失われたものを探す神
はじめに.失われたものが元に戻る3つの話
ルカによる福音書15章には、失われたものを探し出す話が出ています。
100匹の羊、10枚の銀貨、2人の息子たちの3つの話です。
@100匹の羊の話
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、
その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、
見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
ルカによる福音書 15章4節
A10枚の銀貨の話
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、
その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、
見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
ルカによる福音書 15章8節
B2人の息子たちの話
また、イエスは言われた。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、
『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。
それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、
遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、
財産を無駄使いしてしまった。
ルカによる福音書 15章13節
数が100匹→10枚→2人と、3つの話で徐々に減っていきます。
失われるのは、羊では百分の一、銀貨では十分の一、息子では二分の一です。
すべての話で、最後には失われたもの(羊、銀貨、人)が見つかって喜んで終わります。
1.失われた羊と銀貨は一生懸命捜されている
羊の話と、銀貨の話の共通点は何でしょうか?
羊の話では、100匹の羊の内1匹を失ったら見つけ出すまで捜し回り
銀貨の話では、10枚のうち1枚がなくなったら、見つけるまで捜すという
双方とも、「なくなったものを捜す」という共通点があります。
羊の場合は、99匹を野原に残しておいてでも捜し回り
銀貨の場合は、ともし火をつけ家を掃いて、念を入れて捜しています。
捜しているという共通点がありますが、さらに言えば
『熱心に』捜しているという、共通点もあります。
とにかく、見つけ出すまでは執拗に捜す姿が、そこに描き出されています。
2.父は放蕩息子を捜しに出かけていない
ところが、放蕩息子の話では父親は、家出した弟息子を捜しに行かないのです。
前の2つの話のように、捜していないのです。
父親のしたことは、弟息子の要求通りに財産を二人に分けただけです。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えてしまいますが、
それを咎めもせず、遠い国に旅立つままにし、そこで弟息子が放蕩の限りを
尽くしていても、財産を無駄使いしていても、父親は家にいるのです。
前の羊の話のように、父親は兄を置いて遠い国に弟息子を捜しに行き
弟息子を見つけるまで、捜し回ったりするようなことはしていません。
銀貨の話のように、見つけるまで念入りに捜すということをしていないのです。
父親はずっと家にいるのです。
弟息子を、見放していたのでしょうか?あきらめていたのでしょうか?
なぜ父親は、家出した弟息子を捜しに行かなかったのでしょうか?
3.父親は弟息子が家に帰ってくる姿を捜していた
父親が捜していたのは、何だったか?それは、次の文章からわかってきます。
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は弟息子を見つけて、憐れに思い、
走り寄って首を抱き、接吻した。
ルカによる福音書 15章20節
父親は、まだ遠く離れていたのに、帰って来た弟息子を見つけています。
そして、憐れに思い弟息子に走り寄っています。
父親は、弟息子の「心が変わる」のを待っていたのです。
「心が変わって帰ってくる姿」を、捜していたのです。
これが前の2つの話と、違う点なのです。
物理的に弟息子の「存在自体を捜して見つける」ということでは解決しなかったのです。
弟息子が「父の元に戻ろう」という心で、家に帰ってくる姿を探していたのです。
心が変わっていなければ、居場所を尋ね当てたとしても徒労に終わってしまいます。
「俺は二度と家になど帰らない!帰ってくれ!」で、終わったことでしょう。
物理的な存在を捜すことは、真の解決になっていなかったのです。
家出した弟息子を探しには出かけていませんが、父の元に戻ってくる弟息子の姿は
いち早く見つけて、走り寄っているのです。
むすび.強制ではなく自発的に神に立ち返るのを待つ神の愛
父なる神は、罪人が悔い改めてご自身の元に帰ってくる姿を捜しておられるのです。
罪人が悔い改めて、イエスを信じ、イエスの十字架の血潮でゆるされる事を求めるのを
心から願って、待っておられるのです。
罪に溺れている時に、強引に強制的に信じろとは言われず
自分の意志で、神のもとに帰ろうとする心を待っておられるのです。
そして神のみもとに少しでも帰ろうという心になった時に、
走り寄って、救い出してくださるのです。
今までの罪や、悪しき行いを責めることをせずにすべて赦し
全面的に迎え入れて下さるのです。そこに大きな愛があるのです。
これが、人間の場合その逆をやってしまいがちなのです。
出ていく息子を追いかけて、「帰ってこい!」と強引に連れ戻そうとし、
逆に「誰がそんな家に帰るものか!」と、もっと遠くに逃げられてしまうのです。
そして、息子が心を入れ替えて家に戻ってきた時、走り寄るのではなく、
「もうお前など息子ではない!」と怒鳴りつけ、叱り飛ばして追い出してしまうのです。
家に居場所をなくした息子は、また家を出てしまいもとに戻ってしまうのです。
これは、神の愛とは逆の姿です。
このように、愛の逆をやってしまうのが、人間の弱い姿なのです。
神の愛にならって、人を愛することが求められています。
私たちには、人を強制せずにその人の心が変わるのを待ち、
心が変わった時に、それにいち早く気づき、駆け寄る姿が必要なのです。
そこには強制など微塵もありません。あるのは無条件の愛だけなのです。
【今日の聖書】
人の子は、
失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書 19章10節