説教全文

2020年5月3日(日) 復活節第四主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「私が来たのは羊が命を豊かに持つためです」

ヨハネの福音書 10章1-10節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 今年の初めから世界中は、新型コロナ・ウィルス感染症で、苦しめられています。世界中で多くの人々が亡くなり、埋葬するのが間に合わなくて、多くの棺桶を冷蔵コンテナに一時保管しなければならない国もあります。私達の日本も、だらだらと対策が行われ、緊急事態宣言も延長される様で、何時収束するのかという見通しが全く立っておりません。何に頼ったら助かるのか見えない時代にあって、何時も確かなことは、救い主イエス・キリストに頼ることです。本日の聖書箇所がどのようにしたらイエス・キリストを信じることができるようになるかを教えていますので、聖書に聞いて参りましょう。
 本日の説教箇所は、四旬節第四主日の3月22日の礼拝で、説教されたヨハネの福音書9章の続きです。3月22日に説教された福音書の箇所と言われてもピーンと来ない方がおられると思います。かいつまんで話しますと、ヨハネの福音書9章全体は、イエス様が、生まれつき盲目の青年の目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと命じて青年の目を開け、見えるようにされたお話です。その時、民衆の指導者を自認しているパリサイ人に向かってイエス様は言われました。9章最後の41節です。「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』」
 そしてイエス様は本日、目を開けていただいた青年とその家族や近所の人々、それにイエス様の弟子たちのいる前で、パリサイ人たちに向かって、「あなた方の罪」すなわちパリサイ人の罪とは何であるか、説明されました。本日の聖書箇所10章1節です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」イエス様はこの御言葉で、パリサイ人たちの罪とは、「盗人で強盗」の罪だと指摘されました。しかし、パリサイ人たちは、まさか自分たちが門から入らないで、囲いの塀を乗り越えて羊を盗みに来る盗人で強盗である、とは想像だにしませんでした。それで6節に書いてあるように、「何のことか良く分からなかった。」のです。しかしイエス様が「まことに、まことに」同じ言葉を二回繰り返される時は、大事な事を話されている時です。イエス様は裁判所の法廷における裁判官のように、例えを通してパリサイ人たちがやっていたことに、判決を下されたのです。だれでも面と向かって「あなた方は盗人で強盗です。」と言われたら、怒り出しますが、例えで話されると、すぐには理解できません。しかし、あまりにも当たり前の例えなので、何時までも心の中に残ってしまいます。そして何日か経ったある日「ひょっとしたら、おれたちが盗人で強盗かもしれない。」と気付くのです。
 ところで、パリサイ人たちとはどのような集団であるのかと言いますと、日常生活において律法への服従が何よりも重要と自覚して、幼い頃からモーセ五書を暗唱し、律法を学び、守ってきた人々の集まりです。このパリサイ人で有名な人には、ヨハネの福音書3章1節に登場するユダヤ議会の議員ニコデモや、初めはクリスチャンの大迫害者であった使徒パウロ(使徒の働き23章6節)がいます。
 また、「羊」とはパリサイ人に指導されている一般のユダヤ人たちです。そして「羊の囲い」とは、夜、羊たちが眠る時に、熊やライオンから羊を守る塀で囲まれた場所です。具体的にはパリサイ人らが説教するシナゴーグと呼ばれるユダヤ教会堂を例えていると思われます。「門」とは、羊の囲いの出入り口で、7節と9節でイエス様が「わたしは羊の門です。」または「わたしは門です。」と言われるように、イエス様御自身です。そうすると「門番」はイエス様に仕える天使でしょう。
 したがってイエス様は1節でこのように言われました。「パリサイ人よ。まことに、まことに、私はあなた方に告げます。門である私を通らないで、塀を乗り越えて来るあなた方は盗人や強盗です。」
 同じようにイエス様は2節でこのように言われました。「しかし、門である私を通して羊の囲いに入る者は、その羊の牧者です。」
 この1節と2節で示される「門を通る」とは何を意味するのでしょうか。イエス様はヨハネの福音書14章6節で言われました。「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰一人父の御許に来ることはありません。」この御言葉から、父の御許に行くには、イエスという道を、歩まなければ行くことができない、ことが分かります。昔、使徒の時代、キリスト教は、「この道」と呼ばれ、「この道」を信じる者は「この道の者」と呼ばれていました。使徒の働き9章1-2節にこのように記されています。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」ですから、「イエスという道を歩く」ことは「イエス様を信じる」ということを意味します。「イエスという門を通る」ことも同じ意味で「イエス様を信じる」と言うことになります。
 反対に「イエスという門を通らないで、他の所を乗り越えて来る」とは、イエス様を信じないで、律法の教えを自分流に勝手に解釈して、会堂で説教をすることを意味します。マタイの福音書15章8節と9節で、イエス様はパリサイ人に対して、預言者イザヤの預言を引用して言われました。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」「パリサイ人は人間の教えを教えとして教えている」とイエス様は預言者イザヤの言葉を引用して言われました。ですから羊である民衆は「パリサイ人の言うことを聞かなかったのです。」人間の教えですから、律法の勝手な解釈で生活を縛られるだけだったのです。
 幼い時からモーセ五書を暗唱し、さらに大人になってから、教師について律法を学んだパリサイ人たちが、どうして盗人で強盗なのでしょうか。何回も言うことになりますが、彼らは律法を細分化して、一つ一つを具体的に実行することによって、律法を守って来たと自負してきました。すなわち行為によって律法を守ってきたのです。マルコの福音書7章3節と4節にはその律法を守る例が書いてあります。例えば、「食事の前には、手をよく洗う。市場から帰ってきた時には、体を浄めてから食事をする。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、固く守るように伝えられてきた、しきたりがたくさんある。」この様に、目に見える行為が優先されると、目に見えない信仰が軽視されがちです。民衆に律法を守らせることに熱心だったパリサイ人は、目に見える行為を重視しました。その結果ユダヤ人は、律法を守る行為によって義とされるという、行為義認の考えにどっぷりとはまり込み、100%律法を守っていると信じ込んでいたのです。しかしイエス様は、このユダヤ人の行為による律法の守り方を、この様に批判しておられます。ヨハネの福音書5章46節です。「しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」イエス様はこの言葉で、ユダヤ人は、モーセ五書を神様の言葉として信じて行うのではなく、信じないで、ただやみくもに行っている、と断言されました。ですからパリサイ人の行為義認の考えは、間違っているとされたのです。そういう訳でイエス様は1節で、「私の前に来た者は皆、盗人や強盗です。」と言われたのです。なぜパリサイ人が皆、盗人や強盗であるかと言うと、パリサイ人は、自分たちと同じ行為義認を信じる改宗者を造るのに熱心で、改宗者ができると自分よりも、倍も悪いゲヘナの子、即ち地獄の子にしてしまうからです。とイエス様がマタイの福音書23章15節で言明されています。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」

 しかしモーセや、預言者や、信心深い指導者たちは、約束された救い主を信じて、民を導きました。この人たちが2節で言う「門から入ってきた、その羊の牧者です。」3節と4節です「門番は彼のために門を開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」この信心深い指導者たちは、羊の名前を呼んで、一匹一匹世話をしていることが分かります。信心深い指導者たちは、自分の事よりも羊である民衆のことを心に掛けていたのです。ですから民衆は信心深い指導者たちの声に耳を傾け、彼らについて行ったのです。
 けれどもパリサイ人たちは自分の事だけしか考えていなかったので、5節でイエス様が言われるように、「しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」ですから、民衆の心はパリサイ人たちからは離れていたのです。

 イエス様が例えを用いて、やんわりと、パリサイ人を批判されたので、パリサイ人たちは自分たちが批判されているとは気づかず、何のことを言われているのか良く分かりませんでした。それでイエス様は、今度は例えを半分にして話されました。7節です。「まことに、まことにあなたがたに告げます。私は羊の門です。」イエス様はご自分のことを「私は羊の門です。」と言われ、羊である民衆を教え導く者は、まず私を信じなければなりません、とはっきりと言われたのです。私を信じること無しに、人々を教える人は、盗人で強盗です、と言われました。なぜなら、イエス様を信じていないパリサイ人は、イエス様の教えが分からず、結局人をゲヘナの子、地獄の子にしてしまうからです。即ち滅ぼしてしまうことになるからです。なぜならパリサイ人の教えは、人間の教えであるからです。

 ですからイエス様は9節で言われたのです。「わたしは門です。誰でも、私を通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見付けます。」この御言葉は、往々にして誤って解釈されています。私もその誤って解釈していた一人でした。かつて私もこのように解釈したのです。「誰でもイエスを信じるならば、罪から救われます。その子羊は囲いの中から自由に出入りして美味しい牧草地に導かれる。」と受け取っていたのです。この様に解釈される原因となる言葉が「救われます。」と翻訳された言葉です。
 でも今回、原文のギリシャ語をよく確認しましたら、私のこの解釈は間違っていることが分かりました。ギリシャ語に従って日本語に翻訳するとこの様になります。「わたしは門です。どんな男の人でも私を通って入るならば、安全です。そして出入して、そして牧草地を見付けます。」この男の人とは牧者の事であって、羊である一般の人ではありません。そのことがギリシャ語の文法から明確に判断できるのです。ですからイエス様この言葉によってこのように言われました。「わたしを信じて人を教える牧者は、誰でも正しく教えることができるので、羊を安全に導く牧者となることができます。その牧者は、夕方には、囲いの中に、信者である羊たちを導き入れ、朝には羊たちを導きだして、牧草地に連れて行きます。」
 そしてイエス様は10節で結論を述べられました。盗人であるパリサイ人の教えは、すなわち行為義認の教えは、人間の教えであって、人々を盗んだり、殺したり、滅ばしたりするためだけに、行っているのであって、決して人々を生かすためにやっているのではない。しかし私イエスは、人々が命を得、それも永遠に生きる命を得るために来たのです、と言われました。
 イエス様からこの様に言われますと、私達は指導者としてパリサイ人よりもイエス様を選ぶのが良いように思いますが、しかしイエス様の時代、ユダヤ社会を支配し、会堂を支配していたのはパリサイ人で、イエス様を信じる者は会堂から追放される時代でした。社会から村八分となるのです。人間は社会的な生き物であることを考えると、それはなかなか決心できない事でした。
 しかし今の時代、特に日本においては信教の自由が保障されています。どの宗教を信じても良いのです。数多い宗教の中から一つを選べ、と言われたらどうしたら良いでしょうか。キリスト教を選んだとしても様々な宗派が有ります。どの宗派を選んだ良いのか悩みますね。そのような時、一番良い方法は、自分の含め人間の考えに頼るのではなく、天におられる神様に頼ることです。神様に「あなたを信じたいので導いてください。」と短くお願いすることです。そうすれば神様はあなたの声を天で聴いてくださいますので、あなたを導いてくださいます。神様はあなたの全ての事をご存知ですので、一番良い時期に、一番良い方法で、一番良い教会へと導いてくださいます。

 こういう訳ですから、羊である私達は、まず神様にお願いしましょう。神様に「神様。あなたを信じたいので導いてください。」と短くお願いするのです。そうすれば正しい指導者のいる教会へと導いていただけます。また、既に信じている人は、信仰を新たにしましょう。日々悔い改めることです。そうすれば日毎に罪赦(ゆる)され、イエス様はあなたに永遠の命すなわち神の守りを与え、この世に在って、あなたをこの世の天国に導いて、素晴らしい生活で満ち足らせ、この世を去る時には、イエス様自ら迎えに来てくださり、天の御国である天国に導いてくださいます。羊であるあなたがイエス様を信じて、命を得、またそれを豊かに持つためにイエス様は来られたのです。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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