愛は自慢しない
1.愛は自慢しない
コリントの信徒への手紙1には、愛についてその内容が列挙されています。
全部で15項目が、列挙されています。
そのうちの4番目が、「自慢しない」です。
愛は自慢せず、
コリントの信徒への手紙一 13章4節(抜粋)
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ペーペリュウオマイ |
自慢する【動詞】
自分を偉そうに見せびらかす,
ほらを吹く,自慢する
引用:織田昭編 新約聖書ギリシャ語小辞典 改訂第4版
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2.自慢は偽りの自分を相手に示すこと
2.1 自慢は偽り
「愛は自慢せず」の「自慢」という言葉は、
「自分を偉そうに見せびらかす、ほらを吹く」という意味を持つ言葉です。
「本当は偉くも何ともない」のに、あたかも「偉い」かのように見せるわけです。
「偉くないのに偉いように見せる」、これは事実ではない状態を相手に示すことであり、
「偽りの行動」に他ならないのです。「ほらを吹く」ことと同じ意味になってきます。
このように、「自慢」は「嘘」をついているのと同じなのです。
2.2 偽ることは愛の逆
相手に嘘を言って相手をごまかすことは、愛ではありません。
自慢が「偽りの自分」を相手に示すことであるなら、相手に真実は伝わりません。
自慢することは真実な行動ではないので、愛ではないのです。愛の逆なのです。
自慢が「嘘をつくこと」と同じだとするなら、当然捨てなければなりません。
神は、真実を求めておられるからです。
自分を立派に見せるのではなく、自分の真の姿を示すべきなのです。
2.3 本来自慢できるようなことなどないはず
自慢は「自分を誇る」ことですが、罪人である以上、本来、自分自身には、
誇れるようなことなど、一つもないはずです。にもかかわらず
あえて誇ろうとするなら、それは偽りの自分を相手に示そうとしていることになります。
いくつかの能力や技術が他人よりも長けていたとしても、だからと言って
人間として、他の人よりも優れているわけではないのです。皆同じです。
いくつかの能力を誇ったとしても、他の人同様「罪人」なのです。
優れた能力や多くの知識や経験も、罪が台無しにしてしまっているのです。
優れたドライブテクニックで運転していても、そのテクニックでスピード違反をしていたら
せっかくのテクニックも、台無しになってしまいます。それと同じです。
3.自慢は隣人を自分の下に置こうとすること
3.1 自慢は自分の優越性を相手に示す
自慢は自己中心です。
「他の人より、自分の方が優れている」と語って、自分の優越性を示すのが自慢です。
自慢話を聞くと、聞いた人は嫌な気持になります。なぜでしょうか?
「あなたは、私より劣っていますよ」というメッセージを受け取ってしまうからです。
「私の着ているこの服すごいでしょう!」と、自慢されたら
「でもあなたの着ている服はダメですね」と聞かされているのと、同じことになります。
3.2 自慢は相手を下に置く
自慢は相手を蔑むことに、つながっているのです。
自慢というのは、相手を自分の下に置くことです。
「自分はすごいでしょう!」と言うのは、
「私は、あなたよりすごいんですよ」というメッセージなのです。
自分を誇ると同時に、他の人を自分の下に置いてしまう
そういう行為に、なってしまうのです。
人を踏み台にして、自分を高めようとしているのです
人を殺して、自分を生かす行為なのです。
だから愛ではないのです。
3.3 自慢は自分の存在価値を見出そうとする行為
なぜ、自慢して人を下に置こうとしてしまうのでしょうか?
相手を自分の下に置いて、自分の価値を高めようとするからです。
そうやって、自分の存在価値を保とうとするのです。
「あの人よりも私は価値がある」だから私は
「今生きている価値があるんだ」としたいのです。
そうやって、自分の存在価値を、他の人との比較で見出そうとするのです。
「私はあの人よりも優れているから、この世に生きている価値があるんだ」
としたいのです。それは「人から認められたい」という欲求の表れでもあります。
自慢は、自分の存在価値が見いだせないからしてしまうのです。
むすび.自慢などせずとも存在価値は充分ある
むすび.1 財産・経験・才能によらず私たちは非常に尊い存在
けれども自慢などせずとも、「自分は他人より優れている」と示そうとしなくても
すべての人は、神によって創られた尊い貴重な存在なのです。
存在価値、すなわち生きている価値は充分過ぎるほどあるのです。
何か他の人が持っていないような高級品を持っているから、
何か他の人が持っていないような、多くの経験を積んだから、
何か他の人が持っていないような、多くの才能があるから、
それで、貴重な存在になるわけではないのです。
それらを、あふれかえるほど持っていたとしても、
そのことを自慢したとしても、自分自身の価値とは無関係なのです。
むすび.2 貴重な存在であるのに罪が滅茶苦茶にしている
神はひとり子イエスを与えるほどに、ひとりひとりを愛しておられます。
それだけ、貴重な存在なのです。生きているだけで、貴重なのです。
それを破壊してしまっているのが、私たちの内にある罪です。
罪が、わたしたちの本来の価値を台無しにしてしまっているのです。
罪人である以上、罪が解決しない限り最後は滅びなければなりません。
天で生きる価値なしと、審判されてしまうのです。
罪は、永遠に存在していなければならない人間を、
存在してはいけない者に、変えてしまっているのです。
そのため、罪の中で生きていると「生きている価値なんてない」と感じてしまうのです。
むすび.3 キリストによって神に立ち返るなら自慢など捨てられる
罪というのは、神という本来の夫を捨てて、
他の男性と、不倫している妻のようなものです。
ですから、その不倫の罪から離れれば良いのです。
不倫をやめて本来の夫の元に帰ればよいのです。
本来の夫である神のもとに、帰れば良いのです。
本来の夫である神のもとに帰る道は、イエス・キリストを信じる以外にありません。
イエス・キリストを信じて、神のもとに帰るなら、本来の価値ある自分に戻ります。
神に愛され神を愛する、本来の麗しい関係に戻るのです。
自慢などする必要は、なくなります。
【今日の聖書】
しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、
自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。
そのような知恵は、上から出たものではなく、
地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。
ヤコブの手紙 3章14〜15節