心を込めて愛し合いなさい
1.自分の欲に死ぬことなしに愛することはできない
クリスマスは、父なる神が私たちにひとり子イエス・キリストを
与えて下さったことを、喜ぶ日です。私たちへの神の愛を、喜ぶ日なのです。
そして神が私たちを愛してくださったように、私たちもまた隣人を愛するのです。
愛は、正しさと両立します。
愛と罪は、両立しません。
愛と欲も、両立しません。
「私もこれが欲しいけれど、でもあなたにあげます」というのが、愛です。
「私もこれが欲しいから、あなたにはあげません」というのは、愛ではありません。
自らの欲に死ななければ、人を愛することなどできないのです。
2.愛は好きとは正反対、嫌いであっても最善を尽くす
2.1 「好き」というのは自分自身の欲望そのもの
愛は自分に死んで、人を生かします。
その点が「好き」と正反対なところです。「好き」は、自分の欲望そのものだからです。
「好き」というのは、私があなたを「好き」なだけであって
相手の気持ちとは、リンクしていません。相手の気持ちには無関係なのです。
相手から好意を持たれたから、自分も好意を持つようになるということは確かにあります。
しかし相手から好意を持たれても、必ずしも自分もそうなるとは限らないのです。
2.2 「好き」というのは自己中心であり相手の気持ちとは無関係
「好き」というのは、自己中心なのです。自分が、相手を好きなだけなのです。
「私があなたを好きだから、あなたも私を好きになってほしい」という具合に
自分の思い通りに、相手を動かそうとしてしまうのです。
相手がほかの人を好きな場合、嫉妬が生まれます。
相手が好きなもうひとりの人に対する、憎しみが生まれることもあります。
相手の気持ちを尊重して、相手の最善を求めるのではなく、
「私があなたを好きだから、あなたも私を好きになるべきだ」
「あなたはあの人から離れて、私を好きになってほしい」という具合に
自分の「好き」という欲求を通そうとしてしまうのです。
2.3 「愛」は自分の欲望や感情とは無関係な相手に対する意志
愛するというのは、自分の欲望や好き嫌いを捨てて「相手の最善」を求めます。
相手がほかの人を好きであるなら、その人の願いが叶うように最善を求めるのです。
自分がたとえ好きであっても、自分の願いを押し通すことはしません。
また逆に自分が相手を嫌いであっても、「あなたの敵を愛しなさい」を実行するのです。
自分に損害を与えひどいことをしてくる相手であっても、その人の最善を求めるのです。
「好き」とか「嫌い」などの感情は、「愛」とは無関係なのです。「愛」は感情ではなく意志なのです。
3.愛は口先の言葉でなく、実際の行動が伴うもの
真実な愛は、口先の言葉ではなく行動に現れます。
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、
その日の食べ物にも事欠いているとき、
あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。
温まりなさい。
満腹するまで食べなさい」と言うだけで、
体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
ヤコブの手紙 2章15〜16節
言葉だけでなく、実際に相手を生かす行動をすることこそが
真実な愛です。イエス・キリストは実際に十字架でご自分の命を捨てて
私たちに、永遠の命を与えて下さったのです。
いかに実際に隣人に与えるかが、問われているのです。
むすび.欲や感情に関係なく行動の伴う愛で愛する
イエス・キリストのように、自分の欲を捨て
好き嫌いの感情に関係なく、たとえ嫌いであっても
行動を伴う真実な愛で、心を込めて愛することが求められています。
【今日の聖書】
何よりもまず、
心を込めて愛し合いなさい。
愛は多くの罪を覆うからです。
ペトロの手紙一 4章8節