説教全文

2020年5月24日(日) 私たちの主の昇天主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「あなたがたは私の証人となります」

使徒の働き 1章1-11節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教の聖書箇所は、使徒の働き1章1~11節です。そして説教題は「あなた方は私の証人となります」です。
 本日は珍しく、四福音書以外からの説教箇所となります。イエス・キリストの昇天に関して一番長く書いてある書が「使徒の働き」であるということがその選んだ理由です。
 マタイの福音書とヨハネの福音書は、キリストの昇天について何も触れていません。
マルコの福音書は16章19節で、一言、キリストの昇天について触れています。「主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。」
 ルカの福音書も、24章51節で一言キリストの昇天について触れています。「そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。」
 なぜ四福音書はキリストの昇天について、どうしてこんなにつれないのでしょうか。それは、福音書のテーマとキリストの昇天のテーマは異なるからなのです。福音書のテーマは、人の救いです。「あなたはイエス・キリストを信じるだけで救われます」という教えです。すなわち福音書はクリスチャンになることを勧めている書物です。それに対してキリストの昇天のお話は、既にクリスチャンになった人に対して、キリストの証人となることを勧めているお話です。こういう風に見るならば、キリストの昇天は、福音書にはなじまず、「使徒の働き」に分類されるテーマと言うことになります。
 また福音書が「マタイ」、「マルコ」、「ルカ」、「ヨハネ」、と四つもあるのは、キリスト教への入門書として、様々な人に合うようにと、救いの間口を広くしているためとも考えられます。「マタイ」は旧約聖書の預言の成就が頻繁に書かれていることから主にユダヤ人向けに書かれたと言われていますし、「マルコ」は四福音書の中で一番短いので、忙しい人向けに書かれていると思われますし、「ルカ」は医者ルカが書いたことから理路整然と書かれていますので理論を好む人向けとも見ることができますし、霊感福音書と呼ばれる「ヨハネ」は神秘的なことを好む人向けに書かれていると見ることができます。
 それに引き換え「使徒の働き」は一つしかありません。それは福音書を通してクリスチャンになった人が、どのようにしたら、救い主イエス・キリストの証人となることができるかを教えている書であるからと言えます。

 本日の説教箇所が載っている「使徒の働き」は、ご存知のように「ルカの福音書」を書いた医者ルカが書きました。「ルカの福音書」もそうですが、「使徒の働き」にも献呈の辞が記されています。「献呈の辞」とは、「本を差し上げる相手に対する挨拶の言葉」です。「ルカの福音書」も「使徒の働き」も、両方とも相手はテオピロと言う人です。しかし「ルカの福音書」と「使徒の働き」の献呈先の宛名の書き方を見ますと違いが見えてきます。「ルカの福音書」の方は、原典であるギリシャ語聖書を見ると、その1章3節に「尊敬するテオピロ閣下」と書いてあるに対して、「使徒の働き」のほうは、その1章1節に「テオピロよ。」と、いわば親しみを込めた言い方をしており、「閣下」と言う敬称が有りません。この違いは何を意味するのでしょうか。「ルカの福音書」1章4節には、テオピロが既にキリスト教の教えを受けていたことが記されています。ですから医者ルカがその著書「使徒の働き」を献呈しようとした時には、テオピロ閣下は既に洗礼を受けて兄弟姉妹のクリスチャンになっていた、と推定されます。それで多分ルカはテオピロに、「あなたもキリストの証人と」なって欲しいと願って「使徒の働き」を書いたのではないかと思われます。
 そういう訳で、本日の聖書箇所である「使徒の働き」1章1節から3節までは、「ルカの福音書」に記載した内容を、短くまとめた言葉、ということになります。

 しかし逆に次の4節以降は、ルカの福音書24章47節以降で短く述べた言葉を、少し詳しく書いてあります。ルカの福音書24章49節でイエス様は言われました。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」この言葉を福音記者のルカは使徒の働き4節と5節でこのように膨らませて述べています。「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」この二つの御言葉を比べますと、「父の約束」とは「いと高きところから力を着せられる」ことであり、それは「聖霊のバプテスマを受けること」であることが分かります。弟子たちは全員洗礼者ヨハネよりヨルダン川の水をかぶって洗礼を受けていました。しかし、イエス・キリストを信じて、罪を告白し、そして頭に水をかぶったとしても、それは罪を洗い流すことしか意味しません。ですから彼らは、まだ聖霊のバプテスマを受けていませんでした。なぜなら、聖霊降臨がまだ起きていなかったからです。当時の弟子たちにとってあと10日間の辛抱でした。

 けれども弟子たちは辛抱できなかったようです。5節でイエス様が「あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」と言われたので、弟子たちは興奮したのでしょう。一緒になってイエス様の所にやって来て尋ねています。6節です。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」この弟子たちの言葉は、ある意味で正しく、ある意味で勘違いしていました。まず勘違いとは、弟子たちは、イエス様が「この世のイスラエル」を再興してくださると受け取ったことです。弟子たちは、これでローマ帝国の支配から脱却できると期待したのです。ですからイエス様は7節で「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」と言われて、「この世のイスラエルではありませんよ。」、とやんわりと否定されました。
 そして8節で、まことのイスラエルの国の再興を示されました。説教の前に皆さんと賛美した御言葉です。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」この御言葉によってイエス様は、弟子たちが聖霊のバプテスマを受けると、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、ついには地の果てまでイエス様の証人となり、即ち全世界の人々に対してイエス様の証人となって、全世界規模の霊的なイスラエルを再興するようになる、と預言されました。弟子のヨハネはそのヨハネの手紙第一1章1~3節でこのように証ししています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」弟子たちは、イエス様と3年余り寝食をともにして、イエス様が非常に多くの人々の病の癒し、生まれつき盲目の人の目を開け、水の上の歩き、嵐を鎮め、5千人や4千人の人に食事を与え、私達人間の罪の身代わりとして十字架に掛かり、死んで復活されたお方であることを間近に見ていました。さらに弟子たちは、その復活されたお身体を、じっと見て、また手でべたべたと触ったので、確かにこの方は復活されたお方であると証しできたのです。イエス様と共に生活したということで、弟子たちは第一級の証人たちでした。
 使徒パウロはイエス様とは一緒に生活をしませんでしたが、クリスチャンを迫害するためにダマスコまで行く途中にイエス・キリストが突然彼に現れ、クリスチャンに変えられ、使徒として召された人です。使徒パウロは小アジアやギリシャに多くの教会を建て、ローマを通ってスペイン迄伝道したと伝えられています。また使徒のトマスはインド迄伝道したと伝えられています。医者ルカは使徒ではありませんでしたが、使徒たちの証しぶりを生き生きと記して、二千年後の現代にいたるまで、そして地の果ての日本にまで、使徒たちに生き生きと語らせ、多くの人々を信仰に導いています。
 そして使徒パウロはエペソ人への手紙1章13~14節で、このイエスの証人たちの証を受け入れ、イエス・キリストを信じて洗礼を受ける人には、聖霊のバプテスマが与えられ、「約束の聖霊をもって証印を押され、御国を受け継ぐことを保証される」と教えています。

 この様にイエス様は、使徒達が聖霊のバプテスマを受けると、地球規模の霊的なイスラエルを再再興するようになると、預言され、そして復活されてから40日後にエルサレムの東側に位置するオリーブ山から天に昇って行かれました。使徒の働き1章9節には短い言葉でイエス様の昇天の様子が記されています。「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」これだけですと最初に述べたルカの福音書の記述とどっこい、どっこいで、大差ありません。どのようにしてイエス様が昇って行かれたのか、詳細が分かりません。差が出てくるのは次の10節と11節の御言葉です。まず10節の御言葉です。「イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。」ここに弟子たちが何時までも天を見つめていたことが記されています。なぜ見つめていたのでしょうか。そしてどうして白い衣を着た人が二人彼らの側に現れたのでしょうか。まず、この白い衣を着た二人の人は、イエス様が復活された朝、イエス様の体に香料を塗りに来た婦人たちを助けています。婦人たちは、肝心のイエス様の体が見当たらず、途方に暮れていました。そこに二人の天使が現れ、婦人たちに告げました。ルカの福音書24章6節です。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」このことから考えますと、この二人の天使達はどうもお助け屋さんのようです。天使達は弟子たちに呼びかけています。11節です。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」イエス様が、またこの地上においでになるのは、この世の最後の再臨の日のことです。ですから、この天使達の言葉から、イエス様の昇天の有様とイエス様の再臨の有様は同じであるということが分かります。私達は聖書から、イエス様の再臨の様子はわかっています。マタイの福音書24章30節にはこのように書いてあります。「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」このイエス様の言葉から、イエス様の昇天の時も、イエス様が「大勢の御使いを従え、大能と輝かしい栄光を帯びて、天の雲に乗って」帰って行かれたということが分かります。それだけでなく、詩篇47篇5節にはこのように書いてあります。「神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。」この様な荘厳な光景と、喜びの叫びや、角笛の音は、弟子達だけの目に見え、耳に聞こえていたことでしょう。ですから弟子たちは、その荘厳さに打たれ、しばし呆然と天を見つめて動くことができなかったのだと言うことができるのではないでしょうか。
 しかし再臨の時には、この世の全ての人の目に見え、耳に聞こえる有様でやって来られることは確かです。その時、何も知らなかったと慌てふためく人が出ないように、準備することが必要です。その責務が、クリスチャンに求められています。ですからイエス様と生活を共にした第一級の証人たちを除く、全てのクリスチャンは、第二級の証人となることが求められています。クリスチャンは「御父と御子と聖霊の御名」によって洗礼を受ける時、同時に聖霊のバプテスマ設けます。ですから全てのクリスチャンには洗礼を受けた時に聖霊降臨が起っているのです。そういう訳で、全てのクリスチャンは既に第二級の証人なのです。
 そうは言っても会ったこともない人の証人になることは難しいですね。ですから、是非イエス様にお会いしてください。イエス様は神様ですから、今でも当然生きておられます。そしていつも耳を澄まして、ご自分を呼び求める声を聞こうとされています。詩篇14篇2節にはこのように書いて有ります。「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」イエス様の方では、「神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかを」何時もご覧になっておられます。ですから謙遜になって、神様を尋ね求めましょう。そして神様とお会いしましょう。神様は尋ね求める人に、必ず答えてくださいます。聖書がそう約束していますから間違いありません。

 こういうわけで、本日イエス様は世界中のクリスチャンだけでなく、まだクリスチャンでない人の、御自分を尋ね求める声を聞くために、大能と輝かしい栄光を帯びて、天の雲に乗って、喜びの叫び声と、角笛の音の中を、天に昇って行かれました。この天におられるイエス様をクリスチャンである私達は謙虚になって尋ね求めましょう。そうすればイエス様はあなたにお会いしてくださり、あなたを証人としてくださいます。イエス様は救い主ですから、一番確かな方法は、罪の赦(ゆる)しを願うことです。この救い主に向かって、罪の赦しを乞うのです。罪が赦されるほど感謝なことはありません。感謝に溢れてイエス様の証人となることは間違いありません。イエス様お会いし、イエス様の証人となり、多く人をイエス様の許に導く人とならせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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