希望
島根大学にも、この春新入生が入学し1か月経ちました。
新型コロナウィルスの影響で、学内に通学せずにオンラインで授業を受けるという
変則的状況ですが、それでも大学生として新たな学びを始めています。
その新入生たちも、去年の今頃はまだ受験生だったわけです。
その頃は、どんな気持ちだったでしょうか?
「島根大学に入りたい」という「希望」を持っていたことと思います。
今の高校3年生たちも、同様でしょう。
「来年の今頃は、島根大学生になっていたい」という希望をもって
受験勉強に励んでいることと、思います。
それでは、新入生たちの今現在はどうでしょうか?
今でも「島根大学に入りたい」という「希望」を持っているでしょうか?
すでに、その希望は実現して「現実」になっているのです。
そういう希望は、終わりを遂げているのです。
実現してしまった希望は、もはや希望でなく事実であり現実なのです。
実現してしまったことを、希望することはもはやあり得ません。
大学生なのに、「大学生になりたい」という希望はもちようがありません。
希望は「実現するまでが希望」なのです。実現したら「現実」になるのです。
希望がかなった時点で、希望は喜びに変わるのです。
大学から合格通知が来た時の喜びは、大きいことでしょう。
「やった!これで今年の春から、島根大学生だ!」
希望がかなった喜びに、心は踊るのです。
大学受験に限りません。
結婚、出産、就職、昇進、資格取得、家や車などの欲しかったものの取得、
数え上げればきりがないでしょう。
希望は、かなえられるまでが希望です。
希望というのは、今は実現していないけれども
将来実現してほしいことに対して、抱くものです。
それが実現してしまったら、希望とは言いません。
逆に言えば、実現していないからこそ希望が持てるのです。
実現していないときに、いかに希望を持つか
そこが問われています。
神は私たちに、最善をして下さいます。
最も良いものを与えて下さるのです。
それを、私たちは待ち望んでいるのです。
信仰をもって、希望をもって待ち望んでいるのです。
【今日の聖書】
希望の源である神が、
信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、
聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
ローマの信徒への手紙 15章13節