説教全文

2020年10月4日(日) 聖霊降臨後第十八主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「神の国の実を結ぶ民」

マタイの福音書 21章33-46節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書21章33節から46節まで。説教題は「神の国の実を結ぶ民」です。先々週と先週の聖書箇所で、私たちはどのようにしたら天の御国、または神の国に入ることができるのか学びました。本日は、どのようにしたら神の国の実を結ぶことができるのかを学びます。
 私と妻は良く夕方にお茶の時間を持つのですが、先日そのお茶の時間に、妻が「空海」という映画を見ていることを知り、私も興味があったので、一緒に最初から見ることにしました。1986年製作の映画で、時代を感じさせます。上映時間が約3時間かかる大作でしたが、ついつい引き込まれ、最後まで見てしまいました。私がこの映画に興味を持ったのは、空海が開いた高野山の金剛峰寺(こんごうぶじ)が真言密教の中心地であり、そこには明治時代に「大秦景教流行中国碑(だいしん けいきょう りゅうこう ちゅうごくひ)」なる物のレプリカが建てられたことを知っていたからです。真言宗は景教というキリスト教の異端とされているネストリウス派と深い関係があったという説があり、また、空海が持ち帰った経典の中には「ヨハネの福音書」があったという説も聞いたことがあるからでした。しかしその空海に関しては、あまり知識がなく、留学生の身分で遣唐使の一員として中国に渡り、中国から仏典を持って来た人だったという程度でした。それで、ぜひ一度その生涯を見てみたいという気持ちにさせられたわけです。また近頃、大人気のTVドラマに出演していた、北大路欣也さん主演という言葉も私の興味を引きました。
 その映画の中のセリフでびっくりしたことがありました。それは空海が布教に出た時に出会った一人の病気の女性との会話です。
 空海:「この世で成仏できなくて、どうして死んで成仏などできよう。生きているうちに、この父母よりもらった身体のあるうちに、幸せにならんで、なんで人は救われよう。」 
 病気の女:「この世はあまりにも苦しすぎます。」  
 空海:「この世なくして、あの世はないのだ。この世を逃げてあの世はないのだ。この世で生きながら仏になれ。幸せをつかめ。成仏するのだ。」
 私はこの空海のセリフを聞いて、妻に「これはキリスト教だよね。」と言いました。私が時々説教の中で言っている言葉に似ていたからです。「生きている内に天の御国に入らないで、どうして死んでから天の御国に入ると言えるのですか。死んだら天国に入れると、誰が保証してくれるのですか。死んでから入ってみたら、そこが地獄だったらどうするのですか。」さて、「空海」のお話はこれ位にして、本題に入りましょう。どうやって神の国の実を結ぶ民となることができるのかです。

 本日のイエス様のお話は、第一日課で読んだイザヤ書5章1~7節にある預言者イザヤの言葉とよく似ております。もう一度、イザヤ書5章1節と2節、飛んで7節をお読みいたします。
 「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸(す)いぶどうができてしまった。(7節)万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴(ひめい) 。」
 この預言者イザヤの言うぶどう畑の例えの意味は、その7節に説明が有ります。「ぶどう畑」は「イスラエルの家」であり、「主が植えたぶどうの木」は「ユダの人々」、そして出来た「酸いぶどう」は、「流血と悲鳴」であることが分かります。
 なぜ預言者イザヤがこの「ぶどう畑」の歌を歌ったのかと言いますと、彼が預言者として働いていたユダヤの国が偶像礼拝に満ちていたからでした。イザヤ書1章4節にそのことが書いてあります。「わざわいだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」ユダヤの民は、バアル信仰という、カナンの豊穣神バアルを拝むことから離れることができなかったのです。
 イエス様が来られた時代もこの預言者イザヤの時代とよく似ていました。民の指導者である祭司長たちやパリサイ人たちや民の長老たちには、真の神様を信じるという信仰が無かったのです。彼らが指導していたのは、神様が与えてくださった律法を信じて行うことではなく、行うという行為を通して律法を守ることだけでした。そこには罪の自覚がなく、したがって罪の赦(ゆる)しを求める悔い改めが無く、行なわれていたのはただ人の目に分るように、律法を形式的に守ることだけでした。この意味で、ユダヤ教は形式宗教に陥り、そこから抜け出すことができなかったのです。
 本日の例え話の35節と36節で、園の主人はぶどう園の賃貸料として、収穫された葡萄の一部を受け取るために、しもべたちを送っていますが、このしもべたちは預言者たちを表しています。預言者たちが2度も送られたのは、いかにユダヤの国が宗教的にひどい偶像礼拝に陥っていたかを示すものです。農夫たちは、遣わされたしもべたちに渡す、信仰という甘いぶどうが出来ず、出来たのは不信仰という酸(す)いぶどうばかりだったので、自分たちの不信仰を指摘する預言者たちが気に入らず、殺してしまったのです。
 さらに「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、ぶどう園の主人である父なる神様は息子のイエス様を送りますが、農夫達で例えられている、祭司長達やパリサイ人達や民の長老達は、自分たちの不信仰を指摘するイエス様が気に入らず、「あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう」と話し合い、イエス様を捕らえ、総督ピラトを使って、エルサレムの町の外のゴルゴダの丘で十字架に掛けて殺してしまったのです。
 この跡取りであるイエス様を殺してしまった後、ユダヤの国はどうなったでしょうか。ユダヤ人たちは自分たちの思惑通り、相続財産であるユダヤの国を手に入れたでのしょうか。歴史はそうは語っていませんね。イエス様が十字架上で亡くなられた後、その約40年後の西暦70年にエルサレムはローマ軍によって破壊され、110万人ものユダヤ人が殺されました。まさに41節に書いてあるような事態になったのです。「彼らはイエスに言った。『その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。』」この41節の「彼らは」とは、ユダヤ人の指導者たちのことで、この指導者たちはまさに自分たちの未来を預言したのです。ローマの兵たちたちは、110万人ものユダヤ人を容赦なく殺しました。神様がローマ兵を用いて、偶像礼拝に陥ったユダヤ人を殺したと言う他ありません。
 残ったユダヤ人はイスラエルの地から追い出され、それ以来ユダヤ人は国を持てず流浪の民となりました。第二次世界大戦後、1948年になって漸くイスラエルの地に国を再建できましたが、未だに周囲の国々とは戦争状態で、男性は18歳から3年間、女性も18歳から2年間兵役の義務があり、男性も女性も何処に行くにも自動小銃を携帯し、たとえ休みで自宅に帰る場合でも自動小銃を持って移動しています。私共が7年前にイスラエル巡礼の旅をした時、バス・ターミナルで、私たちの目の前を自動小銃を肩からぶら下げた女性兵士たちが談笑しながら通り過ぎて行く姿や、私共が乗った長距離バスに大型の自動小銃を持ったまま乗り込んで来た男性兵士たちの姿を目にして、唖然としてしまいました。イスラエルという国は今だ戦時下にあるのだ、と実感した次第です。

 確かにユダヤ人は、第二次世界大戦後、国を取り戻したかに見えましたが、肝心のエルサレム神殿のある旧市街は、ムスリム(イスラム教徒)地区、キリスト教徒地区、アルメニア人地区、そしてユダヤ人地区に四分割され、破壊されたユダヤ教の神殿跡にはイスラム教の岩のドームが占拠し、ユダヤ人は近づくこともできません。
 目に見える部分だけでもこのように制約がある状態ですから、ましてや目に見えない信仰的なことは、イエス様が42節と43節で預言された通りになっています。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」この「家を建てる者たち」とは、祭司長や、パリサイ人、民の長老たちからなるサンヘドリンの議員たちです。彼らはイスラエルという家で例えられている神の民を信仰的に建てる指導者たちでした。しかし、信仰的に盲目なこの人たちが、イエス様を十字架に掛けて、墓の中に捨てたのです。ところがイエス様は3日目によみがえり、40日に渡って弟子たちに現れ、最後に弟子たちの見ている中を、天に昇って行かれました。そしてその10日後のペンテコステの日に、聖霊降臨が起こり、イエス・キリストを神とするキリスト教伝道が始まったのです。
 イエス様はご自分を信じる人々の群れを「神の国の実を結ぶ民」と呼びました。私たちが、今までの罪を悔い改め、「神様。どうか私の罪を赦してください。」と願うと、「私もあなたに罪を認めない。」という声を、心に聞きます。それで私たちは、罪赦されたことを知ると同時に、罪を赦して下さった方が、イエス様であることを、直感的に知るのです。そしてもうイエス様から離れられなくなります。そうなると私たちの生活は、神の国の実を結ぶ生活となるのです。神様が信仰を通して働かれ、私たちが実を実らせてくださるのです。イエス様は、私たちの様な神の国の実を結ぶ民に「神の国」が与えられると預言されました。「神の国」は、今やユダヤ教徒から取り去られ、イエス・キリストを神と信じるキリスト教徒に与えられているのです。ですからキリスト教徒は、生きているこの世に在って、同時に神の国にも入っているのです。まさに、キリスト教の影響を受けたと思われる空海が映画の中で言っている通りです。「この世で成仏できなくて、どうして死んで成仏などできよう。生きているうちに、この父母よりもらった身体のあるうちに、幸せにならんで、なんで人は救われよう。」ちなみに、このセリフの中で言う「成仏」とは、決して世に言う「死ぬ」ことではなく、「生きている内に天の御国に入る」ことと同じことです。それは空海が「生きているうちに、この父母よりもらった身体のあるうちに、」と繰り返して、強調しているからです。
 それではユダヤ教徒をはじめ、イエス様を信じないこの世の人々はどうなるのでしょうか。44節でイエス様は言われました。「また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」「この石」とはイエス様のことです。ですから、イエス様の上に落ちるとは、じっとしておられるイエス様にぶつかって行く人のことで、イエス様に積極的に逆らう人を表しています。また反対に、「人の上にイエス様が落ちる」とは、イエス様を信じない人、無視する人、つまり消極的に逆らう人の上にイエス様が落ちて、その人を滅ぼしてしまうことを表しています。
 ユダヤ人はイエス様に対して積極的に逆らったし、今もなお逆らっています。しかし日本人を始め世界中の多くの人はイエス様に対して消極的に逆らっています。「粉々に砕かれる」も「押しつぶす」も、地獄の裁きに会うことを表しています。ですから、この積極に逆らう人も、消極的に逆らう人も、この世の最後の日には、地獄の業火の中に投げ込まれ、永遠に燃やし続けられると預言されているのです。
 ユダヤ人たちがイエス様に対して、積極的に逆らった様子が45節と46節に描かれています。「祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれ等の例えを聞いた時、自分たちについて話しておられることに気付いた。それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群集はイエスを預言者と認めていたからである。」ユダヤ人たちはイエス様に逆らったけれども、群衆を恐れてイエス様に手を出すことができませんでした。このユダヤ人に代表されるように、いくら宗教に熱心な人であっても、謙遜になって、悔い改めなければ、何も見えないということです。即ちイエス様が神様であることが分らないのです。

 ですから、イエス様に逆らっても駄目だし、無視しても駄目なことが分かります。その結末は永遠の業火という地獄の炎で焼かれ続けることになるのです。私たちに残された道はイエス・キリストを信じるという道なのです。この道の他に道は有りません。つまり、謙遜になって、今までの罪を認めて悔い改め、神様に罪の赦しを願うことです。神様に罪の赦しを願うなら、必ずや聞いていただけます。即ち罪の赦しが与えられるのです。そして罪を赦して下さった方が、イエス・キリストであることを直感的に知り、もうイエス様から離れられなくなります。そうなると私たちの生活は、神の国の実を結ぶようになるのです。神様が信仰を通して働かれ、私たちに実を実らせてくださるのです。まさに空海が言う通りです。「この世で神の国に入らなくて、どうして死んで神の国には入れよう。生きているうちに幸せにならんで、なんで人は救われよう。」そうわけで、イエス・キリストを信じ、神の国に入り、幸せな人生を送らせていただきましょう。
 既にイエス・キリストを信じている方は、まだ信じていない人々に、生きて神の国に入るという、幸せな人生が有ることをお知らせしましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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