説教全文

2020年4月19日(日) 復活節第二主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「イエスの御名によって命を得る」

ヨハネの福音書20章19-31節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 いま日本だけでなく、世界中で新型コロナウィルス感染症が蔓延(まんえん)しています。この病気の恐ろしいところは、重症化すると、あっという間に死んでしまうことです。この見えないウィルスとの戦争のさなかであるにもかかわらず、お隣の韓国の対策と比較すると、日本の対策は無能なリーダーの下に、忖度議員、忖度官僚が従っているだけの非常にお寒い戦闘態勢のように見えます。韓国ではPCR検査を積極的に行い、感染者を隔離した政策が成功し、患者の発生がピークを過ぎて、今新たな陽性患者発生数は1日20人前後だそうで、経済活動は戻り、大勢の人が食堂で安心して鍋をつついている映像を見て、彼我の差にびっくりしております。
 この新型コロナウィルス感染症は、その強力な感染力のゆえに、この世の終わりの始まりの様な気がします。この感染症が鎮静化しても、また次に新たな災害が起こることは間違いありません。その時も多くの人の命が失われる可能性が有ります。そういう時に日ごろから何を備えておかなければならないか、本日の聖書箇所が示していますので、本日の御言葉に聞いてまいりましょう。

 さて、本日の聖書箇所の場面は、イエス様が復活された日の夕方と、その一週間後の日曜日の話です。まずイエス様が復活された日、エルサレムの町の中のある家に、イエス様の弟子たちが大勢集まっていました。そしてその日、夜明けから夕方に至るまでに起った出来事が、話し合われていました。早朝にはお墓に行った婦人方から、天使達と復活されたイエス様に出会ったという報告が有り、その報告を聞いたペテロとヨハネがお墓に走って行き、イエス様の遺体が無いことを確認しています。そしてペテロにイエス様が現れたという報告が有り、夕方にはエマオの村に向かっていた弟子たちから、道々イエス様と歩き、エマオの村でイエス様と夕食を摂ったと報告が有りました。そんなこんなで、日曜日の晩は、大勢の弟子たちが集まり、イエス様が復活されたらしいという話題で、もちきりでした。
 そんな時、イエス様が音もなく、みんなの真ん中に、突然にゅーっと現れたので、会話はパタッと止まり、弟子たちは息を飲み、驚きと恐れで一瞬固まってしまいました。その固まりを解くかのようにイエス様は、言われました。「平安があなた方にあるように。」このイエス様の言葉が弟子たちの耳に入った途端、弟子たちの心は平安に満たされ、恐れの顔から柔和な顔に変わり、みんなの目がイエス様の顔を見つめました。イエス様の顔は、いつもと変わらぬ平安に満ちていました。
 イエス様は、弟子たちの心が落ち着いたのをご覧になると、十字架に付けられた時に傷付いた、ご自分の両手の釘穴や、槍で刺された脇腹の生々しい傷口を弟子たちに見せました。弟子たちは皆イエス様に近寄り、まずじっと、イエス様の手に空いた釘穴を見つめ、その手のひらに触り、次に釘穴に指を指し入れ、次に胸の傷口に触りました。この時の様子を使徒ヨハネは、ヨハネの手紙1章1節にこのように書いています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」弟子たちは心行くまでイエス様の体にべたべたと触り、遠慮なく釘穴に指を差し入れ、失礼とも思わず、胸の傷口に触ったことがわかります。そして「このお方は、あの十字架に掛かられた私たちの主だ。死から復活された主だ。」と確信できたのです。それで弟子たちは、漸くイエス様を信じることができ、心が平安で満たされ、復活された「主を見て喜んだ」のです。この平安に満たされた喜びは、どんなにか大きかったことでしょうか。イエス様の十字架の死で、夢と希望の全てが崩れ去り、信じたくもない事実に押し切られ、深い悲しみに打ちひしがれるという、むごい悪魔の仕打ちに沈んでいた二日間でした。その現状が、何と全てひっくり返され、悲しみのどん底から、天にも昇るような喜びに包まれたのです。

 その喜びに、今にも踊り出そうとしている弟子たちに、イエス様はもう一度言われました。「平安があなた方にあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」イエス様は、その喜びを世の人々に伝えなさい、と言われたのです。「イエス・キリストは、十字架の死から復活された神様である」、と言うことを、世界中に伝えなさいと、命じられました。イエス様はこのように言われました。「私が父からこの世に遣わされる時、父は私に平安を与えてくださいました。ですから今度は私があなた方を遣わします。あなた方は私の平安を持って、世の人々に、この喜びを伝えに出て行くのです。私の平安はこの世が与える平安とは違い、父が私に下さった平安です。それは聖霊です。私はあなた方にこの聖霊を与えます。」
 そう言われて、イエス様は弟子達に息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を赦(ゆる)すなら、その人の罪は赦され、あなた方が誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」確かに、イエス様もヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて、水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩の姿をして、イエス様の上に下りました。そして天が開け、父なる神様の声がありました。「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。」イエス様は父なる神様から、「神の御霊」を受けて救い主の任務に就任されました。同じように弟子たちもイエス様から「イエスの御霊」である聖霊を受けて、宣教者の任務に就任するのです。
 例えば使徒パウロは使徒の働き9章で、使徒として任命された時、この聖霊に満たされています。使徒パウロは、ユダヤ名サウロと言い、こちこちのパリサイ人で、主の弟子たちに対するおびやかしと殺害の意に燃えて、ダマスコに行く途中、イエス様の強い光に照らされて、地面に打ちのめされ、盲目となりました。そのサウロにアナニヤと言う弟子が遣わされ、「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるようになるためです。」と祈ると、直ちにサウロの目から鱗(うろこ)のようなものが落ち、目が見えるようになり、立ち上がりました。そして洗礼を受け、数日間ダマスコの弟子たちと共に居ましたが、「直ちに諸会堂で、イエスは神の子であると述べ伝えたのです。」この様に聖霊に満たされると、人は宣教者に変身するのです。このパウロが、小アジヤで宣教活動していた時、聖霊によって禁じられ、「イエスの御霊」によって許しが得られなかったと、当時の思い出を、述べる場面が有ります。使徒の働き16章6節と7節をお読みいたします。「それから彼らは、アジヤで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」こうして「イエスの御霊」の導きにより、小アジヤからヨーロッパ伝道への道が切り開かれることになりました。
 イエス様は弟子たちに聖霊を授けると、言われました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」イエス様はこの御言葉によって、弟子たちに宣教者としてのとても重要な権威を授けました。それは罪の赦しです。イエス様を救い主と信じて受け入れる人の罪を赦し、イエス様を信じようとしない人の罪は、赦さずにそのままの残す権威です。罪の赦しを受けた人は天国に導かれ、罪がそのまま残された人は地獄に導かれます。罪が赦されるということは、天と地ほどの違いが有ります。この世の裁判でも、裁判官から「無罪」と宣言していただくことほど嬉しいものはありません。この世の裁判官の赦しは、この世だけですが、宣教者の罪の赦しは、この世とあの世の両方に力が及びます。宣教者が、この世とあの世を取り仕切っておられるイエス様を信じているからです。

 さて、ようやく本日のクライマックスの場面にやって来ました。十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエス様が来られた時に、弟子たちと一緒にいませんでした。イエス様が来られる直前までは一緒にいたのですが、興奮してイエス様の復活を語る弟子たちの話に、とても付いて行けなくなり、そっと部屋を抜け出しました。
福音記者のヨハネは、トマスをデドモと呼んでいます。トマスと言う名前はアラム語で双子を意味します。デドモと言う名前もギリシャ語で、やはり双子を意味します。ですから「トマス」と言う名前は誕生した時に付けられたユダヤ名と言うことになり、したがってデドモはそのギリシャ名となります。
 トマスがいくら疑い深い性格を持っていたとしても、もう少し待っていれば復活されたイエス様に会えたかもしれなかったのです。でも会えなかったということは、別に理由があったと言うことになります。福音記者ヨハネは、トマスを24節で「十二弟子の一人」と言う言葉で紹介しています。ヨハネの福音書の中で、もう一人「十二弟子の一人」と言う言葉で紹介されている弟子がいます。誰だか分かりますか。そうです。イスカリオテのユダです。ヨハネ 6章71節で 福音記者ヨハネはユダを「このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」と言っています。さらに恐ろしいことは一節前の6章70節でイエス様はこのユダのことをこの様に言っています。「私があなた方十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちの一人は悪魔です。」イエス様は、悪魔であるイスカリオテのユダを、弟子にしたと言っています。イスカリオテのユダの裏切りによってイエス様はユダヤ人らに捕らえられ、無理やり十字架に掛けられてしまいました。この様な意味で、十二弟子の一人ユダの働きは、イエス様に死をもたらすことであったということができます。

 それではもう一人の十二弟子の一人、トマスはどのような働きをしたのでしょうか。それが本日のテーマです。トマスは、イエス様が復活された日曜日の夕方、イエス様が来られた時に、弟子たちと一緒にいませんでした。それで弟子たちは、復活されたイエス様に会えなかったトマスに、1週間の間、「私達は主を見た。」と異口同音に言い続けていました。多分、弟子たちもトマスに、「私達は復活したイエス様をじっと見つめていた。じっと見ただけでなく、私達はイエス様の手に触り、その釘跡に指を差し入れ、脇腹の槍の傷跡にも触った。確かに三日前に十字架に掛かったイエス様だった。そのイエス様が復活されたんだ。」と言い続けていたと思われます。
 でもトマスは、そのような弟子たちの証言を、そのまま受け入れる単純な人ではありませんでした。彼は疑い深いのです。それでトマスは彼らに言いました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘の所に差し入れ、また私の手をその脇腹に差し入れて見なければ、決して信じません。」と言い切ったのです。トマスは仲間の証言を決してうのみにしませんでした。自分でも検証する必要を感じていたのです。そういう意味でトマスは、現代の科学者です。それも優秀な科学者です。しかしイエス様は、この弟子たちとトマスの会話を、人間の目には見えない姿で聞いていました。
 イエス様のご復活から八日後の日曜日の夕方、すなわち本日の夕方に弟子たちが集まっていた時、トマスも一緒にいました。そしてイエス様が現れ、弟子たちの真ん中に立って言われました。「あなた方に平安が有るように。」そして直ちにトマスの方を向いて言われました。「あなたの指をここに付けて、私の手も見なさい。手を伸ばして、私の脇に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 さて、このイエス様の言葉に従って、トマスは、イエス様の手の釘跡に指を差し入れ、脇腹の槍の傷跡に手を入れたでしょうか。そうです。トマスは、イエス様の手の釘跡に指を指し入れ、脇腹の槍の傷跡に触りました。イエス様の命令の厳しさは、日本語からは見えてきませんが、ギリシャ語からは見えるのです。「指をここに付けなさい。」「私の脇に手を差し入れなさい。」と書かれている動詞は、ギリシャ語では、過去形の命令形で書いてあります。ギリシャ語の過去形の命令形は、聞く者に有無を言わせぬ行為を強制する言い方です。「あなたは私の手の釘跡に、必ず指を指し込まなければなりません。私の脇腹に手を差し伸ばして、槍の傷跡に必ず触らなければなりません。」と要求しているのです。トマスはイエス様の命令の言葉を聞いて、ゾ~っとして、背筋が凍り付きました。自分の言葉をイエス様が全て聞いておられたと悟ったのです。それでもうギブアップです。降参です。白旗を上げました。でもイエス様は許しませんでした。トマスに最後まで実行することを求めてきました。それくらいのすごい強制力が、ギリシャ語の過去形の命令形にはあるのです。トマスは泣きながら、イエス様の手のひらに空いた釘跡に指を指し入れ、恐る恐る手を脇腹に差し入れて、槍の差し傷に触りました。そしてイエス様の前にひれ伏して、涙ながらに言いました。「私の主。私の神。」トマスはイエス様を礼拝しました。
 ご自分の前にひれ伏して信仰告白をするトマスに、イエス様は言われました。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」福音記者のヨハネは、イエス様がこの言葉をトマスに言われたと書いていますが、ちょっと変ですね。もしトマスに向かって言われているとしたら、こう言われたのではないでしょうか。「あなたは私の手の釘穴に指を差し入れ、私の脇腹に手を差し入れて、傷を確認したから、信じたのですか。私に触らずに信じる者は、幸いです。」婦人の弟子たちはイエス様の御足を抱いて、復活のイエス様を信じ、殿方の弟子たちは、イエス様の体をじっと見て、釘穴に指を差し入れ、槍の傷跡に触れて信じました。弟子たちの中で、イエス様を見ただけで信じた人は、だれ一人いません。誰も彼もが皆、イエス様の体にべたべたと触ったのです。このように考えると、このトマスに言われたイエス様の御言葉は、トマスに言われたのではなく、トマスの様に疑い深い未来の私達に向かって言われた言葉と思われます。このトマスの言葉と行為を通して、後世の疑い深い人たちが、「うん、あの疑い深いトマスが確認してくれたのだったら、イエス様の復活は間違いない」と信じるためです。イエス様を見ないで信じて、イエス様に幸いな者と呼ばれるためです。そして、イエス様が神の子キリストであることを信じて、イエス様の御名によって永遠の命を得るようになるためです。
 十二弟子の一人と呼ばれたイスカリオテのユダは悪魔で、イエス様を十字架に掛けて死に至らしめましたが、それによってイエス様を古今東西の全ての人の罪の身代わりとさせる働きをしました。同じく十二弟子の一人と呼ばれたデドモのトマスは、その疑い深い性格を通して、単純な人から疑い深い人まで、見ないでもイエス様の復活を信じる人を多く起こし、多くの人に永遠の命をもたらす働きをしたのです。即ちイスカリオテのユダは、イエス様が全ての人の罪を贖うという任務の完了を手伝い、疑い深いトマスは、イエス様が勝ち得た罪の贖いの十字架の死を多くの人が信じて、永遠の命を得るようになるという手伝いをしたのです。

 このようにイエス様は、復活された日曜日とその一週間後の日曜日、弟子たち全員に現れてくださり、ご自分の復活の体を厳しい検査の対象として弟子たちの手に委ねられました。目視によるじっと見つめる検査だけでなく、ご自分の体、特に両手の釘の穴に指を指し込ませ、脇腹の槍の傷跡に触らせて、ご自分が十字架に掛かったイエスであることを確認させ、納得させました。特に本日は、両手の釘跡に指を差し入れ、脇腹の槍の傷跡に触らなければ決して信じない、と言い張る疑い深いトマスを用い、納得がいくまで強制的にご自分の体に触らせて、確認させたのです。このようにして確認漏れがないようにして、イエス・キリストの復活に対して、誰も異議を唱えることができないようにされました。
 そして言われました。「見ずに信じる者は幸いです。」復活されたイエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストが神の子である、ということを受け入れることです。大勢の弟子たちの厳しい検査を通った復活のイエスを、神の子キリストと受け入れて信じ、イエスの御名によって命を得させていただきましょう。このイエス・キリストを信じて永遠の命を持つことが、新型コロナウィルスや新たな災害に対する強力な武器となります。弟子達だけでなく、あなたにも永遠の命を得させるために、イエス・キリストは復活されました。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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