説教全文

2020年4月10日(日) 聖金曜日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「霊をお渡しになった」

ヨハネの福音書19章17-30節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日イエス様が十字架上でお亡くなりになったことで、四旬節も最高潮に達しました。イエス様は恐ろしい十字架刑を堪えられ、ご自分の霊を父なる神様にお渡しになり、お墓の中でゆっくりと休まれ、辛くて重い疲れを癒しておられることでしょう。本日イエス様は任務を終了されました。Mission Completedです。私達の罪を取り除く任務を完了してくださり、本当にありがとうございました。そして、イエス様は、ご自分の死を通して、父なる神様と交わる道を開いてくださいました。心より感謝申し上げます。
 本日亡くなられ、お墓に葬られたイエス様は、およそ30歳で宣教活動に入られ、3年余り活動されましたから、享年34歳位です。若いです。イエス様の宣教活動は、イスラエルの国内に限られていました。イエス様がイスラエル人に遣わされていたからです。それで、ご自分の弟子たちを教育して育て、病気や悪霊に悩む人々を癒(いや)し、死人をよみがえらせ、ご自分を信じるようにと導かれました。
 イエス様は生前の宣教活度を通して、ご自分が天国への門であり、ご自分を通らなければ誰一人父なる神様の御許に行けないことを教えられました。つまりご自分を信じなければ誰一人救われることは無いと教えておられたのです。これを裏返すと、イエス様と言う神様を信じるならば誰でも罪を赦(ゆる)され、義とされて、確実に救いに与り、天国に行くことができるということです。イエス様は「信仰によって義と認められる」という道を確立されたのです。この道をキリスト教では、信仰義認の教理と言います。
 この信仰義認の教理はイエス様によって始まったものではなく、イエス様が人間の姿を取って来られるおよそ二千年前に、神様からユダヤ人の先祖であるアブラハムに示されました。創世記15章の4~6節にこのように書いてあります。「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。・・・」「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主(ヤーウェ)を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
 このアブラハムに告げられた主の言葉は、受肉前のイエス・キリストが告げた言葉です。ですから、アブラハムの子孫であるユダヤ人たちが信じていたユダヤ教は、実はキリスト教だったのです。といいますのは、この創世記15章6節の御言葉については、イエス様の直接介入によって、超熱心なパリサイ人から超熱心なクリスチャンへと変えられた使徒パウロが、ガラテヤ人への手紙3章6節と7節でこのように言っているからです。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」使徒パウロはこの言葉によって、信仰による人々、すなわちクリスチャンは、アブラハムの子孫だと言っています。これを逆に遡ると、子孫である私達がクリスチャンならば、私達の先祖アブラハムもクリスチャンということになり、ですから、アブラハムに告げられた主のことばは受肉前のイエス・キリストの言葉となるのです。
 それではアブラハムの肉の子孫であるユダヤ人は、クリスチャンかというとそうではありません。使徒パウロは同じくガラテヤ人への手紙3章10節でこのように言っています。「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」モーセを通して律法を授かったイスラエル人は、信仰によって律法を守るのではなく、行為によって律法を守るという、行為義認の宗教に変質してしまいました。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』と書いてあれば、だれもが呪われないように一所懸命行ってしまいます。ユダヤ人も一生懸命律法を守りました。その結果「律法の呪い」に縛られてしまったのです。律法を命じられた神様をまず信じて、その上で律法を行えば問題なかったのですが、神様を信じないで、ただやみくもに律法を行うことだけに集中してしまったので、行為義認の考えに陥ってしまったのです。
 この様に行為義認の考えに芯まで染まったパリサイ人やサドカイ人らのユダヤ人たちが、イスラエルの国を統治していました。そのユダヤ人社会に信仰義認の教理を広めるイエス様が現れたのです。信仰義認の教理と行為義認の教理とは、真っ向から対立します。それでユダヤ人たちにとってイエス様は、指導者である自分達の地位を脅かす敵に見えました。民衆が皆イエス様に引き付けられていくので、イエス様を妬んだのです。信じるだけで罪が赦されるのだったら、行為によって安息日を守る教えも、生贄(いけにえ)を捧げて罪の清めを与える神殿礼拝も、意味をなさなくなるように見えたからでした。イエス様の教えは、神様を信じて律法を行うことだったのです。信仰が無ければ神様に喜ばれないからです。しかしユダヤ人はそのことが理解できず、それでユダヤ人の指導者たちはイエス様を亡き者にしようと決めたのです。

 最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈っておられたイエス様は、ユダヤ人の指導者たちから差し向けられた、神殿護衛兵等に捕らえられ、大祭司カヤパの邸宅で開かれたサンヘドリンという、政治と司法の最高議会で、裁判に掛けられ、一晩のうちに死刑判決が宣告されました。翌朝、イエス様は、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに送られ、ローマの法律に従って審問されました。しかし死刑に当たる罪は見つからず、総督ピラトはイエス様を釈放しようとしました。ところが、ユダヤ人たちは許さず、暴動になりそうなのを見て、総督ピラトは止む無くユダヤ人たちの要求を聞き入れ、無罪のイエス様を十字架に付けるためにユダヤ人たちに引き渡したのです。
 イエス様は、兵士らから十字架を背負わされ、処刑場であるゴルゴダへの道を歩み始めました。二人の罪人も各々十字架を担いでイエス様の後に従いました。ゴルゴダに来ると兵士たちはイエス様の着物をはぎ、イエス様を十字架に付けました。そしてイエス様を真ん中にして両脇に二人の犯罪人の十字架を立てました。この二人の犯罪人の十字架に罪状書きが掲げられたかどうかは分かりませんが、イエス様の十字架にははっきりと罪状書きが掲げられました。
 その罪状書きにはこのように書いてありました。「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」この内容は罪状らしくない内容です。「この十字架に掛かっているのは、ナザレ人イエスという、ユダヤ人の王様です。」と明確に表明しているからです。ですからこれは罪状書きではありません。この日本語で「罪状書き」と翻訳されているギリシャ語は、「ティトロス」と言い、英語風に発音すると、「タイトル」となります。日本語で言えば「称号」です。総督ピラトは、この称号を、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語の3カ国語で書き、「ナザレ人イエスをユダヤ人の王様として十字架に付けた」と当時の全世界に発信したのです。総督ピラトは、ユダヤ人の陰謀によって、イエス様が冤罪で十字架にかけられた、と表明したのです。
 ですから、この称号はユダヤ人にとって、最も見たくない称号でした。それでユダヤ人たちは、ピラトに頼んで「彼はユダヤ人の王と自称していた」と書きなおして欲しいと頼みました。でもピラトは「私が書いたことは私が書いたのだ。」と言って受け付けませんでした。一度宣告された判決理由は、一字一句たりとも変更してはならないのです。それで、イエス様の十字架刑は、正式にローマの歴史の中に組み込まれ、全世界に知られる所となり、それで地の果ての日本の私達の中学や高校の歴史の教科書にも載るようになったのです。

 そんなユダヤ人の騒ぎをよそに、兵士たちは、イエス様の着物を四人で分配するのに集中していました。問題は、上から下まで縫い目無しの下着でした。裂いてしまうと、使い物にならなくなり、単なるぼろきれになってしまいます。それで誰の物にするか、くじ引きをすることになりました。こうしてイエス様の千年前の先祖ダビデ王の詩篇22篇18節の預言の御言葉が成就したのです。「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
 兵士たちがこんなにのんびりしていたのには、理由が有ります。十字架刑は、絞首刑のように短時間で罪人を、死に至らしめることはできません。衰弱して死んで行くのを待つ残酷な刑罰です。通常3日から4日かかるからでした。それで、ゴルゴダに集まってきた見物人は、進展がない十字架刑に飽きてしまい、三々五々と引き上げていき、残されたのは、十字架を見張る兵士たちと、イエス様の関係者だけとなりました。それで、女の人達、特にイエス様の母マリアさんと三人の女性、それに弟子のヨハネがイエス様の十字架の前に立つことができました。イエス様が呼び寄せたのかもしれません。イエス様はお母さんの老後が心配でした。それでお母さんの世話を、一番信頼できる、愛する弟子ヨハネに託したのです。
 気がかりなことを全て片付け終えたイエス様は、聖書が成就するために「私は渇く。」と言われました。聖書の中には「私は渇く」というそのものずばりの預言の言葉はありません。しかしそれに近い言葉が有ります。詩篇69篇21節の御言葉です。「彼らは私の食物の代わりに、苦みを与え、私が渇いた時には酢を飲ませました。」多分この預言の御言葉を成就させたのでしょう。イエス様は言いました。「私は渇く。」そうしたら兵士の一人が、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝の先に付けて、イエス様の口元に差し出しました。まさに預言の通りです。
 イエス様は酸いぶどう酒を受け取られると、「完了した。」と言われ、頭を垂れて、霊をお渡しになりました。何が完了したのでしょうか。御子イエス様の受難とその死は、全て私達の罪の赦しのために行われたということです。イエス様が来られるまで、神様と人間の関係は敵対関係であって、罪を持つ人間は神様と会うことができませんでした。それでイエス様は、十字架上で死ぬことによって、「神様との和解」と「罪の贖い」を取り付ける任務を完了されたのです。また、神の小羊が世の人々のために偉大な犠牲となられたことで、私達の途方もない罪の身代金の支払いを、完了されたのです。そして買い戻しのために、贖いの小羊である御子の血が流されることにより、ただ一度きりで、全ての人の買戻しを永遠に完了されたのです。それで、誰でもイエス様を信じる人は、イエス様という門を通って、いつでもどこでも、神様とお会いすることができるようになりました。イエス様を信じる人は神の子とされますので、イエス様を通して、父なる神様はクリスチャンのどんな祈りでも聞いてくださるようになったのです。
 そして最後にイエス様は、霊を父なる神様にお渡しになられました。「霊」と日本語に翻訳されているギリシャ語は、「プニューマ」です。即ち「空気」です。いま世界中では、新型コロナウィルスによる感染が流行しており、多くの人々が肺の機能低下を招いて亡くなっております。肺が機能して新鮮な空気を、取り込むことができるなら、人間は生きることができますが、肺が機能しなくなると、死に至ります。創世記2章7節を見ますと、神様が人間を造られた時、「鼻から命の息を吹き込まれた」、と書いてあります。命の息とは空気のことです。お母さんの産道から出て来た赤ちゃんは、オギャーと産声を上げると言いますが、産声を上げるには、まず息を大きく吸い込まなければ出ません。ですから人間はだれしも最初の仕事が、息を吸い込むことなのです。この命の息を吸い込むことができれば、その人は生きることができるのです。

 しかしイエス様は、本日、最後の息を父なる神様にお渡しになりました。即ち、息を引き取ったのです。お亡くなりになりました。完全に死んだのです。息を引き取ることによって、イエス様はご自分の任務を完了させました。無実の神の子が罪人のように十字架に掛かって死ぬことは、天地創造の初めから、この世の終わりに至るまでの間にこの地上に誕生した全ての人間の罪をその身に引き受け、身代わりとしての死を遂げたことを意味しています。それによって、このイエス様を信じる人は、どんな悪人でも、たとえその罪がどんなに大きくとも赦され、地獄行きという滅びから救われ、天国に導かれるのです。即ち、その人はこの世に在って天国に入れられるのです。この世に在って天国に入るということは、神様に守られることを意味しています。イエス様はこの世におられた時、どんな病気も癒され、死人さえも蘇らせました。ですから、イエス様を信じるならば、全ての災いから守られるだけでなく、快適でワクワクするような人生を送らせていただけます。何しろイエス様はこの世を創られた方ですから、イエス様を信じる私達が、退屈するということは決してありません。大変面白く、奥深く、興味深い人生をあなたに味わってもらおうと、イエス様はあなたが信じることを待っておられます。あなたのため、私のため、そして全ての人の救いのために、本日イエス様は、父なる神様に、霊をお渡しになりました。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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