アザゼルの雄山羊
1.大祭司アロンによる民の贖罪のために2匹の雄山羊が用いられた
大祭司アロンは、年に一度イスラエルの民全員のために
神に罪を赦して頂くための贖罪の儀式を、臨在の幕屋とその庭で行いました。
まず自分と一族のために贖いの儀式を行い、その後民全体のために行っています。
その時に用いられたのが、2匹の雄山羊です。
1匹の雄山羊は主のものとして屠られて、その血が至聖所内の
贖いの座に、振りまかれました。
もう一匹は生かしておいて、アザゼルのものとされました。
アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、
一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。
アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。
くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、
生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、
荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。
レビ記 16章8〜10節
2.2匹の雄山羊のうち一匹は民全体の罪を負わされ荒野に追いやられた
アザゼルのものとされた雄山羊は、アロンによって
イスラエルの民全体の罪を、その頭に移されました。
そして、その雄山羊は人に引かせて荒れ野の奥へ追いやられたのです。
こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、
生かしておいた雄山羊を引いて来させ、
アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、
イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、
これらすべてを雄山羊の頭に移し、
人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。
レビ記 16章20〜21節
3.アザゼルの雄山羊はもはやどこにも見いだせなくなった
イスラエルの民全体の罪を、その頭に移されたアザゼルの雄山羊は
荒れ野の奥へ追いやられ、その後その姿はイスラエルの民の目には
どこにも、見いだせなくなったのです。
元々アザゼルの雄山羊の頭に移された「民の罪」も、目に見えないものですが
その民の罪を移されたアザゼルの雄山羊も、目の届かな愛遠方に追いやられたのです。
民には見出せなくなり、もはや民の前には二度と現れなかったのです。
アザゼルの雄山羊に移された民の罪は、荒野の奥へ消え失せてしまったのです。
どんなに探し出そうとしても、ちょっとやそっとでは見出すことはできないように
されてしまったのです。
むすび.私たちの罪はイエス・キリストの十字架の血潮で完全に赦されている
私たちの罪も、アザゼルの雄山羊に移された民の罪が荒野の奥へ消え失せてしまったように
いやそれ以上に完全に、イエス・キリストの十字架の血潮によって完全にゆるされて
神の目からは、消え失せているのです。
ですから神は、罪深かったはずの私たちの罪を認めず私たちを義とされるのです。
イエス・キリストの十字架の血潮がある限り、罪は神の目から消え失せてしまうのです。
私たちはもはや、過去の罪の裁きを恐れる必要はありません。
イエス・キリストの十字架の血潮による罪のゆるしを、喜ぶだけなのです。
民がアザゼルの雄山羊を追いかけたり、探そうとしたりしなかったように
私達もまた、悔い改めて赦された過去の罪を殊更に思い起こして嘆いたり悲しんだりしないのです。
【今日の聖書】
こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、
生かしておいた雄山羊を引いて来させ、
アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、
イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、
これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。
雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。
雄山羊は荒れ野に追いやられる。
レビ記 16章20〜22節