説教全文

2020年8月23日(日) 聖霊降臨後第十二主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「あなたは生ける神の子キリスト」

マタイの福音書 16章13-20節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書16章13節から20節まで。説教題は「あなたは生ける神の子キリスト」です。
 さて本日イエス様は、弟子たちを引き連れてガリラヤ地方からピリポ・カイサリアに行かれました。ピリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北端にある町ベッサイダからほぼ真北に向かって40㎞の所にあります。ちなみに、現代のマラソンコースの長さは42.195㎞ですから、マラソン選手並みに走れば約2時間、時速5キロの一般人の速度で歩けば約8時間かかります。まあ、一日で行けない距離ではありません。
 私たち夫婦も長年の夢がかなって、7年前イスラエル巡礼の旅ができました。この時、ピリポ・カイザリアも訪れることができました。現地のガイドさんが「皆さん、今日はバニアスに行きます。」とアナウンスしたので、バニアスってどこだろうと思い、私が、「それはひょっとしたらピリポ・カエサリアですか。」と尋ねると、「そうだ。カイサリア・フィリッパイです。」と答えてくれました。ピリポ・カイサリアは私が尋ねたいと願っていた場所の一つだったので、とても嬉しくなりました。そういう訳で私たち夫婦は、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と信仰告白した、まさにその場所に立つことができました。その場所は荒れ果てていて、崩れた祠(ほこら)があちこちにあり、かつては偶像礼拝が盛んに行われていたことを偲ばせました。しかしイエス様の当時は立派な神殿や祠が建てられておりました。この様な偶像の神殿や祠の前でイエス様は弟子たちに、「あなた方はわたしをだれだと言いますか。」と尋ねられたのです。このイエス様の弟子たちに対する問いかけは、経済(富)という名の偶像に取り囲まれて生きている私たちにも、問いかけられているのではないでしょうか。その時私たちはどのように答えれば良いのか示されておりますので、共に御言葉に聞いてまいりましょう。

 イエス様が弟子達をピリポ・カイサリアに連れていかれた目的は、本日の聖書箇所によりますと、今しがた述べましたように、弟子たちから、御自分に対する信仰告白を聞くためであった、ということが分かります。というのは、弟子たちがイエス様に弟子として召されてから、既に約2年の月日が流れていたからでした。つまりあと1年後には、イエス様が十字架に付けられることになる時期でした。多分イエス様は、次のように考えられたのでは無いでしょうか。「弟子たちを育てる期間は終了した。後は私が十字架に掛かった後、弟子たちが私の教えを広めることや、人々を救いに導くことに、十分に自信を持って行えるようにさせることだけだ。そのために必要なことは、私に対する明確な信仰告白を表明させることだ。」多分、そのように考えられたと思われます。
 というのは、弟子たちがイエス様に召されたきっかけは、洗礼者ヨハネの証しであったからです。ヨハネの証しによって、弟子たちはイエス様が、旧約聖書全てにわたって啓示されている約束の救い主である、という知識を得ていたのです。ヨハネの福音書1章41節で、最初の弟子たちの一人であるアンデレは、兄弟シモンを見つけてこの様に言っています。「私達はメシア(訳すと、キリスト)に会った。」弟子たちはイエス様との最初の出会いの時に、既にイエス様はキリストである、という知識を得ていたのです。そしてその後の約2年に渡るイエス様との親密な交わりを通して、この知識はますます深められて確信となっていったことでしょう。弟子たちはイエス様が、言葉だけで大勢の人々の様々な病を癒し、言葉だけで多くの悪霊を追い出し、大人の男性だけでも4千人や五千人の群衆に、僅かのパンと魚から有り余るほどの食事を与え、嵐の水の上を歩き、ペテロをも水の上を歩かせ、自分たちにも病を癒したり悪霊を追い出したりする力を与え、そして御国の福音を宣べ伝え、権威ある者のように教えられた姿を見て、とうとうイエス様が、生ける神の御子キリストである、と分かったのです。イエス様は人間の心の内を見られる神様です。ご自分に対する弟子たちの評価が定まったことを知り、それで今回ピリポ・カイサリアへ連れて行かれることになったと推定されます。
 それにしても弟子たちから信仰告白を聞くために行った場所が、なぜピリポ・カイサリアなのでしょうか。ガリラヤ地方では駄目だったのでしょうか。きっと駄目だったのでしょうね。ピリポ・カイサリアには、ヨルダン川の四つの水源の一つが有りましたし、今も有ります。この水源には、紀元前3世紀ごろのギリシャ時代に造られたパーンの神を祭った聖所が有り、このパーンの神を祭った聖所が有ることから、古くからパニアスとか、バニアスとかと呼ばれておりました。私たち日本人が、高い山の上に祠(ほこら)や鳥居を設けるのと似ております。パーンの神はギリシャ神話に出てくる神々の一つで、羊飼いと羊を見守る、半人半獣の神で、顔にはひげが生え、頭には二本の山羊の角が生え、二本の足は山羊の足です。
 このバニアスは、ローマ時代になると、皇帝アウグストからヘロデ大王に与えられ、その記念にとヘロデ大王は、パーンの神の聖所の脇に、皇帝の像を安置した、大理石の神殿を建てました。その後ヘロデ大王の息子ヘロデ・ピリポがこの町を相続し、拡張して美しく仕上げて自分の相続地の首都とし、皇帝カエサルに敬意を表してカエサリアと名前を付け、地中海沿岸のカエサリアと区別するために、自分の名前ピリポを加えて、ピリポ・カイサリアとしました。
 多分イエス様は弟子たちを、ピリポ・カイサリアのパーンの神が祭られている聖所の前か、あるいは皇帝の像が安置されている立派な大理石の神殿の前に連れて行かれたのでしょう。それらの偶像の前で、御自分に対する信仰告白を求められたことは確かと思われます。イエス様は、一体、ご自分が何者なのか、これらの動物や人間の像たちと同じ神々の一人なのか、又はだたの人間なのか、それともまことの神なのか、と弟子たちに信仰告白を迫ったのです。

 まずイエス様は弟子たちに対して、「人々は人の子を誰だと言っていますか。」と尋ねられました。弟子たちは答えました。ギリシャ語を直訳しますと「ある者は洗礼者ヨハネ、しかし別の者はエリヤ、しかし他の者はエレミヤ、又は預言者の一人。」この様に、簡潔に書いてあります。ラクダの毛衣を着た洗礼者ヨハネは、厳しい言葉とその姿から、預言者エリヤの再来と言われていました。またエレミヤも預言者です。このことから、人々のイエス様への評価は、「預言者」となります。つまり、人々の評価は「神様から遣わされた人間である」という評価です。
 次に弟子たちに向かってイエス様は尋ねられました。「それでは、あなた方自身は私を誰だと言いますか。」イエス様は「あなた方自身」と言われ、弟子たち一人一人がご自分をどのように評価しているのか尋ねられました。この様にイエス様から質問されることは、前から薄々感じていたのでしょう。弟子たちはお互いにイエス様に対する自分の答えを話し合い、その答えを一致させていたと思われます。あとは誰が代表して答えるかだけでした。それで弟子たちは互いに顔を見合わせ、誰が答えるのか目配せしたことでしょう。みんなの目は年長のペテロを指していました。ペテロは弟子たちの熱い視線を受け、覚悟を決め、弟子たちを代表して自分のイエス様に対する確信を告白しました。「あなたは生ける神の子キリストです。」
 ペテロは、イエス様が、どんな病気も言葉で癒すお方、言葉で悪霊を追い出すお方、僅かなパンと魚で大勢の群衆を養うお方、天の御国のお話をされるお方、嵐の海の上を歩かれたお方、そして自分をも水の上を歩かせたお方であるという経験をしました。これ等の経験から、このお方は神様でなければできないことばかりなさる、だから人間となられた神様である、すなわち「生ける神の子」である、という確信を持っていたのです。
 また「キリスト」とはギリシャ語で油注がれた者という意味です。ヘブル語で言えば「メシヤ」です。ユダヤの国では、預言者、祭司、そして王様に油が注がれました。ヨルダン川で洗礼者ヨハネからイエス様が洗礼を受けられた時、天から聖霊が鳩の姿を取ってイエス様の上に留まり、イエス様は聖霊の油注ぎを受けられました。この瞬間にイエス様はキリストとされました。即ち天の御国の王に即位され、イエス・キリストを信じる人の罪を赦す大祭司に就任され、天の御国のお話を宣べ伝える預言者に任命されたのです。ですから洗礼者ヨハネが、イエス様を「キリスト」すなわち、「神によって油注がれた者」と弟子たちに紹介したのはそう言う訳です。

 このペテロの信仰告白を聞かれたイエス様は言われました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」イエス様が「生ける神の子キリスト」であることは、血と肉とからなる人間の思考能力では分かりません。皆さん、クリスチャンになる前から、イエス様が「生ける神の子キリスト」と知っていましたか。知っていませんでした。私も知りませんでした。それは霊的なことであって、人間の理解の外にあるからです。ですからイエス様は「このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」と言われました。霊的なことは、天におられるイエス様の父である、神様から教えていただく以外に、知る手立てはありません。なぜなら、それは人間には愚かなこととして隠されているからです。なぜ霊的なことが愚かな事とみなされるのかと言いますと、一円も儲からないからです。経済的な価値がゼロであるからです。現在、日本人の99.2%の人がノン・クリスチャンです。ほとんどの日本人が霊的に盲目なのです。
 聖書は私たちに、私たちが死ぬと私たちの肉体は滅びるけれど、私たちの霊は神様の許で、何時までも存在し続ける、と教えています。そして全ての人は、この世の最後の日に復活し、生前イエス・キリストを信じて罪赦された人は天国に入り、生前金儲けやこの世の楽しみ明け暮れて、イエス・キリストを求めようとしなかった人は、罪赦されず、燃える地獄に投げ込まれてしまう、と教えています。
 昨今医学が進歩し、多くの人が長生きできるようになりました。しかし人間の寿命は最長120年と聖書に定められています(創世記6:3)。人間120歳まで生きる人は稀ですが、少なくとも自分が生きている間に、イエス・キリストを知ることが求められています。即ち私たちの人生は、神様から与えられた、イエス・キリストを知るための期間なのです。決して金儲けや、娯楽に費やすためだけの期間ではありません。金儲けを行っても、娯楽を楽しんでもいいのです。神様を求め、金儲けや娯楽も神様に感謝して行うのです。私達は、何時かは死にます。この世は、その準備期間なのです。死んだ時に天国に導かれる準備ができているか、いないかが問われているのです。多くの人は、死んだ後はどうなるのかわからないのだから、準備する必要は無いと考えているでしょう。日本人の99.2%の人が準備する必要無し、と考えています。本当にそれで良いのでしょうか。死んでから慌てふためいても後の祭りです。

 ペテロの信仰告白「あなたは生ける神の子キリストです。」はイエス様をいたく喜ばせました。正しい答えであったからです。このペテロの答えは、イエス様の信頼を勝ち得ました。その結果イエス様は、ペテロに二つのことを約束されました。
 一つは18節です。イエス様は言われました。「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」歴史的に見ますと、この言葉をローマ・カトリック教会は「我こそはペテロの後継者なり。」と主張して、全世界の教会の中での首位権、即ちイエス様からペテロの座を与えられた第一位の教会であることを主張しました。ローマ市の中に在るバチカン市国に、ローマ・カトリック教会の総本山が有りますが、その中心はサン・ピエトロ大聖堂です。日本語で言えば「聖ペテロ大聖堂」で、その名前がそのことを物語っています。
 しかしこのローマ・カトリック教会の主張は18節の意味を捻じ曲げています。ペテロは男性名詞ですが、イエス様が言われた「この岩」とは18節の脚注に書いてあるように「ペトラ」という女性名詞です。ですから、「ペテロ」と「この岩」とは全く別物です。イエス様が言われた「この岩」とはペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白した信仰です。信仰はギリシャ語で「ピィスティス」という女性名詞です。イエス様はペテロという人間の上にご自分の教会を建てると言われたのではなく、ペテロが信仰告白した岩壁の様ながっしりした信仰の上に、ご自分の教会を建てると言われたのです。また教会と名付けられているものは建物ではありません。信仰者の集まりが教会です。ですからこの教会は信仰を通してイエス様に守られているから、黄泉(よみ)の門からいくら悪魔とその手下の悪霊が押し寄せても、打ち勝つことはできないと言われるのです。
 もう一つペテロに与えると約束した物は、天の御国の門の鍵です。この鍵は天の御国の門を開く鍵であり、閉じる鍵です。罪を赦された者を天の御国に入れる鍵であり、罪赦されない者には天の御国の門を閉じる鍵です。具体的には教会に与えられており、使徒継承の手続きによって、正しく按手を受けた牧師に、その鍵が与えられています。私たちが礼拝の前に罪の告白を行い、牧師が「イエス・キリストの命令によって、イエス・キリストの代わりに、御父と御子と聖霊の御名によって、あなた方の全ての罪を赦します。」と宣言する時、皆さんの罪は赦され、天の御国の雛形であるこの礼拝に出席することが許されるのです。
 最期にイエス様は弟子たちに、「ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならない。」と命じられました。それはイエス様の働きがまだ約1年続くからです。イエス様には最後に十字架に掛かって、復活するという大仕事が待っています。ご自分がキリストであることが公に知れ渡ると、政治的に利用する人が出て来て、御自分をローマ帝国の支配から解放してくれる救い主キリストとして担ぎ上げるようになるからです。そうなるとご自分の最後の任務がスムーズに果たせなくなることをご存知であったので、「ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならない。」と命じられたのです。

 このように、私たち人間は、全てこの世に存在している間に、イエス・キリストを信じて罪赦され、天の御国に入る者とされることが求められています。決して地獄の業火で永遠にさいなまれるような選択をしてはいけません。旧約聖書の伝道者の書12章1節にもこのように書いてあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」とあります。誰もが私たちの創造者イエス・キリストを信じ、「あなたは生ける神の子キリストです。」と信仰告白し、天の御国の門を開けていただきましょう。私たちは、イエス・キリストを信じて天の御国に入るために、この世に生まれてきました。繰り返しますが、天の御国は生きている間に、入る所です。死という災いの日が来てからでは手遅れです。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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