聞かれなかった祈りの結果
1.危機が迫った時、祈ったに違いない
パウロがまだファリサイ派の一員で、名前がサウロだった時
彼は、イエスを信じる人々を迫害しまくっており
ダマスコの信徒をも捕らえようとして、ダマスコに向かったのです。
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、
大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。
それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、
エルサレムに連行するためであった。
使徒言行録 9章1〜2節
ダマスコには、アナニアをはじめとした信徒が大勢いたといいます。
ダマスコにいたアナニアをはじめとした信徒たちは、サウロがダマスコに
迫害に来るという情報を得た時、どうしたでしょうか?
もちろん神に祈りを捧げたことは、想像に難くありません。
神に祈って「主よ、ファリサイ派のサウロがここに迫害しにやってきます!」
「どうか、私たちを守って下さい」と祈ったに違いありません。
サウロはダマスコに向かう途中で、イエスに出会いますので
もしそういう祈りをしていたとしたら、その祈りは確実に聞かれたことになります。
聖書には詳しく記されていませんので、想像にすぎませんがおそらくそうだったでしょう。
2.聞かれない祈りをしていたかもしれない
ここで考えたいのは、もし「サウロがダマスコに来るぞ」という知らせを聞いた時
人々が次のような祈りをしていたとしたら、どうだったかということです。
「主よ、サウロがここに来れないようにしてください」
「主よ、サウロが病気になって倒れて引き返すようにしてください」
「主よ、サウロがここに来れないように嵐を送ってください」
「主よ、サウロがここに来れないように彼の命をとってください」
このような祈りを、もしダマスコの信徒たちがしていたとしたなら
これらの祈りは、ことごとく聞かれなかったことになります。
なぜなら神は、サウロを救おうとしていたからです。
神のなされたことは、サウロをダマスコに行かせないようにすることではなく
サウロをダマスコ途上でイエスに出会わせ、ダマスコに着いたら
しっかりとアナニアから福音を聞かせ、そして洗礼を受けさせることにあったからです。
ですから、「ダマスコに来るな!」という祈りは聞かれなかったことになります。
3.祈っていたのと全く違う結果になった時どうなるか?
しかし、もしそういう祈りをしていた人たちがいたとして、
彼らはその後、どのような信仰になったと考えられるでしょうか?
「ああ自分の祈りは聞かれなかった!神は祈りに答えられなかった!」となったでしょうか?
違うのです。「神の計画は私の思いとは全く違っていた!」となるのです。
神の御心と、自分の思いの大きな隔たりに気付き、
自分の思いを、神の御心に合わせる結果になって行くことになるのです。
自分の思いで、神の御心と違った祈りをすることによって結果的に
自分の思いが是正されて、神の御心に自分の思いを合わせていくようになるのです。
祈る結果何が起こるかというと、神のみわざが起こりますが
自分自身の思いが、神の御心の方へと変化していくのです。
むすび.聞かれなかった祈りの結果、神の御心に自分の思いが変化する
ですから、祈りは大切なのです。
祈る時に自分が変えられていくからです。
神の御心にふさわしく整えられ、用いられる人へと備えられ整えられてゆくのです。
【今日の聖書】
しかし、アナニアは答えた。
「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対して
どんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、
祭司長たちから権限を受けています。」
使徒言行録 9章13〜14節