説教全文

2020年9月6日(日) 聖霊降臨後第十四主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「天の御国で一番偉い人」

マタイの福音書 18章1-20節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書18章1節から20節まで。説教題は「天の御国で一番偉い人」です。
 いま日本の政治の世界では、一番偉い人を決めようとしております。現職の総理大臣が、病気を理由に、任期途中で辞任されるので、後任の総理大臣を選ぶことになりました。今3人の方々が次の自民党総裁に立候補しておられます。このうちの一人を選ぶために、自民党内で選挙が行われますが、実態は派閥力学で決まりそうなので、損得尽くで決める印象がぬぐえません。どの方が自民党総裁となり、総理大臣として選ばれても、効果のある新型コロナ・ウィルス感染症対策に尽力されて、早期に安全安心の社会を回復していただきたいと願っております。全ての国民が、幸せを感じることのできる、安全安心の社会を築いて行こうと努力する人、私はそのような人が政治の世界では一番偉いのではないかと思っております。
 しかし私たちにとって、たとえこの世の人生が安全安心であっても、何時までもこの世に生き続けることはできません。私たちのこの世の人生には限りが有ります。私達は何時かこの世に別れを告げなければならないのです。その時、安全安心の天国に入れていただけるのか、それとも災害と不安に満ちた地獄に投げ込まれてしまうのか、私たちには二つに一つの道が待っております。
 随分前になりますが、「千の風になって」という歌が流行りました。人間死んだら、風になるとか、光になるとか、雪になるとか、鳥になるとか、星になるとか、と歌われております。しかし本日の聖書箇所18章8節と9節で、イエス・キリストは2回にわたって、人間死んだら、「いのち」に入るのか、それとも「永遠の火に投げ込まれる」のかの、いずれかであるとお話ししておられます。神様が2回言われることは、それが確かであることを示しています。今朝のお知らせの所で、今週は、今まで経験したことも無いような、強い風を伴った、台風10号が襲って来るので、今から避難準備をしておくようにと、気象庁が事前に何度も要請しているとお話しました。同じように、私達が生きている今、何も準備していなければ、私たちの死後は今まで経験したことも無いような悲惨な災害に見舞われることは間違いありません。ですから、生きている今から準備しておくことが求められています。

 この様に、死後は天国かそれとも地獄かという議論になったのは、イエス様の弟子たちが、イエス様に、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」と尋ねたことが発端でした。この弟子たちの質問の態度から、弟子たちは、「自分たちは当然、天国に入ることが出来る」と、確信していたことが伺えます。
 この弟子たちの自信満々の態度に水をかけたのが、イエス様の3節の言葉です。イエス様は一人の幼子(おさなご)を呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせて、言われました。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」つまり、イエス様は弟子たちに、この様に言われました。「あなた方が、天の御国に入れるとは誰も保証していませんよ。入れるのかどうかもわからないのに、どうして『天の御国では、一体誰が一番偉い。』などと言うのですか。まず、向きを変えて子供たちのようにならなければ、天の御国には入れませんよ。」
 このイエス様の言われる「向きを変えて」という言葉は、3節の脚注を見ますと、「あるいは『悔い改めて』」と書いてあります。つまり、「自分達はイエス様の弟子なのだから、天の御国に入れて当然だ、と考えるようであっては、天の御国に入ることはできません。そうではなく、自分は罪人であると認めて悔い改め、『神様どうかこの私の罪を赦(ゆる)して下さい。』と願わなければ入れません。」と言われたのです。「向きを変える」とは「自分は罪を犯しており、天の御国に入る資格の無い者だ。」と自覚し、「自分を低くする」ことなのです。この「自分を低くする人が、天の御国で一番偉い」とイエス様は言われました。
 この「自分を低くする」ということがどのような態度であるのかを、イエス様は5節で言われました。「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」幼子は純真です。純真なだけに、誰が自分を受け入れてくれるのかを、直感的に知っています。顔が「優しそう」とか、あるいは「こわもて」とかは関係ありません。この幼子は、イエス様の呼びかけにすぐに応じて、イエス様の許に来ました。そしてイエス様のあぐらの中にちょこんと座ったのです。この子は、イエス様が自分を受け入れてくださるお方であることを知っていました。この様にイエス様を純真に信じる幼子を、「子供だから何も分からないはずだ」と決めつけて、見下していたのが、イエス様の弟子たちだったのです。

 ですからイエス様はこの自尊心丸出しの弟子たちに対して、6節で「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。」と警告されました。「つまづかせる」とは「罠にかける」という意味のギリシャ語が使われています。罠は動物をつかまえて、殺し、食料にする狩りの道具です。ですからこの罠にかかると、その先は死です。つまり「幼子に罪を犯させて、死に至らせる。」という意味です。
 幼子は、お弟子さんたちの顔を見て、自分が受け入れられていない、邪魔者扱いされているという感じを抱き、イエス様はどうしてこんな人たちと一緒にいるのだろうか、と不安を抱くようになり、イエス様が信じられなくなっていくのです。イエス様はこの幼子の心の中を見られて言われました。7節です。「つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」イエス様は、幼子をなかなか受け入れようとしない弟子たちに対して、「つまずきをもたらす者はわざわいです。」と言われました。
 イエス様は、人につまずきを起こさせるものが3つあると言われました。「手」と「足」と「目」です。8節の「手や足がつまずかせる」とは、幼子をイエス様にまとわりついて、イエス様の邪魔をするものとみなし、幼子がイエス様に近づくことを阻止しようとする心の思いです。それは幼子を何も知らない者と見下して、幼子から学ぼうとしない態度となって現れてきます。幼子を見下す態度は、力づくではありませんが、無意識的に幼子をイエス様の前から排除しようとする心の動きです。それは幼子を受け入れようとしない態度となって現れてきます。また9節の「目がつまずかせる」とは、イエス様のあぐらの中に座っている幼子に学ぼうとはせず、無意識的に幼子を無視してしまう心の態度です。その結果、幼子に不安感を抱かせてつまずきをもたらしてしまうのです。イエス様は、幼子につまずきをもたらす思いから離れられない弟子達に向かって言われました。8節と9節です。「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。」「また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナ(地獄)の火に投げ込まれるよりよいのです。」法に基づいて裁かれる現代に生きる私たちにとっては、このイエス様の判決を聞くと、どうして幼子を受け入れなかったり無視したりすることが、手足を切る罰や目をえぐり出す罰に相当するのか、理解できません。でもイエス様はマタイの福音書5章28節で言われました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」このイエス様の言葉から、罪というのは実際に為された行為の問題ではなく、心に抱いた思いの問題であるということです。しかし人間には心の中が見えませんから、行為を見て判断しなければなりません。ところが神様は人の心の中を見られますので、幼子を心の中で邪魔者扱いしたり、無視したりする弟子たちは心の中で既に罪を犯していることになり、その判決は「永遠の火に投げ込まれる」です。ですからこうならないように、「心の向きを変え」すなわち謙遜になって、イエス様に罪の赦しを願い、永遠の命を与えていただくことのほか、道は有りません。

 経験の浅い幼子をどうして自分たちの手本にしなければならなのか、なかなか理解できない弟子たちの心をご覧になって、イエス様は言われました。10節です。「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」この言葉でイエス様は、なぜご自分を信じる幼子たちが大切なのかを教えられました。イエス様を慕う幼子たちには、それぞれ御使いたちが仕えているからなのです。その御使いたちはいつも天におられるイエス様の父なる神を見ているのです。いつも父なる神様の御顔を拝している幼子たちの守護天使達が、幼子たちを決して軽んじたりしないで、幼子たちに仕えているのです。それなのにどうして人間の弟子たちが、幼子たちを軽んじたりして良いのでしょうか?良いわけないでしょう、とイエス様は言われるのです。
 そして幼子たちがいかに大事であるかを100匹の羊に例えてお話しされました。100匹とは10の10倍の数ですから、完全数です。即ちイエス様を信じるこの世の幼子全てを指します。そのうちの一匹が迷い出て、群れから離れてしまいました。羊飼いは99匹を山の上に残して、迷い出た1匹を捜しに出かけないでしょうか、いや必ず出かけます。イエス様は13節で言われました。「まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。」そして更に言われました。14節です。「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。」イエス様を信じる幼子たちは、弟子の大人から見たら小さな存在であるけれど、天におられる父なる神様にとっては、どの一人も滅んでほしくない大きな存在であると言われるのです。ですから幼子たちを軽んじることは大きな罪を犯す事になるとイエス様は言われたのです。

 弟子たちが、罪とは行為の問題ではなく、心の問題であることを理解した時、イエス様は1節の弟子たちの質問「天の御国では、一体誰が一番偉いのですか。」の問題点を説明し始められました。この質問が弟子たちの間から出たということは、弟子たちの中に、「私が天の御国で一番だ。」とか、「お前は天の御国で二番だ。」とか、更に「お前は天の御国に入れない。」とかと正面切って言う弟子がいたことを示しています。天国に入れるか、入れないか、また一番か二番かは、弟子たち同士で決める問題ではなく、心の内を見られるイエス様が決める問題です。ですから、この様なことを同じ兄弟である弟子たちに対して軽率に口にするということは、自分の兄弟である弟子たちに罪を犯す事になるのです。それでイエス様は弟子たちに、その場合の対処手順を定められました。第一段階は15節です。「行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。」次に第二段階は聞き入れられなかった場合です。16節「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。」第三段階は最終段階で、それでも聞き入れられない場合です。17節でイエス様は言われました。「教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」つまり信徒としての資格剥奪です。破門ですね。なぜ教会に最終決定権が与えられているのか、その理由をイエス様は言われました。18節です。「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」信徒が自分の罪を認め、悔い改めるならば、教会はその罪を赦すことができます。なぜなら天でも赦されているからです。反対に信徒が自分の罪を認めず、悔い改めないならば、教会はその人の罪を赦すことができません。なぜなら天でも赦されていないからです。その悔い改めない弟子は破門されても仕方ありません。
 本日の聖書箇所の最後にイエス様は素晴らしいことを約束されました。19節と20節です。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」この言葉は、罪は心の問題であると自覚し、日毎に犯す罪の赦しと祝福を願った複数のクリスチャンが集まって祈る時、イエス様御自身も共にその祈りの輪の中におられることを約束しています。そしてその祈りは必ず父なる神様に届き、実現するのです。父なる神様がかなえてくださるとイエス様は約束しておられます。この約束は現代においても有効です。神様の言葉は永遠に取り消されることが無いからです。

 このように、天国で一番偉い人とは、向きを変えて子供たちのように自分を低くする人、すなわち悔い改める人であると言われました。この悔い改める人は、罪とは心の問題であると理解して、罪を認め、罪の赦しを願う人のことです。この人はイエス様のお名前のゆえに、幼子たちを受け入れ、イエス様を信じる兄弟姉妹の信仰を強め、この世の人たちをイエス様に導く良き導き手です。また教会や家庭で、二人または三人と集まり、祈る人です。イエス様はこのような人たちと共に居てくださり、日々全ての災いから守り、平安で包み、天からの祝福で満たしてくださいます。マルチン・ルター博士は宗教改革の発端となった「95か条の提題」の第一条で、「イエス・キリストは、信じる者全生涯が悔い改めであることを望まれた。」と記しています。皆さん、日々悔い改めましょう。そうすれば日々罪赦され、日々祝福に満たれ、実り豊かな人生を送らせていただけます。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


©2020 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.

聖書箇所 説教全文