赦すことは悪の容認でも忘却でもない
1.罪のゆるしは悪の容認ではない
赦す(ゆるす)ということは、どういうことでしょうか?
赦すことは、その人がやってしまった悪いことを容認する事ではありません。
「お金を盗みました」「いいよ、そんなの悪いことじゃないよ」ではないのです。
「お金を盗む行為」は、あくまでも罪の行為であって悪です。
「お金を盗むことは悪いこと」という点については、崩してはなりません
「お金を盗んでもいいよ」ではないのです。
2.罪のゆるしは悪を行わなかったことにすること
お金を盗んだ相手を赦すことは、その人がしてしまった行為に関して
それが「悪い行為であること」には違いないけれども、
「それをあなたが『まったくしなかった』ことにします」ということなのです。
事実、「あなたが悪を行ったこと」は間違いないですが、
「私はあなたがそれをやらなかったことにします。」ということなのです。
似ていますが「悪を行ったことを忘れます」というのではありません。
悪を行った事実は、忘れ去ることはできないけれども
「やらなかったことにする」ことはできます。
イエス・キリストは、罪を犯した私たちにそうしてくださっているのです。
3.罪のゆるしはイエスの身代わりによって実現した
イエスが、私たちに対してして語りかけておられるのは
「あなたがやった悪の行為を、私がしたことにします。
そしてあなたは、まったくしなかったことにします。」ということです。
「だからあなたは、自分自身の罪の裁きを受けなくても大丈夫です。
わたしがあなたに代わって、罪の刑罰を受けてあげましょう」
というのが、イエス・キリストが私たちに与えて下さったメッセージなのです。
そして、イエスが私たちに代わって受けられた罪の刑罰こそが
十字架なのです。イエス・キリストご自身が、全人類の罪を背負って
全人類の身代わりとなって、十字架で血を流して死んでくださったのです。
むすび.ただただ一方的なゆるしという恵みを頂いている
イエス・キリストの十字架の血による「罪のゆるし」というのは、
罪の行為を「忘れた」というのでも、罪の行為を「容認した」というのでもなく、
私たちの罪は罪として、神の前に悪であるとした上で
その罪の刑罰を「イエス・キリストが身代わりに受けて下さった」ことによって
私たちが、「自分の罪の刑罰を受けなくてもよいようにしてくださった」
ということなのです。これを私たちは、ただただ受け取るばかりなのです。
だから恵みなのです。
一方的な愛であり、私たちの行いとは一切無関係なのです。
この恵みを信じて受け取るかどうかは、私たちひとりひとりにかかっているのです。
【今日の聖書】
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙 2章8節