コーヒー豆
1.砕かれて粉になって初めて用いられる
コーヒー豆にお湯を注いでも、美味しいコーヒーはできません。
コーヒー豆は、挽いて粉にしなければなりません。
ミルでガリゴリと挽いて、粉々にしないとコーヒーはできないのです。
私たちも同じです。
砕かれて、粉々にされて、はじめて用いられていくのです。
傲慢な頑なな心のままでは、神はそういう人を用いることができません。
今日も神は、わたしたちの心をミルにかけて下さり
粉々に砕いて下さるのです。
苦しみに会った時、「これがわたしを砕くミルか」と考えるのです。
2.イエスは十字架の上で砕かれて死なれた
イエスは、その模範を示して下さいました。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、
わたしたちはいやされた。
イザヤ書 53章5節
イエスこそ、砕かれることの見本となってくださったお方です。
何ひとつ悪いことは行っておらず、正しいことのみ行なったにもかかわらず
罪人とみなされ、怒鳴られ、あざけられ、鞭打たれ、十字架につけられたのです。
それこそが、砕かれるということなのだと示して下さったのです。
正しいことをしているのに、怒鳴りつけられたり
怒りを買ったり、嘲笑されたりすると、普通は怒りを覚えます。
しかしイエスは怒っていません。
そのとき、イエスは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」
人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ルカによる福音書 23章34節
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」
と祈っているのです。これこそが、この姿こそが模範なのです。
3.ひどいことが襲ってきた時に「ミル」だと思う
正しいことをしているのに、誤解された
怒鳴られた、殴られた、無視された、ひどいことを言われた
そういう体験は、私たちを粉にしてくれます。
その時に、相手を恨んだり憎んだりしたら負けです。
逆に、「おっ!ミルがやってきたぞ。ガリゴリと削ってくれるんだ」
と考えるのです。そういうことこそが、自分を砕いてくれるのです。
むすび.
コーヒー豆のように、砕かれて粉々になって初めて用いられます。
豆のままでは、誰もお湯を注いでくれません。
粉になって初めて、注がれるのです。
大事なことは、砕かれることなのです。
【今日の聖書】
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
詩編 34編19節