五度、六度と射るべきだった
1.エリシャはヨアシュ王に「矢を射なさい」と指示した
エリシャが死の病を患っていたとき、イスラエルの王ヨアシュが
エリシャのところに訪れます。その時エリシャはヨアシュに、
「弓と矢を取りなさい」と言い「東側の窓を開け、矢を射なさい。」と言います。
ヨアシュ王は、その通りにします。
エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言うので、王は弓と矢を取った。
エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、
エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓を開けなさい」と言った。
王が開けると、エリシャは言った。
「矢を射なさい。」
列王記下 13章15〜17節(前半)
2.エリシャは「アラムに対する勝利の矢」と宣言した
エリシャはその矢について「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。」
と言います。放たれた矢は、アラムに対する勝利の矢だと言ったのです。
単なる矢ではなく、アラムに対して勝利する矢だと言ってその意味を示したのです。
王が矢を射ると、エリシャは言った。
「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。
あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす。」
列王記下 13章17節(後半)
空中に向かって放たれたものではありましたが、その矢は確実に
アラムに対する勝利をもたらすことを、約束された矢だったのです。
矢を射るということが、今後のアラムへの勝利を意味していたのです。
3.さらにエリシャはヨアシュ王に「地面を矢で射なさい」と指示した
さらにエリシャは、ヨアシュ王に「地面を射なさい」と言いいます。
ヨアシュ王は、エリシャに言われた通りに矢を射ます。けれども、三度地を射てやめます。
またエリシャは、「矢を持って来なさい」と言った。
王が持って来ると、エリシャはイスラエルの王に、「地面を射なさい」と言った。
王は三度地を射てやめた。
列王記下 13章18節
ヨアシュ王は「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。」と言われた矢を
3度射ってやめました。そして3度でやめたことについて、エリシャは怒るのです。
神の人は怒って王に言った。
「五度、六度と射るべきであった。
そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。
だが今となっては、三度しかアラムを撃ち破ることができない。」
列王記下 13章19節
4.ヨアシュ王は三度でやめてはならなかった
ヨアシュ王がなぜ、3回でやめてしまったのかは詳しくは書かれていません。
「こんなことをして、何になろう」「本当にアラムに勝利できるのだろうか?」と
疑っていたのかもしれませんし、「3回ぐらいでいいか」と思っていたのかもしれません。
そんなヨアシュ王に対してエリシャは、せっかく勝利が約束された矢なのに、
「3回でやめるとは何事か!」「5度も6度も射るべきだった」と怒っています。
3度でやめてはならなかったのです。
5.ヨアシュ王は、ことの重大性に対する認識が甘かった
ヨアシュ王がこの時、「エリシャに言われた通りに矢を射る」ということの意味を
軽く考えていたということ、これは明らかです。真剣に受け止めていない、中途半端さがわかります。
それ程重大な行為であるということを、認識できていなかったわけです。
それをすれば勝利が約束されているのに、たったの3回でやめてしまった所に
彼の認識不足が、如実に表れています。
確かに地面に矢を射るという行為は、それ自体ばかばかしい行動に見えます。
「地面に矢を射ったところで、どうにかなるものではないでしょう?」
通常はそう考えます。しかし違ったのです。ばかばかしくも何もなかったのです。
逆に、重要極まりないことだったのです。それによって国全体の勝敗が決まっていたのです。
むすび.繰り返し祈り続けることの重要性
祈りにおいても同様です。祈りは、傍から見れば何の力もないように見えます。
何か見えないところに向かって、ひとりごとを語っているような
虚しいことをしているかのように、見えます。
しかし、それは違うのです。虚しくないのです。
イエス・キリストの名前によって祈る祈りは、確実に神のみ前に届いているのです。
そしてその祈りに神は、確実に答えて下さいます。
もし、祈りが単なるひとりごとで、自己満足だけをもたらすものだと考えてしまうのなら、
続けて祈ることなどしないでしょう。神に届くはずがないと考えていても、続けて祈らないでしょう。
しかし、そうではなく神に届き神が確実に答えて下さると信じるならどうでしょう?
二度三度でやめることは、ないでしょう。
五度も六度も、いや答えを得るまで祈り続けることでしょう。
そこが大事なのです。私たちは神に祈り続けることを、生涯していくのです。
私たちは、五度も六度も十度もに二十度も、百度も二百度も祈り続けていくのです。
祈りは、...確実に答えられていくのです。確かに神は聞いておられます。
祈り続ける時、...それを自分自身で体験できるのです。
そして神が確かにおられること、私を愛して下さっていることを
体験することができるのです。
そして、私たちの信仰は大きく成長します。神がより近くに感じられるようになるのです。
確実に自分自身が変わっていくのです。
【今日の聖書】
神の人は怒って王に言った。
「五度、六度と射るべきであった。
そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。
だが今となっては、三度しかアラムを撃ち破ることができない。」
列王記下 13章19節