に、ユダヤ民族に課せられた税金には、どんなものがあったのかと言いますと、まず神殿税が有りました。神様は出エジプト記30章12節から14節で、全ての成人男子は自分の魂の償(つぐな)い金として、毎年半シェケルを主に納めなければならないことを、イスラエルの民に伝えるよう、モーセに命じられました。マタイの福音書17章27節をみますと、モーセから1500年経っても、この命令は守られていました。イエス様はペテロを湖に行かせて釣りをさせ、最初に釣れた魚の口から1スタテル銀貨を得させています。これはユダヤ銀貨の1シェケルに相当する金額で、御自分の分と弟子のペテロの分の神殿税として、これを納められました。1シェケルが日本円でいくらするのか興味が有ります。私共もイスラエル巡礼の旅をしたときは、日本円をイスラエル・シェケルに換金しました。そのときの両替レートは1シェケル30円位でした。でもこれはイエス様の時代から2000年も経っていますから、当時のシェケルの価値を表すものではありません。
 その神殿税の他に、レビ人や祭司や貧しい人々を養うために、収穫物の十分の一を捧げ物として納めることが義務付けられていました。民数記18章24節に書いてあります。この時、イスラエル民族はエジプトを出て、荒野で神様から神の民として国家形成を命じられておりました。ですから収穫物の十分の一税は、カナンの地に定住するようになってから納付するようになる、所得税の様なものと言えます。
 このほかに、ローマ帝国から課せられた、人頭税が有りました。イエス様が誕生された時、この人頭税徴収のために、皇帝アウグストから「全世界の住民登録をせよ」との勅令が出され、ヨセフさんは住民登録するために、身重のマリヤさんを連れて、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムに移動しています。人頭税は現代の消費税と同じように納税能力に関係なく、金持ちにも貧しい人にも一定額を課す税ですから、不公平感が強く、その上収入も資産もない人から税金と取り立てることは現実的にできないため、現在では人頭税を徴収している国はないそうです。

 この様に見て来ますと、税金は国家を形成して存続させるために必須の制度であることが分かります。でもイエス様の当時、ユダヤの国はローマ帝国の下にありましたから、民衆は、神殿税とローマ帝国から徴収される人頭税の、二重課税で苦しんでいる状態でした。ですからユダヤ人であったら、ローマ帝国の人頭税は、何としても拒否したかった、と思われます。この二重課税の状態を利用して、イエス様を罠に掛けようとした人たちがおりました。パリサイ人たちです。並行記事であるルカの福音書20章20節を見ますと、その目的は、「イエス様の言葉尻をとらえて、ローマ総督の支配と権威に引き渡すため」、であることが分かります。
 パリサイ人たちは、弟子たちをイエス様の許に遣わしてこのように言わせています。マタイの福音書22章16節です。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。」この言葉の真意は、こうですね。「あなたは、真実な方で」とは「あなたは、間違ったことは言わない方ですよね。」という意味です。次に、「真理に基づいて神の道を教え」とは「あなたは、律法に基づいて、真っすぐに言われる方ですよね。」という意味です。そして「だれにも遠慮しない方だと知っております。」とは「あなたは、間違っている事については、相手が皇帝アウグストであってさえも、遠慮せずに指摘されるお方ですよね。」という意味です。そして最後に「あなたは人の顔色を見ないからです。」とは「あなたは、相手が権力者だからといって、口をつぐむような方ではありませんよね。」という意味です。パリサイ人たちは、この様に言って、イエス様が、自分たちの質問に答えることを拒否する道を完全に塞いだと思ったのです。そしてイエス様に質問しました。17節です。「ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」ここでパリサイ人たちが言っている「税金」とは先ほど言った「人頭税」のことです。もしイエス様が「カエサルに税金を納めることは律法にかなっている」と答えれば、「あなたも人の顔を見て、カイサルに遠慮するのか。」と非難して、悪い評判を立てたことでしょうし、反対に、「カエサルに税金を納めることは律法にかなっていない」と答えれば、「カイサルに逆らう発言をした。」ということで、ローマ総督ポンティオ・ピラトにイエス様を引き渡すつもりだったのです。

 イエス様はパリサイ人たちの悪意を見抜いて、彼らに厳しく問われました。18節です。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。」このイエス様の一言に、パリサイ人たちは震え上がりました。イエスを罠に掛けようとする自分たちの下心を見破られたと知ったからです。彼らは背筋が寒くなり、戦う気力が失せていくのを感じました。もうイエス様の言いなりです。「税として納めるお金を見せなさい。」と言われるままに、「彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。」のです。
 彼らは、まさかデナリ銀貨を見せなさいと言われるとは、露ほども思ってもいなかったことでしょう。どうして話がそんな方向に行くのか理解できなかったことでしょう。ところが、デナリ銀貨をイエス様に見せると、イエス様は言われました。「これはだれの肖像と銘ですか。」デナリ銀貨は直径19㎜、重さは約4gです。サイズは日本の50円玉を一回り小さくした大きさです。デナリ銀貨は一日分の賃金として使われており、日常目にする銀貨でした。ですからパリサイ人が目に近づけなくとも、誰の肖像で、誰の名前が刻まれているかは一目でわかりました。

 「これはだれの肖像と銘ですか。」と、イエス様が問われるその言葉に対し、パリサイ人たちは何の疑いも挟まずに、素直に答えました。「カエサルのです。」イエス様はパリサイ人らに自らの口で、デナリ銀貨がローマ帝国の発行する貨幣であることを言わせたのです。パリサイ人が自分たちの国がローマ帝国の通貨を使う属国であるという事実を認めた瞬間でした。その瞬間、彼らは自分たちの足元に、大きな穴を掘ってしまったのです。しかし、誰もそのことに気づきませんでした。
 そうしたらなんと、イエス様が言われたのです。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」このイエス様の一言で、パリサイ人たちの足元はガラガラと崩れ、彼らは自分たちの掘った大穴の中に落ち込んでしまいました。まさか「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言われるとは、一体誰が想像したでしょうか。強大な権力を持つローマ帝国皇帝カイサルが、ユダヤの国に総督を置いて治めている以上は、カイサルに人頭税を納めるのは、義務なのです。またユダヤ人は、神の民として、全ての成人男子は律法に従って、神殿税である半シェケルと収穫の十分の一を、毎年納めなければなりません。それは、神の民として当然の義務なのです。パリサイ人たちはイエス様に当然のことを言われてしまい、何の反論もできませんでした。

 まことの神の民であったユダヤ人が「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返さなければならない」という二重の税負担に陥ったのには、理由が有ります。それは紀元前1000年頃に、ダビデ王の跡を継いだソロモン王の時代から偶像礼拝に陥ったことが根本的な原因です。列王記第一11章1節から6節にはこのように書いてあります。「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。・・・(3節)彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女(そばめ)がいた。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。」このソロモン王の偶像礼拝のゆえに、ソロモン王の跡を継いだレハブアム王の時に、イスラエルの国は北イスラエルと南ユダに分裂し、さらに、両国とも偶像礼拝と続けた結果、北イスラエルは紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされ、南ユダは紀元前586年にバビロン捕囚に遭って、国が弱体化していきます。そして紀元前430年には最後の預言者マラキが亡くなり、それからイエス様が誕生されるまでの430年間、神の言葉はイスラエルの地から途絶えました。
 イエス様が誕生されたのはローマ帝国時代に入ってからでした。地中海沿岸の国々はローマ帝国によって平定され、「パックス・ロマーナ」と呼ばれた「ローマの平和」が紀元前27年から紀元180年まで約200年間続きました。その結果として、ローマ帝国内の広大な支配領域は自由に行き来ができるようになっておりました。そして、このような時期にイエス様は誕生されたのです。まさに父なる神様が、平和の君である、わが子イエスを誕生させるために、ふさわしい環境を整えられた、と言うほかありません。ヨセフさんとマリヤさんが一緒になる直前に、マリヤさんは聖霊によって身ごもり、そのわが子イエスの誕生の間際に、神様は皇帝アウグストを用いて、全世界の住民登録をせよとの勅令を出させ、預言者ミカの預言の通り、救い主をベツレヘムで誕生させました。そしてイエス様は33歳の時に総督ピラトのもとで十字架に掛けられ、古今東西の人々の罪の贖(あがな)いが完成します。すなわちイエス・キリストは十字架に掛かることによって、エデンの園に植えられていた「命の木」となられたのです。天地創造から丁度4000年後の事でした。アダムとエバが、エデンの園で悪魔に騙されて食べた、善悪を知る知識の木の実の呪いが解かれた瞬間でした。誰でも命の木であるイエス・キリストを信じる人は、アダムとエバの罪、原罪(げんざい)という罪が赦(ゆる)され、永遠の命が与えられるようになったのです。
 イエス様はパリサイ人に「カエサルのものカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言われました。カエサルに返すのは税金ですが、神様に返すものは税金だけでしょうか。神様が求めておられるのは、お金ではなくて、私たち自身です。私たち自身を神様に返すのです。それは、私たちが神の一人子イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストを信じて罪が赦され、私たちが永遠なる神様の子供とされることです。そうすれば私たちは、天の御国に導かれて、父なる神様とともに永遠に生きることができるのです。神様は私たち全てが、命の木である御子イエス・キリストを信じることを、心より願っています。この願いをかなえて差しあげることが、私たち全ての人間に求められています。しかし、命の木であるイエス・キリストを信じなければ、原罪という罪は永遠に赦されず、地獄に投げ込まれ、永遠に地獄の業火の中で泣き叫ばなければなりません。

 さてパリサイ人たちは、イエス様の言葉「カエサルのものカエサルに、神のものは神に返しなさい。」を聞いて、「驚嘆した。」と書いてあります。そして「イエスを残して立ち去りました。」イエス様の答えに驚嘆したなら、イエス様に対する敵対心を、考え直してもいいはずです。イエス様が、誰もが思いつかないような返事をされたのですから、「おや、この人は、ただ者ではない。」と考えてもいいはずでした。しかしそうしなかったのは、彼らが、余裕がないほど頑なであったことを表しています。彼らの心の中にイエス様を見る目が無かったということになります。人間は謙遜にならなければ見えてこないことがたくさんあります。元パリサイ人であった使徒パウロも頑なでした。イエス様の強い光に打たれて盲目にならなければ何もわからなかったのです。

 このように、イエス様はご自分を罠に掛けようとするパリサイ人らに対して「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言われ、義務として行わなければならないことは、全て心から従順になって行いなさい、と教えられました。カエサルに対しては税金を納めることですが、神様に対しては税金だけでは十分ではありません。神様にお返しするために必要なことは、神様が私たち人間に与えてくださった御子イエス・キリストを受け入れ、信じることです。そして罪赦されて神様の子供とされることです。信仰を通して自分自身を神様に返すのです。これが「神のものは神に返しなさい。」とイエス様が言われる中身です。イエス・キリストを残して立ち去ったパリサイ人の様にではなく、悔い改めてイエス・キリストを信じ、罪赦され、天の御国に導かれ、永遠に神様と交わる幸いな者とならせていただきましょう。
 そして、私たちの周りにいるイエス・キリストを知らない人々も、命の木であるイエス・キリストを信じて罪赦されるよう、祈りつつイエス・キリストをお伝えしましょう。これもまたイエス・キリストを信じる者が行う、「神のものは神に返す」働きとなります。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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