自分の十字架を担って主に従う
1.自分の十字架を担うことなしに主に従うことはできない
私たちは、主イエスに従いたいと願っています。
どのように従うべきか、イエスは教えて下さっています。
「自分の十字架を担って」従いなさい、というのです。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。
マタイによる福音書 10章38節
「自分の十字架を担わなくていいから、わたしに従ってきなさい」
というのではなく、「まず自分の十字架を担ってそして従いなさい」なのです。
ですから主に従う場合、自分の十字架を担うということが必要不可欠となってきます。
2.自分の十字架を担うことは、自分に死ぬこと
では、自分の十字架を担うというのは、一体どういうことなのでしょうか?
十字架が何であるか、それは恐ろしい死刑の道具です。
そこにイエスは、かかられて死なれたのです。
ということは、「自分の十字架を担うということは、自分に死ぬこと」ということに
なってくるのです。生きていますが、自分に死んで生きていくのです。
「自分はこうしたい、こうなりたい、これが欲しい」という欲望を捨てることになります。
その上で、イエスに従いなさいというのです。
まったく自分に死んで、キリストに生きるのです。
自分はもっとこれが欲しいあれが欲しいというのは、畑の中の茨になってしまいます。
せっかく種が落ちても、茨が塞いでしまって実を結べなくしてしまうのです。
自己中心的な欲望の茨を、心の中から抜き去ってしまう必要があります。
そして自分が生きるのではなく、まったくキリストが自分を通して生きるようにするのです。
3.自分に死んでキリストに生きる
そのことについてパウロは、次のように語っています。
生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 2章20節(前半)
もはや、私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きているのだ、と言うのです。
これが自分の十字架を担い、自分に死んだ生き方なのです。
そのパウロは生涯、主イエスに大きく用いられる結果になっています。
パウロは自分を誇ることもせず、自分の欲望を満たそうと生きることもせず
ただ主の召しに従って、主のご計画を実行に移していったのです。
むすび.自分に死んでキリストに従って生きていく
主が「自分の十字架を担って、わたしに従いなさい」と言われているのであれば
私たちはその言葉通りに、生きていきます。
自分の十字架を担い、自分を捨て、自分に死んで主に従います。
自分に死ぬと、自分のうちにキリストが生きることができるのです。
自分に死なないと、自分のうちには自分が生きてしまい
キリストが生きることが、できなくなってしまうのです。
パウロの様に「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と
告白できるような生き方が、本来あるべき生き方ですので、
そのためにはまず、自分自身に死ぬことが必要になります。
【今日の聖書】
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、
それを失い、わたしのために命を失う者は、
かえってそれを得るのである。」
マタイによる福音書 10章38〜39節