説教全文

2020年6月21日(日) 聖霊降臨後第三主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「イエスを人々の前で認める」

マタイの福音書 10章5a、21-33節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 近頃、史実に基づいて制作された「MAGI天正遣欧少年使節」と言う題名のドラマを見ました。全部で10話と長いのですが、一話40分弱なので、仕事の合間に楽しむことができました。
 ドラマの中には、西暦1500年後半には、既に建築されていた、ヨーロッパの街並みが映し出されていて、美しい建築物の映像に思わず引き込まれ、最後まで見てしまいました。
 ローマ・カトリック教会は、1517年に始まったマルティン・ルター博士の宗教改革によって減った領土を海外に求めるべく、1549年にはイエズス会フランシスコ・ザビエルが日本までやって来ました。時は織田信長の時代で、日本での布教は順調に進み、キリシタン大名も現れ、多くの人々がキリスト教を信じました。勢いを得たカトリックの宣教師たちは、更に日本での勢力拡大をしようと、1582年にキリシタン大名の名代として、四人の少年たちをバチカンに送ります。彼らはまだ13歳から14歳の少年たちでしたが、カトリック教会の公用語であったラテン語で会話ができました。彼らはまず、織田信長に謁見し、信長からの贈り物を携え、ローマにたどり着き、ローマ法王に謁見しました。そして出発してから8年後、1590年に任務を果たして日本に帰って来てみると、日本の世の中は豊臣秀吉の天下に代わっており、なんとすでに1587年にバテレン(宣教師)追放令が発令されていたのです。少年たちは帰国後、勉強を続け、途中で棄教した一人を除く3人は司祭となり伝道を始めましたが、一人は病死、一人は追放、一人は殉教すると言う後日談で終わっていました。
 この時以来、日本では、キリシタンに対する警戒心が強まり、1612年には江戸幕府より禁教令が発布され、以来1873年に明治政府によって「キリシタン禁制の高札の撤去」が行われるまでの261年間、公式にキリスト教禁教が続きました。この間、キリシタンの方々は踏み絵を踏まされ、棄教を求められましたが、少なからぬ人々が信仰を守り、すなわち「イエス・キリストを人々の前で認め」、殉教し、天の御国へ導かれて行きました。
 このような徹底的なキリスト教禁教令が出たのは、時の為政達である豊臣秀吉も江戸幕府も宣教師の法衣の下に鎧を見たからで、カトリックの宣教師たちが、日本をローマ・カトリック教国に変えて乗っ取ろうとする下心に感づいていたからでした。
 261年と長きにわたるキリスト教禁教の時代を経験している日本人は、無意識的にキリスト教に対する警戒心が強く、キリスト教以外の宗教には耳を傾けますが、キリスト教にはなかなか耳を傾けてくれません。しかし使徒パウロは、テモテへの第二の手紙4章2節でこの様に私達を励ましています。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

 さて、本日の説教箇所であるマタイの福音書10章21節には、福音宣教の結果生じる、家庭内の紛争が描かれています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。」日本の江戸時代のキリシタン禁制下における家庭内の様子は、まさにこのようなものであったと言えるのではないでしょうか。家族の中からの密告によって、兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、両親を死に至らせます。
 宣教師の宣教の結果、キリシタンとなる者が増え、そして家族内で密告が起こり、村人の間で密告が起こり、多くの人々が拷問に遭い、中には死に至ってしまう人も出るので、その様な教えをもたらす宣教師は、人々から憎まれるようになるのは必然です。為政者が宣教師を追放し、民に信じることを禁じる迫害が起こった時、いったいどうした良いのでしょうか。イエス様は22節で言われました。「しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」イエス様は、この言葉で、宣教を止めるのではなく、最後まで宣教するのです、と言われました。
 そしてイエス様は23節で弟子達に力づける言葉を言われました。「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、次の町に逃げなさい。」迫害が起こったら逃げて良いと言うのです。この言葉はとても心安らぎます。そして次の町で宣教を続けるのです。なぜなら「人の子が来るときまでに、弟子達がイスラエルの町々を終えることは決して」無いからです。この「人の子が来る時」とは何時の事でしょうか。私の用いている註解書の著者は、西暦66年から70年にかけて行われたローマ軍の攻撃により、エルサレムの町が陥落した時のことであるとしています。頑なにご自分を受け入れようとしないエルサレムに、イエス様がご自分の名代として、ローマ軍を遣わされたのです。この時以来、ユダヤ人は国を失い、流浪の民となり、弟子達が巡り終える前に、宣教するべきイスラエルの町が無くなってしまったのです。

 イエス様はもう一つ、弟子達を力づけることを言われました。24節と25節です。「弟子はその師にまさらず、僕はその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、僕がその主人のようになれたら十分です。」なぜ12人もいる弟子たちがイスラエルの町々を巡り終えることができないのか。それは弟子達の師であり、主人であり、神様であるイエス様でも、3年半の宣教生活の間に、イスラエルの町々を巡り終えることができなかったからです。なぜなら、癒しても、癒しても、病人は続々と出てくるのです。神様のイエス様でさえ、病気を通して御自分を信じる人の多さを感じていました。ですから、ましてや人間の弟子達には、手に余るのです。イエス様が宣教されたのは、3年半でした。弟子達がイスラエルの町々を宣教した期間はイエス様の十字架から、エルサレム陥落の70年までですから、ほぼ30年間でしょう。しかし時間がいくらあっても人間の力には限度が有ります。イエス様は「エルサレム陥落まで、あなた方はイスラエルの町々を巡り終えることはできないのだから、安心しなさい。」と言われたのです。
 イエス様は弟子たちが宣教するにあたって、これから必ず起こる、反対勢力に対する注意を与えられました。と言うのは弟子達には、イエス様と同じような癒しの超能力が与えられていたからです。弟子達が力を持てば持つほど、それを阻止しようとする敵の力も大きくなるのです。大勢の人々が病人を連れて、弟子たちの所に押し寄せたのです。そしてイエス様を救い主として信じました。これを見たパリサイ人たちは嫉妬しました。そしてイエス様の弟子達を「ベルゼブルの子ら」と呼んだと推定されます。12章24節にはこのように書いてあります。「これを聞いたパリサイ人は言った。『この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊共のかしらベルゼブルによることだ。』」これはなんというひどい呼び方でしょうか。パリサイ人達は、神の子であられるイエス様を「悪魔」と呼んだのです。このことからイエス様は弟子達に、「あなた方も『ベルゼブルの子ら』と呼ばれるかもしれませんよ。そう呼ばれたら喜びなさい。あなた方の働きがパリサイ人にとって脅威となっているからです。」と言われたのです。
 ですからイエス様は26節と27節で言われました。「彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものは無いからです。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。」イエス様はまず、パリサイ人を恐れてはならないと言われました。なぜなら、イエス様が弟子達だけに語られた教えは、聖霊の働きによって、必ず弟子たちを通して語られるようになり、ペテロとヤコブとヨハネだけが見た高い山の上でのイエス様の変容の秘密は、聖書を通して伝えられるようになるからです。弟子達の書いた聖書を通して、何と多くの人達が、イエス様の教えとその真の姿を知ったことでしょうか。神様が弟子達を通して行っておられることを、人間は止めることができないのです。
 イエス様は、弟子たちが、パリサイ人ら、人間の敵対勢力を、恐れる必要ないことを、三つの事実で説明されました。
 第一番目は、宣教とは、人間を通して神様が行っておられることである、と言うことです。ですから、体を殺しても魂を殺せない人間を恐れるのではなく、体も魂も地獄で滅ぼされる神様を恐れなければならないのです。
 第二番目は、二羽一アサリオンで売られている雀の一羽でさえ、父なる神様の許しなしには地に落ちることが無いのだから、ましてや雀よりも多くの価値のある弟子たちが、どうして父なる神様の守りから外れて、命を落とすことが有るでしょうか、否、命を落とすことは決して無いのです。ちなみに、29節の脚注を見ますと、「一アサリオンは一デナリの十六分の一。一デナリは当時の一日分の労賃に相当。」と書いてあります。昨年の日本人の最低賃金の全国平均は1時間当たり901円でした。ユダヤ人の一日の労働時間は日の出から日の入りまでの12時間です。そうすると一日分の賃金は10,812円となります。その16分の一は675円です。そうすると雀一羽は約338円と言うことになります。その338円の価値しかない雀でも、父なる神様の赦(ゆる)しが無ければ地に落ちることは無いのです。
 第三番目に、「あなた方の髪の毛さえも、全て数えられている」と言われました。誰が数えておられるのでしょうか。父なる神様です。人間の髪の毛の数は何本あるのでしょうか。髪の毛の数はお母さんのお腹にいた時に決まってしまうので、子供から大人になっても、ほとんど変わらないそうです。それで髪の毛は、少ない人で7万本、多い人で15万本有るそうです。平均しても10万本ですから、大変な数です。その数を父なる神様は全部知っておられる、とイエス様は言われるのです。健康な大人の人でも、毎日およそ100本の髪の毛が、抜けては、生え変わる、と言われています。神様は、私の頭のどこの髪の毛が抜けたのか、ご存知だとイエス様は言われるのです。そんなに細かいところまで私達は、神様によって管理されているということになります。神様とは何と恐ろしい御方でしょうか。このような恐ろしいお方を私達は信じているのです。この恐ろしいお方が私達についていれば、全く安心安全ですね。反対に敵に回したら、大変です。私達は気が変になって、狂い出し、自分自身を制御できなくなって、滅んでしまうのは必定です。

 そういう訳でイエス様は32節で言われました。「ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」「人々の前でイエス様を認める」とは「人々の前で私はイエス・キリストを信じています。」と明確に告白することを意味しています。「認める」と翻訳されているギリシャ語は、日本語で「告白する」と言う言葉です。「告白」を国語辞典で引くと、この様に書いてあります。「心の中の思いや秘密を打ち明けること、またその言葉。」皆さん。恋人に「あなたを愛しています。」と告白したことが有りますか。心の思いや秘密を打ち明けるのは大変な決心と勇気がいることです。しかし、それを大勢の人の前で、又は個々の人の前で行うことが求められているのです。「私はイエス・キリストを信じています。キリストは私の全ての罪を赦し、私を滅びから救ってくださいました。ですから私はもうイエス・キリストから離れることができないのです。」この様に人々の前でイエス・キリストを告白するなら、イエス様も父なる神様の前で、あなたのことをこの様に告白してくださると言われます。「父よ。この人が人々の前で、私を信じている、と告白しました。ですからこの人にはもう罪が有りません。私はこの人のために十字架に掛かったのです。」
 しかし、私達人間の心の弱さをご存知のイエス様は、私達の信仰を固くするために、この様にも言われました。33節です。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」人々の前で、「わたしはイエス・キリストを信じています。」と告白しない人に対して、イエス様も父なる神様の前で言われます。「父よ、この人は生前、人々の前で、私を信じている、と告白しませんでした。ですから私もこの人を知りませんし、この人の罪を赦したこともありません。ですからこの人の、体も魂もゲヘナで滅ぼしてください。」私達はイエス様の口からこの様な恐ろしい言葉を聞くことが無いように、態度を明確にしましょう。

 こう言う訳で、私達クリスチャンは全て、イエス様の弟子ですから、イエス様のことを宣べ伝える役目が、課せられています。いわゆる信徒伝道です。それは人々の前で、私はイエス・キリストを信じていると、告白することです。はっきりと告白しない限り、その人の生活はキリストを証しする生活とはなりません。イエス様がその人を導こうとしても、その人がイエス様から逃げていくからです。しかし人々の前で、イエス・キリストを信じていると明確に告白するならば、イエス様も父なる神様の前で、その人を明確に告白してくださいます。その人の人生は神様に守られ、イエス様によって導かれたものとなり、素晴らしく祝福された人生になることは間違いありません。この美しい大宇宙を造られた父なる神様がその人を内側から美しく飾ってくださるようになるからです。ですから私たちクリスチャンは当然のことながら、まだ信仰を得ておられない方々も、イエス・キリストを信じて、人々の前でイエス・キリストを告白する者となり、祝福された人生を歩む者とならせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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