わたしたちがまだ罪人であったとき
イエス・キリストの、十字架の血潮による赦しは
私たちが罪を悔い改めてから、流されたのではありません。
私たちがまだ、罪を罪とも思っていなかった時に流されたのです。
キリストの、十字架の血潮による罪のゆるしは
私たちが罪人であった時に、すでに提供されていたのです。
そして、私たちが自分の罪に気づき、イエス・キリストの
十字架の血潮による赦しを受け入れた時、
そのゆるしは、私たちのものとなってゆるされたのです。
とするならば、私たちも隣人の罪をゆるすとき
彼が謝ってきたらゆるそう、というのではなく
彼がたとえ謝ってこなくても、私は彼をゆるします
というものである必要があります。
相手の状態によらず、自分はゆるしますという態度でいること
これこそ、イエス・キリストの十字架のゆるしの姿勢なのです。
その人の罪を容認するのではなく、その人の罪をゆるすのです。
それは明らかに私に対する悪だけれども、
私は、それを彼がしなかったことにしますと決断するのです。
キリストが、まだ悔い改めていない人々のために、
十字架にかかって、血潮を流してくださったように。
【今日の聖書】
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5章8節