獄から解放されてからではなかった
1.パウロはエフェソの信徒へ手紙を書いた
パウロは、エフェソの信徒への手紙を書いています。
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
エフェソにいる聖なる者たち、
キリスト・イエスを信ずる人たちへ。
エフェソの信徒への手紙 1章1節
2.パウロは獄中から手紙を書いていた
どこから書いているか?というと
わたしはこの福音の使者として鎖につながれています
エフェソの信徒への手紙 6章20節(前半)
とあることから、獄中から書かれていることがわかります。
「鎖」という言葉を、比喩的に使っていたのではないか?と思うかもしれませんが
実際につながれていたことは、次に続く文からわかります。
それでも、語るべきことは大胆に話せるように、
祈ってください。
エフェソの信徒への手紙 6章20節(後半)
「それでも、」と言っていることから
普通は鎖につながれていたら、福音を語るどころではないけれども
「それでも」語るべきことは大胆に話せるようにと、語っていたことがわかります。
ここでいう「鎖」は、比喩でもなんでもなく
実際の獄中における鎖だったということが、わかります。
パウロはまさにこの時、獄に入れられ鎖につながれていたのです。
3.「まず私が獄から解放されるように」というのではなかった
しかしパウロは、「獄から解放されるように祈ってください」とは言っていません。
「まず私が獄から解放され、その後で福音を大胆に語れるように祈ってください」
というのではなく、「獄の中で鎖につながれていても、福音を語れるように」なのです。
私たちは普通、大変な状況に置かれると
「こんな状況では、福音を語るどころではない」と考えてしまいがちです。
「この状況が何とか収まってくれたら、福音を語れるのに」と思うのです。
しかしパウロの考え方は違うのです。
「獄から解放されたら、福音を大胆に語れるように祈ってください」ではなく
「獄の中からでも、福音を大胆に語れるように祈ってください」なのです。
むすび.ひどい状況が収まったらではなく、ひどい中でも!
私たちもまるで獄中かのような、ひどい状況に置かれることが
あるいはあるかもしれませんが、また今現在そういう状況かもしれませんが
その状況が収まったら、キリストの福音を語れるようにというのではなく
パウロの様に、そのような状況の中でも「それでも」
すべての人にとって、聞かなければならない大事な福音を
大胆に語れるように、願って進んでいきたいと思います。
【今日の聖書】
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、
それでも、語るべきことは大胆に話せるように、
祈ってください。
エフェソの信徒への手紙 6章20節