説教全文

2020年6月7日(日) 聖三位一体主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「父、子、聖霊の御名によって」

マタイの福音書 28章16-20節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 教会歴では、聖三位一体主日の本日より、イエス様の教えを伝える宣教の時節に入ります。イエス様は本日の聖書箇所の19節で、「それゆえ、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。以前にもお話ししましたが、私共は新しい教会を設立するにあたり、新潟県庁の宗教課に行って、宗教法人格取得の方法を教えていただきました。その時言われたことは、「まず会員として30人を集めなさい。それからここに申請に来なさい。その後3年間に渡って活動を毎月報告しなさい。」と言うものでした。係りの方は、活動報告の例を示してくださいました。それは、ある有名な宗教団体の活動報告でした。その報告書には集会の様子を後ろから撮影した写真が添付されていました。結構な数の人の後姿が写っていました。あれからもう5年近くになり、私どもの教会は、先週の聖霊降臨祭で漸く設立献堂3周年を迎えました。式文や讃美歌、その他の翻訳を並行して進めている手作りの教会ですから、毎週の礼拝の準備に時間がかかることに加え、会堂の未完成部分の補修にも時間を取られております。今年3月末には漸く、ホームページをスマホ対応に再構築しましたが、何とか礼拝の様子もビデオで紹介できないかと、現在模索している所です。そんなこんなで、なかなか教会の外に出て伝道活動をすることまでに至っていませんが、今年こそは教会案内を作り、少しでも外に出て伝道したいと願っております。アントニ・ガウディが設計し、今から138年前の1882年に建築を開始した、スペイン、バロセロナにあるサグラダ・ファミリア教会は現在も建設中なのは有名な話ですが、私共の会堂も昨年屋根に漸く十字架を付けた建築途中の教会です。私共は、この小針福音ルーテル教会はイエス様が始められた教会だと確信しておりますので、必ずイエス様が完成してくださると信じております。

 さて、本日の聖書箇所の手前のマタイの福音書28章7節では、イエス様がお墓の中で復活された時、お墓に来た女性たちに御使いが現れ、イエス様の復活を告げ、イエス様は先にガリラヤに行かれ、「あなた方はそこでお会いできる」と弟子達に告げよ、と言われました。そしてその後、同じく28章10節では、復活されたイエス様御自身が女性たちに現れ、「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えるのです。」と命じておられます。このように、「ガリラヤでイエス様に会える」と言う言葉が2回女性達に告げられたのは、「ガリラヤで会う」と言うことが、大変重要な意味を持っていたことが伺えます。
 本日の聖書箇所の16節をギリシャ語聖書で見ますと、「11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に行った。」と書いてあります。この時イエス様に会ったのは11人の弟子達だけだったでしょうか。先ほどの10節をよく見ますと、イエス様は「わたしの兄弟たちに、」と命じております。11人の弟子とはおっしゃっていません。イエス様の兄弟たちとは、罪を悔い改めて、救い主イエス様を信じるようになった人達です。さらに御使いに「弟子たちにガリラヤに行くように」と告げなさいと命じられた婦人方もいたのではないでしょうか。さらにコリント人への第一の手紙15章5節と6節を見ますと、復活されたイエス様は、「ケパに現れ、それから12弟子に現れ、そののち、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。」と書いてあります。そういう訳で、500人以上の兄弟たちのなかには、多分大勢いの婦人たちが入っていたと思われます。この500人以上もの人々が集まるのには、それなりの場所が必要だったことは明らかです。
 イエス様と会う場所と時刻は、事前にイエス様から指定されていたことが推察されます。何時、何処で会うのかと言うことは、事前に知らされなければ、会合は成立しないからです。また、原文のギリシャ語から分ることは、「山に登ったのではなく、山に行った」と言うことですから、この指定された山は、そんなに高い山ではなく、また、500人以上もの弟子たちが集まるとしたら、なだらかで広々とした場所であったと思われます。多分、マタイの福音書5章から7章に掛けて書かれているあの山上の説教が行われた場所と推測されます。もしそこであるとすると、イエス様が最初に大勢の群衆を前にして説教された、思い出深い場所ということになります。イエス様の救い主としてのデビューの場所であり、最後の別れの場所と言うことになります。そう言う訳で、このガリラヤの山での会合は、イエス様が昇天される直前の会合であったのではないかと思われます。
 大勢の弟子たちが、かつてイエス様が座って説教された場所を前にして座り、今か今かと待っていると、イエス様がその場所から少し離れた場所に突然現れました。弟子たちは姿勢を正してイエス様を礼拝したことでしょう。
 しかし、中には疑った弟子たちもいたと記されています。疑うなんて由々しきことです。それにしても、なぜ疑ったのでしょうか。この疑った人たちは、少なくとも11弟子たちで無かったことは確かです。11弟子たちは復活のイエス様にべたべたと触り、疑い深いトマスに至っては、イエス様の手の釘穴に指を差し入れ、胸に空けられた槍の跡に触ったからです。ですから疑った弟子たちは、復活のイエス様に会うことが初めての兄弟たちで、まだその復活の御身体に触ったことの無い人たちであったと思われます。しかしその疑いは、すぐに消えてしまいました。中心となる11弟子たちが、全く動揺せずに、当然のことのように、復活のイエス様を、再会の喜びで満ちた顔で見つめていたからです。

 イエス様は弟子たちに近づいて来て言われました。18節です。「わたしには天においても、地においても、全ての権威が与えられています。」権威とは何でしょうか。国語辞典をみますと、「権威とは、他の者を服従させる威力である。」と書いてあります。イエス様は今や、天においても地においても、他の者を服従させる威力を与えられたお方であるというのです。イエス様にこの権威を与えられたお方、即ち父なる神様を除いて、天においても地においても、全ての者がイエス様にひれ伏すと言われるのです。ですからこのイエス様の前では、悪魔も、天使たちも、そして当然人間たちもイエス様には逆らえず、服従あるのみなのです。けれども、悪魔や天使達は霊的な存在ですから、イエス様には逆らえないと知っています。しかし人間は「イエスって誰だ。」と言って、はばかりません。人間も霊的な存在なのですが、基本的に原罪と言う罪を犯しているために、霊の目が曇っていて、イエス様を神様と認めることができません。ですから日本人の99%はイエス様がどなたか分からないのです。日本人は霊的な目がガチガチに曇っている存在なのです。かく言う私も大学生になるまでは霊的なことが分かりませんでした。大学二年の時に、濱田徳昭と言うプロの指揮者から、西洋の宗教音楽の世界には深い精神的な世界が有ると教えられ、在学中にはモーツァルトのレクイエムとかベルディのレクイエム、またその後にはヘンデルのメサイヤやバッハのマタイ受難曲等を歌って、西洋の宗教音楽の精神的な世界を垣間見させていただきました。この影響で、社会人になってから教会に導かれるようになりました。
 話を元に戻しまして、「イエスって誰だ。」と言うような、神を神とも認めない、傲慢な人間に対処するために、必要な力が「権威」なのです。私達が宣教する時に、まずイエス様のお名前を通して、父なる神様に助けをお願いして、宣教を始めると、頼りない私達の力が用いられ、私達の宣教によってイエス様を信じる人が出て来て、私達の働きが実を結ぶようになる、とイエス様は言われます。これがイエス様の言われる「権威」なのです。即ち、私達が「神様。これからイエス様のことを人々に証ししますから、助けてください。イエス様のお名前を通してお祈りいたします。」と短く祈ってから、始めると、あなたの祈りを聞かれたイエス様が、あなたの証しを聞く人々の心を開き、あなたの証しを信じるようにしてくださると言われるのです。ですから、宣教は人間的な力で行うのではなく、「権威が与えられた」イエス様に祈って、イエス様の力で行わなければならないものである、ということが分かります。

 この天においても地においても、全ての権威が与えられたイエス様が、弟子たちに二つのことを命じられました。一つ目は19節です。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」イエス様はこの第一の命令によって、まず外に出て行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい、と言われました。そしてあらゆる国の人々にまず聖書を教えて弟子としなさい。人々に聖書を教えて、イエス様を信じるようになったら、「父と子と聖霊の御名によって」と唱えて、三度水を頭に振りかけ、洗礼を授けなさい、と言われたのです。これは通常の成人洗礼の順序です。ルーテル教会ではマルティン・ルター博士が書いた「小教理問答書」を学びます。これは聖書の内容を要約したものである、とも言える書物です。ですからこの書物を用いて、罪と何か、神とはどなたなのか、祈りとは何か、洗礼や聖餐式はどのような意味を持っているのか等々を学びます。
 しかし幼児の場合は、まず洗礼を授けて、神様の守りの内に入れてあげることが優先されています。この幼児洗礼を受けているからと言って、パンとぶどう酒の聖餐式に与れるわけではありません。多くの教会では、「小教理問答書」の学びを終えて、堅信礼を受けてから、聖餐式に与ることになります。
 成人洗礼にしても、幼児洗礼にしても「父、子、聖霊の御名において」洗礼を授けることが求められています。御父なる神様の御名だけでも、御子なるイエス様の御名だけでも、聖霊の御名だけでも、意味が有りません。キリスト教の神様は、父、子、聖霊の三位一体の神様であるからです。父なる神様から愛と祝福が与えられ、子なるイエス様から罪の赦しと救いが与えられ、聖霊なる神様から導きと助けが与えられるからです。キリスト教を名乗っている教団の中には、父なる神様しか見ていない教団もありますが、正統派のキリスト教会の神様からは、愛と祝福、赦しと救い、導きと助けが来ます。こんなにすごい神様はこの世に他にいません。この父と子と聖霊の神様のお名前で、洗礼を施すことによって、完全な信仰を受洗者に与える事ができることを、理解していただけるのではないでしょうか。
 この洗礼を施す者は、基本的に牧師に委ねられています。しかし人が危篤に陥った時など、危急の場合は、この限りではありません。キリスト教徒であればだれでも、父、子、聖霊の御名によって洗礼を施すことが認められています。この場合には後日そのいきさつを教会に報告して、受理されることが求められています。
 もう一つの命令は20節です。「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」毎週日曜日に持たれる礼拝は貴重な学びの場所ですし、聖書クラスでは聖書を更に学ぶことが出来ます。それと共に、人間は常に罪を犯し易い存在ですから、罪の告白を行い、罪の赦しが宣言される礼拝は、信仰を常に新しくする大切な場所です。この様な意味で礼拝に出席して、一週間に一度、罪を告白して、赦しを宣言されることは、信仰を保つのに欠かせないものなのです。そして説教の御言葉の解き明かしを通して、罪を示されたり、慰めを頂いたりして、私達の信仰に力が与えられるのです。これが宣教の原動力となります。

 こう言う訳ですから、私達は安心してこの世に出て行き、父、子、聖霊の御名によって、あらゆる人々に福音を宣べ伝えましょう。イエス様は、「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」とおっしゃってくださいました。私達の後ろには、天においても地においても、全ての権威が与えられているイエス・キリストが付いておられるのです。このお方が私達の活動の全ての責任を取ってくださいます。そして私達の宣教活動の努力が無駄にならないように、必ず用いてくださいます。私達の宣教の御言葉を聞いた人の心を開き、受け入れるようにしてくださるからです。しかし私たちが何も宣べ伝えなかったら、神様も働きようが有りません。ですから、私達は大胆になって、たとえ拙くとも宣教しましょう。拙ければ拙い程、神様が働いて下さる余地が出てきます。うれしいではありませんか。大切なことは、私達が一歩足を前に出すことです。神様はあなたの宣教活動を決して無駄には無さいません。必ずや豊かな実りに変えてくださいます。なぜなら、このお方は、天においても地においても全ての権威を与えられた、父、子、聖霊の三位一体の神様であるからです。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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