説教全文

2020年6月14日(日) 聖霊降臨後第二主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「天の御国が近づいた」

マタイの福音書 9章35節-10章8節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 この本日の説教の題名で思い出されるのは、洗礼者ヨハネが主の道備えを始めた時に、まず「天の御国が近づいた」と宣べ(マタイ3:2)、次いでイエス様が宣教を開始された時の第一声も「天の御国が近づいた」だったことです。(マタイ4:17)。そして本日イエス様は弟子たちを福音宣教に遣わすにあたり、「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」と命じられたのです(マタイ10:7)。
 私どもの小針福音ルーテル教会も先々週の聖霊降臨祭で設立3周年を迎えましたが、まだこの御言葉をもって宣教に出たことが有りません。何しろ日本で初めて、アメリカ合衆国のミズーリ・シノッド・ルーテル教会の保守的、伝統的、福音的な神学をそのまま日本に実現しようとして、教会を設立したので、全てを一から始めなければならず、毎週の礼拝のための様々な準備に追われているからです。本日の説教を準備していて、漸く「『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』と宣べ伝えなさい」とイエス様から言われているような気持になりました。設立4年目に入り、礼拝準備も漸く軌道に乗って来つつあるので、これからは外に出て宣教したいと思っております。

 さてイエス様は、宣教を開始されてから、弟子たちを集め、その弟子たちを引き連れて、ガリラヤ地方のあらゆる町や村を巡って、会堂で教え、山の上で教え、またガリラヤ湖のほとりで教え、御国の福音を各地で宣べ伝えました。その傍ら、民衆のあらゆる病気、あらゆる患いを癒されました。何しろイエス様の所に来て癒されない病気は無かったからです。本日の聖書箇所であるマタイの福音書9章には難病の人々を癒された実例が書かれています。2節から7節には、病人を運んできた人々の信仰を見て、中風の人を癒し、18節から25節にかけては、御手を死んだ娘の上に置いていただくなら、娘はよみがえると信じた、会堂管理者の娘をよみがえらせ、20節から22節には、イエス様の衣の房に触れば癒される、と信じた長血の女性を癒し、27節から30節には、イエス様ならできると信じた二人の盲人のその目に触って、見えるようにされた記事が書かれています。また32節から33節には、悪霊に憑かれ口のきけない男の人から悪霊を追い出し、口が利けるように癒されたことが書かれています。これらの人々が癒されたのは皆、これらの人々の信仰を通してイエス様の力がこれらの人々に働いた結果、起きたことでした。
 ただで御国の福音を教え、ただで病気を癒してくださるので、その噂はイスラエルのみならず、イスラエル周辺の地域にまで及び、無数の病人が群れを成して、イエス様めがけてやって来るようになりました。これらの病人たちは、遠い道を、ロバに乗せられ、荷車に乗せられ、戸板に乗せられ、又は背中におんぶされ、又は本人が歩いて、イエス様の所に来た人たちでした。その群衆が様々な病気に悩み、苦しみ、打ちひしがれているのを、ご覧になられたイエス様は、本日の聖書箇所、マタイの福音書9章36節に書かれているように、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れて」いる彼らを可哀そうに思われました。この「弱り果てる」とは、導く羊飼いがいないために、とがった岩角や茨の針で、皮が剥がされたり、裂かれたりしている羊たちのことで、「倒れている」とは、死体のように、うつぶせになって、助けも無く、投げ出されている羊たちのことを表しています。ですからイエス様は、非常に多くの病人たちのうめき声や、癒しを求める声に取り囲まれ、そのあまりの悲惨さに、心が憐れみで満ち溢れ、怒りで張り裂けそうになっておられたのです。イエス様は神様です。ですから神様という御方は、私達人間の弱さを、人間以上に詳しく、深く知っておられる御方であるということが分かります。私達人間の悩みをよくご存じの御方なのです。私達の苦しみを、共に苦しんでくださる御方であるのです。
 この当時、医者が居なかったわけではありません。しかしほとんど医者が、高額の医療費を請求する割には、なかなか癒されない治療をするだけでした。先ほどの長血の女性も、並行記事であるマルコの福音書5章26節にはこのように書いてあります。「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」ですから、難病で悩む多くの病人とその家族は、財産を使い果たし、当の患者は死ぬのを待つだけの絶望的な状況だった、と言うことが分かります。
 昨今、医学が進歩し、多くのすぐれた医者が生み出され、ほとんどの病気が癒されるようになった現代では、神様の存在は薄くなっているのかもしれません。しかし私達は、なぜ病気になるのか、なぜ死んで行くのか、と言うことに目を向けなければなりません。私達が病気になり、死ぬのは、罪が原因であると、イエス様は言われます。マルコの福音書 2章17節です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためです。」イエス様はこの御言葉によって、ご自分は丈夫な人である正しい人を招くために来たのではなく、病人である罪人を招くために来た、と言われました。即ち、イエス様は「罪人は病人である」と言われたのです。つまり、人は罪を犯しているから病気になると言われました。このイエス様の言われる「罪」とは、アダムとエバの罪で、「原罪(げんざい)」と言われている、代々受け継がれていく遺伝性の罪です。この意味で、全ての人間は罪人で、病人なのです。イエス様は、全ての人が救い主である御自分を信じて罪を赦(ゆる)され、病気と死からの救いを必要としているのであって、罪の赦しを必要としない人は一人もいない、と言われました。ですからイエス様は、先ほどの癒された長血の女性に次のように言われました。マルコの福音書5章34節です。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」イエス様はこの御言葉で、長血の女性が癒されたのは、この女性が「私を信じたので、罪が赦された」からだ、と教えられたのです。
 この様なことは、イエス様の時代だけのものではありません。現代でも起こっています。私もイエス様に罪の赦しを求めた時、目の前に白い衣を着た方が現れ、「私もあなたに罪を認めない。」と言われました。この経験を、当時、仕事が終わってから通っていた、夜間の神学校の礼拝の時間で証しをしたところ、聞いていた学生の一人が礼拝終了後私に近づいてきて、「私も同じ経験をした。」と話してくれました。それまで私一人だけの事かと思っていましたので、びっくりしてしまいました。この様に同じ経験をした人が居ることを知り、聖書のお話は遠い昔のお話ではないと知った次第です。

 さて、ご自分に押し寄せてくる病人の群衆を見て、深く憐れまれたイエス様は、弟子たちに言われました。マタイの福音書9章37節と38節です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」このイエス様の御言葉は非常に興味深いものが有ります。イエス様は御自分に押し寄せてくる重病人たちを「収穫」と言われました。彼らはもう既に評判を聞きつけて、イエス様に癒していただこうと、頼って来ている病人たちです。その人たちは自分の病気が癒されれば、直ちにイエス様は神様だと信じる人達です。即ち天国と言う穀物倉庫に、入るばかりになっている人々のことです。しかし問題は、収穫すべき病人は多いのに、働き人は、イエス様御一人である、ということでした。それでイエス様は弟子たちに、「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と言われました。収穫の主とは父なる神様です。イエス様は弟子たちに、この父なる神様に向かって、「自分たちをも、『父なる神様の収穫の働き手として送ってください』、と祈りなさい」と、促されたのです。このイエス様の御言葉から、宣教とか伝道とかと言う仕事は、自分からしゃしゃり出て行う仕事ではないことが分かります。そうではなく、父なる神様から遣わしていただいて行う仕事である、とイエス様は言われました。なぜなら、宣教とか伝道とかと言う仕事は「父なる神様の収穫の仕事」であるからです。私達人間が、自分で畝を耕し、種を蒔いて、そして収穫するのではありません。既に、神様によって畝は耕され、種は播かれ、作物は実って、刈り入れを待つばかりになっているからです。ですからまず、父なる神様に祈るのです。「父なる神様。どうか私をあなたの収穫の場に遣わして、あなたが育てられた作物の収穫をさせてください。」

 イエス様に促された弟子たちは祈りました。するとイエス様は十二弟子に、汚れた霊どもを制する権威を授けられ、霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒す力を与えられました。こうして弟子達にはイエス様と同じ力、同じ能力が備えられたのです。すなわち神様の業を行う能力が与えられたのです。
 この神様の能力が与えられた弟子たちは、10章2節を見ますと、もう「十二弟子」ではなく、「十二使徒」と呼ばれています。イエス様御自身が、弟子たちを収穫の場に送り出すにあたり、「使徒」と正式に呼ぶようにされたことが分かります。というのは、「弟子」は修行中の身分ですが、「使徒」とは「遣わされた者」と言う意味であるからです。君主や王様から託されたメッセージを伝えるために、正式に権限を賦与された人々は、使節あるいは特使と呼ばれます。使徒は、神様であるイエス様から遣わされた者と言う意味です。ですから十二使徒とは特別な存在であることが分かります。神の御子イエス様に選ばれ、訓練され、神の能力を与えられた特別の存在です。その十二使徒の名前が2節から4節に渡って、二人一組とされて紹介されています。中でもこのマタイの福音書の著者であるマタイは、自分の名前を記すにあたって自分の職業名「取税人」を付けて、へりくだっています。

 イエス様はこの十二使徒を遣わすにあたり、今回の派遣の任務を述べられました。第一の任務は、異邦人たちやサマリヤ人たちの所ではなく、「イスラエルの家の失われた羊」に宣教することです。これらの羊たちは、羊飼いがいないので、滅びかけている羊たちです。まずこの羊たちを救わなければなりません。「イスラエルの家」とはヤコブの12人の子供たちから生まれた民族の事です。「イスラエル」とはヤコブが、二人の妻と11人の子供たちを引き連れてカナンに帰る途中、ヤボクの渡しを渡る時、神様と相撲を取り、神様に勝ったので、神様から与えていただいた名前です。創世記32章28節で神様はこのように祝福しておられます。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」「イスラ」とはヘブル語で「戦う」、「エル」は「神」を意味しています。ですから神様はヤコブを「イスラエル」と改名させ、あなたは「神と戦った人」であると祝福されました。ここから「神と共に支配する者」、「選ばれた民」と言う意味が込められています。ですからイエス様は、何としても神が選ばれたイスラエルの家を再建したいと意図されていたことが分かります。
 第二の任務は「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝える」ことです。「天の御国」とは天国の事で、神様が支配しておられる世界です。「近づいた」とは、今まで遠くに有ったので、入ることができなかったけれど、今は近づいたので、誰でも入れるようになった、と言う意味です。この時、イエスという神様御自身が、イスラエルの国におられたのです。手を伸ばせば届くところに天の御国はありました。ここには、この天の御国に入る条件が書いてありません。誰でも入れるのでしょうか。誰でも入れるのであったら、天の御国が、第二のこの世になってしまい、罪に穢れた此の世と変わらなくなります。ですからイエス様は、マタイの福音書4章17節で宣教開始の第一声として、次のように言われました「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この言葉から罪が赦されていない人は入れないということは確かです。天の御国は、悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じる人だけが入れる国です。この国は、毎回言っておりますが、この世に生きている間に入ってしまわないと、入れない国です。よく死んだら「天国に行く」とか、「星になる」とかと言いますが、それは嘘っぱちです。それは本人や家族の願いだけであって、何の保証もありません。しかし、誰でも、どんなに大きな罪を犯していても、悔い改めてイエス様を信じれば、確実に入れていただけるのです。入国許可の条件は、「悔い改めること」だけです。お金は一円もかかりません。この世に在って天の御国に入れていただくメリットは、イエス様が私達を事故やケガや病気や風評から守ってくださり、天の恵みで私達の生活を満してくださることです。
 そして第三番目の任務は、「病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」イエス様はこの任務命令によって、病気の癒しや悪霊の追い出しを行っても、人々から報酬をもらってはならないと命じられました。病気の癒しや悪霊の追い出しは、人々を天の御国に収穫するための畝作りや種蒔に当たり、そのために弟子達には、汚れた霊どもを制する権威が授けられ、霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒すと言う神様の力が「ただ」で与えられたからです。

 こういうわけですから、イエス様は十二使徒を宣教に遣わすにあたり、「『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」と言われました。「天の御国」とは神様の御支配なさる場所です。神の子であるイエス様が生まれ、成長され、天の御国を宣べ伝えられ、罪を赦され、あらゆる病気を癒され、十字架に掛かられ、復活され、昇天されるまでおられたイスラエルの国はその間、天の御国でした。この世に天の御国が存在したのです。それ以来、天の御国はこの世に存在しています。私達が悔い改めて、イエス様に罪の赦しを求める時、そこにイエス様がおられ、私達の罪を赦して下さるからです。そして私達をこの世の災害や不幸や病気から守り、私たちが祝福に満ちた生活を送ることが出来るようにしてくださいます。そして私たちがこの世を去る時には、イエス様自ら私達を迎えに来てくださるのです。
 このように、現在も「天の御国は近づいている」のです。ですから、私達はまず悔い改めてイエス・キリストを信じ、天の御国に入れていただきましょう。そして主イエス・キリストに祝福された「安全、安心の人生」を歩ませていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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